All Things Must Pass (2)













 翌日の午後三時、公民館の会議室に来てみると、恰幅のいいご婦人がたが三十人ほども群れていて、彼もおれもしばし呆然と、戸口に立ち尽くしてしまった。
 「あら、ごめんなさいね。もう時間が過ぎちゃってたなんて」
 夢中で歌ってると、時が経つのも忘れちゃうわねと、一段と恰幅のよいご婦人がころころと笑う。みな、「歓喜の歌」の楽譜を持っていた。地元の市民コーラスだという。
 「あなたがたも練習でお使いになってたの? 残念ねえ、建て替えの後、会議室にピアノは置かないそうですよ。私たちも、別の練習場所を探さないと」
 「ピアノは? ピアノは、どうなるんです?」
 急き込んで尋ねた彼に気圧され、さすがのご婦人も少々めんくらったようだ。しかしすぐににこやかな表情を浮かべて、わずかにしなを作った。目の前で眉間に皺を刻む、仏頂面で姿勢の悪い男が、案外みめよいということに気づいたのだろう。
 「幼稚園に、寄付されるんですって。でもそれじゃあ私たちは使えないしねえ……」
 彼女たちが去り、喧噪の余韻も消えてようやく、彼は愁眉をひらいて息をついた。肩に漲っていたこわばりが、わずかではあるが抜けている。
 「よかったじゃないか、アルベルト。ピアノの行方、気がかりだったんだろう?」
 「……ん」
 「まさか、引き取ろうと思ってたんじゃなかろうな?」
 「ば、馬鹿言え!」
 声がうわずっている。図星かい、と呟くと、彼はむっつりと押し黙り、ピアノの蓋を開け、癇性に鍵盤を拭いはじめた。それでもまだ、首筋まで赤い。あらためて襟を正す思いで、おれは部屋のすみに寄せられていた椅子をひとつ引き寄せ、腰掛けた。
 鍵盤の手入れを終え、彼はピアノの前に座り、鍵盤をじっと見つめている。というよりは、睨んでいる。弾きはじめる気配はない。いつもなら、時間が惜しいとさっさと弾きはじめるところだ。しかしその様子は、彼にはじめてここに連れてこられた日のことを、おれに思い起こさせた。
 あのときと、まったく一緒だ。






 あれはまだ、東西冷戦の激しかった時代のこと。日付の変わるころにかかってくる電話が、彼からのものであることはめずらしくなかった。しかし、頼みがある、あんたにしか頼めないことだと突然、切実な声音で告げられ、おれはひどく緊張していた。
 しかも数日後、書留で送られてきたのは、日付を変更できないケルン行きの往復航空券。当時は別のシアター・クラブに出ていたのだが、スケジュールを変えてくれと言ったら、解雇されてしまった。こちらにも日々の生活がある。おれの自由意志はいったいどこに失せちまったのかと悪態をつきながらも、結局ケルンに飛ぶしかなかった。
 空港に迎えに来ていた彼の車に乗り込み、連れて来られたのが、この公民館である。会議室に入り、そこにピアノを見出して、はじめてなにを求められているのかを知った。
 彼の数奇な生い立ちも、ピアノを本格的に学んでいたことも、すでに知っていた。自動車修理工として働くいっぽうで、反共主義者が集まる地下クラブで、ピアノを弾いていたことも。しかし、今も弾いていたとは、まさか思いもよらなかった。恐れを知らぬ戦士を装いながら、その実誰よりも臆病で繊細な彼。指先のこまやかな感覚を誰よりも必要とするピアニストでありながら、両の手を武器に変えられてしまった彼に、その“蛮勇”があるとはとうてい思えなかったのだ。
 ――まずかったら、遠慮なく言ってくれ。
 ――おれに判断を委ねるのかね? おまえさんの感覚のほうが、ずっと確かだろうに。
 ――……頼む、グレート。あんただから、頼めるんだ。
 やはり癇性に鍵盤を拭った後、胸の奥から絞り出すように言い、しかし彼は、いっこうにピアノを弾きはじめる様子はなかった。声をかけることなど、とてもできぬような険しい眼で、鍵盤を睨み続ける。そして、沈黙の重さにおれが音を上げそうになったとき、いきなり演奏がはじまった。不穏な不協和音が、腹の底にずしりと響いた。
 ――「死の舞踏」?
 皮肉にしちゃ、手が込みすぎてはいないか。思わずおれは、眉をひそめた。サン=サーンスの楽曲をリストがピアノ用に編曲した、プロでも手を焼く難曲である。多くのピアニストたちが嫉妬するであろう勢いで、十本の指が鍵盤の上を踊る。演奏は、申し分なかった。あくまで技巧的には。
 続けて休みもせずに弾きだしたのは、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。これも屈指の難曲である。しかしおれは、はらわたが煮えるのを必死で抑えていた。なんという選曲だ、死神の次は道化人形とは。魔法で命を吹き込まれ、かなわぬ恋に胸を焦がし、果ては亡霊になって主を呪う人形の曲を、なぜおまえが弾く? なぜおれに聴かせる? よりによって?
