bell époque













 クリスマスの翌日、我が国でいうボクシング・デーになると、フランソワーズは朝からそわそわと落ち着かなくなる。この日から、彼女が贔屓にしているブーランジェリーで、ガレット・デ・ロワを扱いはじめるからだ。
 百貨店に入っているような高級菓子店よりもずっと安く、しかも素朴においしいその店のガレット・デ・ロワを、彼女は「わたしにとっての『紅茶に浸したマドレーヌ』」だという。まだ両親や祖父母が存命中だった、幼いころのことを思い出すのだそうだ。だから店で扱っている1月いっぱい、三日にあげず買いにゆくし、初日はとにかく早く手に入れたくて――といっても、取り置きしてもらっているのだが――、いてもたってもいられなくなる。彼も誘い、三人でバスに乗って、ブーランジェリーのある駅前の商店街に出ることになった。
 年内最後の土曜日にあたるせいだろう。まだ昼前だというのに、いつもはひなびている商店街が、ボクシング・デーのピカデリー・サーカスに負けず劣らずの賑わいだ。駅前の広場では露天商がいくつも屋台を構え、松飾りや注連飾りが飛ぶように売れていた。ミニチュアサイズの門松が並べられた屋台をちらと見やって、傍を歩く彼が、少々居心地悪そうに肩を竦める。つい、人の悪い笑みが浮かんでしまった。
 「なんだね、まだ思い出すのか、例の一件?」
 「思い出さないほうがおかしいだろ。さすがにもう、ジェットやジョーにからかわれることはなくなったけどな」
 あんたにひどい迷惑かけたし、と小声で囁く彼を、吾輩だけじゃあるまい、と肘でかるく小突いてやった。前を歩くフランソワーズに気づかれぬように、こっそりと微笑みあう。こんな殊勝さを素直に表現するようになったとは、やはり彼は、ずいぶんと変わったのだろう。そのおもな原因がおれにあるなどと、うぬぼれずにおいたほうがよさそうだ。
 フランソワーズご贔屓のブーランジェリーは、路地裏の目立たぬところに店を構えていた。しかしここもいつもにも増して、客で溢れんばかりである。買ってくるから待ってて、と言い捨てるやいなや、するりと店内に入っていったフランソワーズを見送って、おれは彼とともに、窓の外から店の中をうかがう。はじめてここに来る彼は、文字通り眼を丸くして、感嘆の声を上げた。
 「すごい品数だな。目移りしちまう」
 「開店してからまだ二年も経ってないんだが、遠くからわざわざ買いに来る客もいるらしい。クロワッサンやバゲットはもちろんだが、余りもので焼いたプディングがまた絶品でね。コーヒーのおともに、小豆餡をパイ生地で包んだやつなんてのもいける」
 「それいいな、フランソワーズに頼もうか」
 さっそく脳波通信の回路を開いて、チーズタルトだ小豆餡のパイ包みだと、あれこれとリクエストをしはじめる。ちょっとは遠慮しろ、食い意地張りすぎだとたしなめると、いいのよわたしもほしいから、とフランソワーズが笑う。戦場での安否確認ではなく、こんなふうに機能を使うのも、わるくはない。
 ――さあメシュー、そろそろ大入り満員よ。もうリクエストはいい?
 振り返り、山盛りになったトレーを示したフランソワーズに、頷いてみせた。そして彼女がレジに向かう、寸前のことだった。慌てて彼が口にした菓子の名前に、思わずおれは、小さく息を呑んだ。
 ――え? ハインリヒ、今なんて言った?
 言われて彼も、はっとしたようだ。一瞬狼狽の色があらわになったが、さいわいフランソワーズの背後に別の客が身を乗り出してきた。“眼”のスイッチを切った彼女には、今こちらの様子を見ることができない。
 ――そこの、・・・・・・クグロフ、取ってくれるか?
 ――いいわよ。一つでいい? もうトレーに乗せきれないもの。
 ――ああ、一つでいいよ。頼む。
 彼女から見えないのをいいことに、彼はしばらく、手袋に包まれた右手を額に当てていた。どうやら彼自身、思ってもみなかったことだったらしい。猫背に丸まった彼の背を、ぽんとひとつ、叩いてやった。
 やがて、紙袋二つとケーキ箱ひとつを戦利品よろしく抱えて、フランソワーズが意気揚々と戻ってきた。紙袋のうち一つの中身は、今夜の晩餐のためのバゲット六本。ケーキ箱の中身は、もちろんガレット・デ・ロワである。
 「お待たせ! ここからは荷物持ち、お願いね」
 紙袋をこちらに渡しながら、フランソワーズのみどりの瞳が、きらりと光る。傍の彼が、慌てて視線をそらしたのが見て取れて、こちらまで少々、心配になる。
 「ねえハインリヒ、あなたさっき、クグロフのことなんて言った?」
 「・・・・・・クーゲルフップフ」
 おや、素直に答えるのか。人混みをかき分け商店街を歩きつつ、おれは続きに耳をそばだてる。商店街のスピーカーから流れる音の割れた第九が、きっと彼の困惑に拍車をかけているに違いない。
 「ドイツ語じゃ、ほかにいくつも呼び名があるんだ。ナップクーヘンとか、トップクーヘンとか。でも共通してるのは……」
 言い終えぬうちに、彼はあっと声を上げた。紙袋の口が開いて、セロファンの袋に入ったクグロフがのぞいている。
 「これ! クーゲルフップフじゃない!」
 「えっ、クグロフといえばこれでしょ? これこそまさに、本式のアルザスのクグロフよ。あのお店の店長、ストラスブールでも修行した人だから、間違いないわ」
 「クーゲルフップフっていったら、バターケーキだろう。ブリオッシュ生地なんて聞いたこともねえぞ」
 「こっちこそ、バターケーキのクグロフなんて聞いたこともない。フランスでクグロフっていったらこれ。あなたがなんと言おうと、これが、フランスのクグロフなんだから」
 「でも、オースト……」
 言いかけて、彼は突然、口をつぐんだ。
 そのまま反論を呑み込んで、小声ですまない、とフランソワーズに言う。小気味よい早口のフランス語で、むしろ論争を愉しんでいたふうの彼女は、気勢を削がれ、一瞬棒立ちになってしまった。
 「ハインリヒ、どうかした?」
 「……いや、別に」
 「もしかして、いつかの年末みたいになると思った?」
 「馬鹿言うなよ、きみまでグレートみたいに蒸し返して」
 妙に気弱げな笑みを口元に溜めて、彼はふたたび足早に歩きはじめる。そして、
 「クグロフ、おれはいいから、きみが食ってくれよ」
 「あらそう? じゃあ遠慮せずにいただくけど……」
 フランソワーズが気遣わしげなまなざしを、こちらに送ってくる。やれやれ、と腹の中でため息をついて、苦笑を返した。






 拭いたばかりの古ぼけた窓の向こうから、まばゆいほどの西日が注ぎ込んでいる。ひととおり掃除を終え、床に積んだレンガにどちらからともなく並んで腰掛けて、煙草に火をつけた。
 この納屋は、おもに園芸用の道具と建材が置いてあるだけで、普段はほとんど人の出入りがない。それでいつしか、母屋のリビングでは吸えない煙草を、彼と吸いに来る場所になっていた。フランソワーズがこの場所の掃除をおれたちふたりに割り振ったのはそのせいだろうが、もちろん、先刻の彼の様子に気を遣っているのは言うまでもない。
 「なあ、アルベルト」
 「ん?」
 ふたりきりのときだけ呼ぶ名で呼ばれ、彼もまた、ふたりきりのときだけの笑顔を浮かべる。うまいもの、とりわけ気に入りの菓子を前にしたときも、こんな顔をする。これなら訊いても大丈夫、そう確信して、おれも笑顔を返した。
 「クグロフ……いや、クーゲルフップフか。それがきみにとっての、『紅茶に浸したマドレーヌ』?」
 一瞬、彼はきょとんとして、眉を上げた。しかしすぐに思い当たったらしく、ああ、今朝のあれか、と照れ臭そうに煙草の端を親指でいじった。
 「そ、マローネン・クーゲルフップフ。ストリンドナー先生のレッスンで、新しい課題を弾きこなしたとき、紅茶と一緒によくふるまってもらったんだ。先生が雇っていた料理人が得意にしててね、ザッハー・ホテルでも修行した人だったから、味はお墨付きだよ。上手く弾けた、新しい弾き方をおぼえたって喜びもあいまって、そりゃあもう、うまかった。ブランデーのきいたフルーツケーキと同じくらい、子どものころのおれにとっちゃ、特別な菓子だった」
 「……」
 「あの形の菓子をクーゲルフップフて呼ぶのは、実はオーストリアとバイエルンだけでね」
 「それで、さっきはばれると思った? きみがほんとうはベルリンじゃなく、ウィーンで生まれ育ったってこと」
 思い切って、ずばり訊いた。
 彼はおそらく、すこし動揺するのではないかとおれは思った。しかし、その反応は存外、のんびりしたものだった。うーん、と紫煙をゆるゆると吐きつつ、唸っていたが、それは自分の気持ちをあらわす適切なことばを探していたためであるらしい。
 「今さら、めんどくせえんだよなあ」
 「ほう、捉えようによっちゃ、聞き捨てならん表現だが?」
 「別に悪意はないさ。だって、ウィーン生まれだってことを話せば、ピアノのことも話すことになる。おれの家のことも、父親が救いようのないナチスの信奉者だってこともね。しかもその大半が、愉快な話じゃない。八十年も昔の、古き佳きヨーロッパが崩壊してゆく時代のことを話して聞かせるのは、結構なエネルギーが必要だ。めんどくせえってのは、そういうことだよ」
 「……なるほど」
 「おれたちはこれまでさんざん、戦いに身を投じてきた。もう戦争の話は、うんざりだ。それに、そんな昔のことを打ち明け合わなくとも、おれたちは仲間として何十年もやってきた。人とわかりあうのに、過去は必ずしも必要じゃない。おれはそう思ってる」
 「じゃあ、なぜおれにはすべて打ち明けた?」
 「それは、……」
 煙草を揉み消しながら、彼が視線をそらす。ほおが赤みを増しているのは、西日のせいだけではあるまい。
 ごく自然なしぐさで、彼はおれに、頭をすり寄せてきた。鈍色の右手が、おれの左手に絡められ、よすがを求めるように握りしめる。
 「……あんた、知ってるくせに。グレート」
 すこしばかり意地悪な問いを投げかけた償いと、答えの代わりに、今はあかるい陽のいろに輝く彼の髪に、そっとくちづけた。
 気難しく、自分の領域に他人が踏み込むことを極度に嫌う彼。それは父親の罪ゆえに、十五の年から出自を隠して生きざるをえなかった少年が、我が身を守るために身につけた、哀しい性だった。それでも彼の人生にはなおも苦難がつきまとい、ようやく小さな幸福を手にしようとした寸前、すべてを失った。過酷な運命を負わされ、不当に長く引き延ばされた生を、それでも彼は、懸命に生きている。少年時代からの習い性を引きずり、人よりも多くの傷を心に受け、血を流しながら。