 単品としては長めの、しかも激しい二曲を弾き終え、さすがに息が上がったのか、彼は演奏を一旦止めた。こちらを振り返りはしないが、反応をうかがっている気配がする。おれはわざと無表情を装い、無言を貫いた。完璧だがうつろで、おのれへの悪意と皮肉を隠した演奏に美辞麗句を並べられるほど、お人好しではない。
 沈黙が続き、やがて観念したのか、彼はふたたび、鍵盤に手を置いた。みたび、きらびやかな音が叩き出される。ショパンのエチュードの最初の曲だ。また技巧で押すつもりか、と鼻白んだが、しかし耳を傾けるうち、わずかな音の変化に、おれは気付いた。
 ――心がある、この音には。
 音の向こうから、彼の息づかいが聞こえる。この曲が好きだ、この曲を弾きたいと訴える、衷心からの彼の声が聞こえる。やはりそうか、と思った。最初の二曲は、彼がほんとうに弾きたかった曲ではない。技巧で圧倒し、おれの賛辞を引き出そうとしたのだ。ついでに皮肉な奴だと、軽口のひとつも誘い出したかったに違いない。ピアノを弾く精密機械に徹すれば、余計なことを考える必要はない。血を流し続ける弱い心を、音の隙間からうっかり露呈する心配もなくなる。
 やや前のめりになったおれに、彼は気付いただろうか。いや、気付いてはいなかったはずだ。その証拠に、彼はあきらかに、揺らぎはじめていた。あれほど高度な曲を立て続けに弾きこなしてみせたというのに、指がもたつく。ミスタッチを連発する。こんなはずではないのに、という焦りが、手に取るようだった。それでもなんとか最後まで持ちこたえたのは、さすがというべきか。
 しかし四曲め、無惨に乱れた革命のエチュードで、彼はついに途中で演奏をやめた。鍵盤の上に手を投げ出し、ピアノから逃れるように立ち上がる。こちらを振り向いた血を噴くような眼に、おれはつとめて冷静に対峙した。
 ――なぜ、やめる。
 ――……だめだからだ。全然だめだ。こんな……まるで、なってない!
 ――勝手に決めなさんな。吾輩に、判断を委ねるんじゃなかったのか? それともなんだね、おまえさんの師匠は、舞台を途中で投げ出して遁走することを、おまえさんに許したとでも?
 ――先生を侮辱するな。いくらあんたでも、許さない。
 ――侮辱しているのは、おまえさんのほうだろう。今の演奏を、彼が喜ぶと思うか? ろくに心も籠めず、技術だけで押すなんざ……ほんもののピアニストがすることじゃあ、あるまい。
 まなじりも裂けんばかりの眼に向き合うには、それこそ蛮勇を奮い起こす必要があった。けれども、そうしなければならなかった。芸術に身を捧げた者同士、彼のために、そしてほかならぬ、おれ自身のために。
 おれしか知らぬ、彼の本当の名を名字まで、フルネームで呼んだ。彼はびくりと肩をふるわせ、にわかに傷ついた少年の顔になって、うなだれる。おれは立ち上がり、彼の傍らに歩み寄った。
 おのれのすべてを託すことを恐れず、弾きたい曲を、自由に弾け。直裁に、そう言おうかと思った。しかし彼の誇りを、これ以上傷つけたくなかった。練習を再開して、まだ日も浅いに違いない。長いブランクののち、これほどの技術を取り戻したことは驚嘆すべきだが、ショパンは今の彼には劇薬すぎる。
 ――ハインリヒ、ほかに好きな作曲家は?
 ――バッハ、ベートーヴェン、……ドビュッシー。
 ――ドビュッシー、いいじゃないか。
 「月の光」を、彼の演奏で聴きたいと思った。同じ道化でも、不条理に殺されるペトルーシュカより、仮面の下に涙を隠した「月の光」のアルレッキーノのほうが、彼には似合いだ。彼だけではない、おれも、九人の仲間たちもすべて、涙を仮面で覆っている。運命を呪う曲よりも、この運命を受け容れ、苦しみをなだめる曲を弾いてほしい。
 ――ドビュッシーの作品で、とくに気に入っているものを弾いてごらん。おまえさんの心の奥底へ、彼の音とともに降りてみるといい。うわべの嵐だけではない、おまえさんがずっと抱えてきた気持ちが、そこにあるんじゃないかね。
 曲名は、あえて出さなかった。好きだと名を挙げるくらいなら、ドビュッシーがどんな意図をもって曲を作っていたか、彼は知っているはずだ。
 しばしくちびるを引き結んでいた彼は、覚悟を決めたようにピアノの前に座った。握りしめていた両の手をほどいて鍵盤の上へと戻し、ゆっくりと呼吸を整え、弾きはじめる。「月の光」だった。
 暗い森の奥にさした、清らかな希望の光を追うように、音を紡ぐ。彼は手元を見てはいなかった。顔を上げ、虚空を一心に見つめている。いつか無情の月が照らし出す戦場で、ふとした刹那にみせたのと同じ、祈るような表情。そのとき彼が感じていたのは、孤独や絶望ではなかったはずだ。
 ちらとこちらに向けられた視線を、おれは受け止めた。ほほえんで頷くと、彼もわずかに口元をほころばせ、続けて数曲、ドビュッシーを弾く。「月の光」と同じ、ベルガマスク組曲の序曲。二つのアラベスク、そして「沈める寺」。なかでも「沈める寺」は、圧巻だった。月夜にただひと夜よみがえる、海中に没した寺院の壮麗さとはかなさを、みごとなまでに音で描いてみせた。
 ――……素晴らしい。
 たったひとこと、感に堪えずにこぼれたおれのことばに、彼は双眸を輝かせた。堂々と胸を張り、すさまじい熱量の革命のエチュードを奏ではじめる。今こそ思い知った。この曲こそ、彼そのものなのだと。氷の中に閉じ込められ、なおも燃え盛る情熱の焔。溶けて刃のごとく薄くなった氷の向こうで、今にも迸らんばかりに身を踊らせている。
 手がしびれ、感覚がなくなるまで、拍手を捧げた。頬を上気させ、しばらく肩で息をしていた彼は、含羞を滲ませてありがとう、と呟いた。そしてとつとつと、三ヶ月前の出来事を語った。師匠の死に接し、身の回りの世話をしていたという村娘に、遺作を弾いてくれと頼まれた。迷った末に勇気を振り絞り、もう二度と弾くまいと心に誓っていたピアノに触れた。それでようやく、決意を固めることができた。音楽をこの手に取り戻そう、と。
 また、人前で演奏したいかと問うと、彼は口を曲げてかぶりを振った。
 ――所詮、生身のころの音には敵わないんだ。聴衆はごまかせても、おれ自身の耳はごまかせない。これまでどおり、トラックで稼ぐよ。人前に出るのも、苦手だしな。
 ――もったいないことだ、これほどの腕を持ちながら。
 ――しかたがないさ。ピアノは弾き続けるけれど、仕事にはしない。ストリンドナー先生も、きっとこれで許してくれる。
 そろそろ部屋の契約時間も切れることに気づき、彼はもう一曲弾いて終わりたいと言った。今一度、背筋をのばして鍵盤に指を置き、こちらを見やってふわりとほほえんだ。
 ――グレート、約束してくれ。今日のことは、あんたとおれだけの秘密にしておくと。
 ――……なぜ?
 頬に笑みを溜めて、彼は和音を弾く。言わなくてもわかっているだろうと、その眼が言っていた。
 ――喋ったら殺すぜ。おれは本気だ。
 ――……勘弁してくれ、死神。脅されなくとも、喋らんから安心しろ。
 肩を竦め、大袈裟に天を仰いだおれを見やり、彼はあかるい笑い声をたてた。そして、
 ――この曲は、あんたに。あらん限りの、感謝をこめて。
 弾きはじめたのは、敬愛してやまぬバッハ。カンタータ140番だった。
 安らかに凪いだ、誠実な演奏だった。聴くものすべてを包み込み、静謐をもたらすような、そんな音。彼の魂そのままの、きまじめに澄んだ音に身を浸しながら、不意におれは口を押さえた。嗚咽が漏れそうになったのだ。
 薄い人工皮膚の下の、鋼の指を思った。それが思い通りに動かないことに苛立ち、打ちひしがれていた彼の姿を、おれは知っている。生身のころはあたりまえであった感覚も、指の関節の柔軟さも失い、いったいここまで到達するまでに、人知れずどれほどの努力を重ねてきたことか。彼自身の耳が、音を奏でることを彼に許すまで。血塗られた手でこれほどにやさしい音を、ふたたび奏でることができるようになるまで。……
 ――グレート、なんであんたが泣くんだ。
 気が付くと、演奏を終えた彼が傍らに立っていた。