 そんな彼にとって、唯一無邪気でいられたウィーン時代の思い出は、大切に胸に秘めた宝物だった。臆病な彼が、その記憶をわかちあいたい、おのれのすべてを知ってほしいと願った存在は、わずかに二人だけ。そのうちのひとりは、すでにこの世のひとではない。
 ――責任重大だな。
 身も引き締まる思いで彼の頭の重みを受け止めていると、いきなり腹の虫がぐうと鳴った。彼ももちろん気づいて、冗談めかしておれの腹をぽんと叩く。時計をみればもう午後三時、そろそろフランソワーズが、全員を集めてお茶にしようと言い出すころだ。
 「掃除も終わったし、戻ろうか」
 「そうだな、おれも腹減ったし。あー、さっきのクグロフ、フランソワーズに譲るんじゃなかった。ウィーン風じゃなくても、うまかったろうなあ」
 「やれやれ、素直じゃないねえおまえさんは。おまけに食い意地の強さときたら、張大人といい勝負」
 さて、と腰をあげようとしたところで、いきなり彼に覆い被さられた。
 くすんだ煙草と、爽やかな杜松のかおりが、ふわりと香った。強引に、しかし優雅におれのくちびるをするりとこじ開け、すこしだけ舌先が触れあう。あっけにとられていると、彼はしてやったり、とばかりににやりと笑った。
 「クグロフのかわりに、いただいちまった」
 「……」
 「このところ、ずっと皆と一緒だろ。だから」
 堪らず、腕を広げて彼をつかまえた。しっかりと抱擁を交わし、心のままに、くちづけを交わす。日本に来る前の晩、ロンドンで交わして以来の接吻だ。甘い吐息と、うるんで輝く青灰色のひとみの虜にされていると、いきなり耳の奥に響いたフランソワーズの声に、現実に引き戻された。
 ――みんな、掃除終わった? そろそろお茶にしようと思うんだけど。
 ――終わった! 今から行く!
 ――こっちも終わった。でも、戻るまでちょっと時間かかるかもしれないから、先にお茶してて!
 仲間たちが口々に、返事をする声が響く。背中に回した手でおれのカーディガンをぎゅっと握りしめ、彼が、いやいやをする。
 ――グレートとハインリヒは? もう納屋の掃除、終わった?
 ――……すまん、ちょうど煙草に火をつけたところでね。吸い終わってから行くよ。
 ――はいはい、ごゆっくり! ちゃんと風にあたって、臭いが抜けてから来てね。
 通信を終えるやいなや、彼がまた、むしゃぶりついてきた。からだの芯が熱を帯びぬようおそれつつ、髪を撫で、くちびるを吸いあう。名残惜しさを感じながらも、なんとか抱擁を解いた。恋情をしばし封印するために、すこし汗ばんだ彼の額に、そっと接吻する。
 「今は……ここまで。また、あとで」
 「……今晩、待ってる。おれの部屋で」
 今度から、クグロフが食いたいっていうのを、その合図にしようか。わざと大真面目にそう言うと、彼が小さく噴き出した。



 了



付記:
みの字さまの年末年始のお祭りで、先に公開したものです。隠れ設定ですが、前半、グレートさんとハインはフランソワーズとフランス語で会話しています。ふたりはまだ、つきあいはじめて一年経ってなさそう。ちなみにこの後のお茶のときにガレット・デ・ロワが出されたはずですが、中に入っているフェーブはいつもたいてい、ジェロニモに当たります。もちろんフランソワーズがわざとフェーブの入ったピースをジェロニモに渡しているのですが。ジョーには当たりません。ジェットはからくりに気づいて、一度ジェロニモとピースを交換してもらって当ててますが、ルールどおり王様扱いにはならなかったみたいです。



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