 両眼から溢れる滂沱の涙を抑えられず、ぶざまなうめき声しかあげられぬおれの前に膝を折り、静かなまなざしをこちらにじっと向けている。まだ熱を帯びた両の手が、さしのべられた。彼の腕の中に抱きしめられ、ますます涙は止まらなくなる。 
 ――でも、……嬉しいよ。ありがとう、グレート。
 互いに望まぬ境遇で出逢い、仲間となったわれわれ九人。しかしほんとうのところ、人一倍大きな重荷を心に抱える彼が、みなに胸襟を開ききっていたかどうかは、疑問だった。ピアノのことも伝えたくないと言うのならば、それは致し方ない。それを責める権利は、おれにはない。
 けれどもせめて、おれの前では取り繕わずにいてほしい。彼が彼であるために、手助けができるのであれば、いつでも支えになる。彼のぬくもりを近くに感じながら、あの日、おれはそう心に誓った。
 それ以来おれたちは、こうして身を寄せ合っている。互いに対して抱く想いは、少々変わったかもしれないが。






 「あのとき、……だったんだ。あんたに、恋をしたのは」
 「……なんだって?」
 「だから、あのときだったんだ。おれのピアノで涙を流したあんたを見てからずっと、おれはあんたに、恋をしていた」
 あの日と同じ、バッハのカンタータを奏で終えて、彼はこちらをちらりと見やった。今日、演奏したのはドビュッシーにショパン、ラフマニノフの小品と――三番をアップライトでやるのは、さすがに気がひけたらしい――ベートーヴェンも数曲。豪華な独演会をひとりじめさせてもらい、すっかり陶酔していたところに思わぬ告白をされて、おれは完全に、頭が真っ白になってしまった。
 なんとか言えよ、と言いながらも、彼も照れてしまっている。多くの人びとの汗と脂、それに音楽への情熱を吸って、飴色に変わった象牙の鍵盤を、俯いて繰り返し撫でていた。
 「あのときって、もう……何年前だと思ってるんだ」
 「……」
 「その間、ずっと?」
 「しつこいぞグレート。ずっと、ずっと想ってたのに、あんたときたら知らないふりを通しやがって」
 知らないふりではない。ただ、背徳の恋に彼を堕とすまいとして、代わりに美しい芸術品に接するように、彼を愛でていただけだ。しかし、そんな弁解で満足する男ではない。
 途方に暮れていると、彼は椅子をもう一脚持ってきて、ピアノの前に並べて置いた。座の部分をせっかちに叩いて、顎をしゃくる。
 「弾くのか、おれも? おまえさんの熱演を聴かされた後で?」
 「つべこべ言わない。時間がないぞ」
 楽譜ファイルからさっさと楽譜を取り出し、これで許してやる、とにんまり笑う。致し方なく、おれは彼と並んでピアノの高音部に座り、楽譜を見た。ハイドンの「先生と生徒」、つまり彼は最初から、連弾をもくろんでいたということか。
 腕と肩が、わずかに触れあう。彼の右手の指先が、おずおずとおれの左手を撫でた。ほほえみを交わす。恋の思い出の場所を、これほどまでに大切に思う彼を、ほんとうにいとおしいと思った。
 「いいか。おれの後についてくるように、弾いてくれればいい。ゆっくり弾くから」
 愛らしい旋律が、指先からこぼれる。それを懸命に追い、音楽に身を任せるうちに、頭の中に直接、彼の声が響いた。
 ――あんたの涙を見て、思ったんだ。この男のためなら、死んでもいい。命を捧げたいって、ね。
 ――……。
 ――でも、それからしばらくして、ちょっとだけ気が変わった。あんたのために死ぬんじゃなくて、あんたとともに、生きたいと。
 ――……。
 ――この場所がなくなっても、どれだけ時が流れて、すべてが変わっても、この気持ちだけは変わらない。あんたと生きてゆきたいんだ。
 ――生きてるじゃないか、アルベルト。あのときも、これまでも、これからも、ずっと。
 ――……ん。
 同じ旋律を奏で、同じ時を生きる。変わらぬ想いの証に、そっとくちづけを交わした。



   了



付記:
 いろいろ捏造入ってますが、一応現代と、回想部分は「雪割草交響曲」編の三ヶ月後の話です。「雪割草」編は、うちとしては1960年代後半くらいの話と考えています。時間軸が入り乱れていますが、グレートさんがハインをハインリヒと呼んでいるか、アルベルトと呼んでいるかで、区別はつくようになっています。
 ハインが弾いている曲は、完全に私の好みですが、ドビュッシーは似合うと思ってます。ラフマニノフは、きっと好みだろうな。ペトルーシュカは、絶対009の影響を受けているであろう『Gunslinger Girl』からネタを拝借。初期からのファンには受けが悪いようですが、私はペトラ・サンドロ組がいちばん好きでした。そういやあの作品の女の子たちも、機械のからだを動かす訓練として、楽器演奏してたなあ。
 あ、あと、ある意味「朝チュン」的なつなぎをしてしまいましたので、いずれ音楽がらみのエロ話を書くかもしれません。



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