Beside You













 時折彼は、仰天するようなことをさらりと、なんでもないといった顔で口にすることがある。たとえば今日もそうだった。
 夕刻、バービカン・センターの近くでなんとなく入ったそのカフェは、どうやら舞台人たちの溜まり場だったようだ。壁一面に、ロンドン中の小劇場で日々開かれている公演のチラシが貼り付けられていた。テーブルの上にもショウの一場面をとらえた色とりどりのポストカードが、所狭しと並べられている。客はコーヒーや紅茶を飲みながら、自由にそれらを見て回り、手に取ることができるようになっていた。
 「ああ、これ。……」
 手に取ったのは、見慣れた写真をあしらった、モノクロームのカードである。裏を返すと、彼が所属するシアター・クラブの名前とアドレス、「グレアム&テレーズ、毎週金・土・日の18時、20時半開演」の文字が印刷されていた。
 表は彼が、シアター・クラブの相棒テレーズと週末限定で演じている、風刺コントの一場面をとらえたものだ。どぎつい化粧で、下品な中年女を演じているほうが彼である。もう一枚で、彼が演じているのは高慢な学者だ。残っていた三枚ずつ、どちらも残らず取ってコートの内ポケットに入れたぼくを見て、彼は呆れたように眼をまるくした。
 「おいおい、前にも渡したろ?」
 「一枚くれただけじゃねえか。何枚あってもいいもんだし、それにあんたのところには、もう在庫がないんだろ?」
 ないねえ、と、彼は興味なさげにふいとあさっての方角を向く。本当に興味がないのだろう。芝居は共演者たちや観客と生み出すその場の空気によって、同じ演目を演じていても、まるで違うものになる。花火と同で、その刹那でまばゆく光を放ち、そして消えゆくからこそ尊いというのが、彼の持論であった。だから自分の舞台の記録は、ほとんど残していない。むしろぼくが新聞や雑誌の記事を集めて渡しているくらいで、それらは一応、ファイルに綴じて保管してくれていた。
 ほかにもシアター・クラブのタイム・テーブルのチラシを見つけ、そこにあしらわれた彼の舞台スチールも素敵だったので、ポケットに入れた。かさばり具合を確認し、ちょっとした幸せに浸っていると、彼は壁のチラシと演目を、真剣なまなざしで見つめていた。
 「フリンジ、あんたも昔は、出てたんだよな」
 「……ああ、とくに若いころは、ね。出るだけじゃなくて、よく足も運んださ。友人やライバルたちの舞台を観に」
 「最近は?」
 「演劇評を頼まれることがあるからね、そのときは観にゆくさ。気になる芝居がかかるときも。しかしまあ、このところシアター・クラブが忙しいしなあ。とんとご無沙汰だよ」
 「じゃあ、これから行ってみるってのも、いいかもな」
 「へ?」
 壁には上演情報だけではなく、演劇評も貼られていた。この店のスタッフは、相当の演劇通なのだろう。演劇誌に新聞、ネットの評、かなり細かく情報を拾っている。そのなかで、飛び抜けてよい評価をもらっているもののチラシを、ぼくは取った。場所はロンドンのはずれの倉庫街の一角、おそらく倉庫を改造して、小劇場に仕立てているのだろう。ここからはちょっと遠いが、そのあたりはぼくの勤める運送会社のロンドン営業所があるから、地理は把握している。
 「ああ、よせよせ。そりゃつまらんぞ」
 「なんで観てもいないのにわかるんだよ? こういうフリンジでやるものは、たいていそこの劇団のオリジナルだろ」
 「その芝居なら知ってる。ずいぶん昔に書かれたものだが、駄作だぜ」
 「でも、レビューではこんなに褒められてる」
 「レビューなんざ、あてにならんよ」
 自分だって書いてるくせに、と毒づくと、彼はちらりとぼくを見上げ、ほんのすこしだけ、薄い眉を上げてみせた。そしてまた、壁に視線を戻す。引っかかるものを感じた。なにげない風を装いながら、彼はこの話題から、遠ざかろうとしている。
 表情を殺しているようにしかみえない彼の横顔を眺めるうちに、俄然闘志がわいた。なめてもらっちゃ困る。どういうつきあいだと思ってる?
 「ずいぶん昔に書かれたってことは、復刻されたってことだよな。ならおもしろいんじゃないのか?」
 「しつこいねえ、おまえさんも。駄作だ駄作」
 「あんたこそさっきから駄作って言うばっかりで、どこが悪いのか教えてくれないじゃないか、本当は台本読んだこともないんじゃないのか?」
 「馬鹿言いなさんな。自分で書いたものの欠点は、書いた本人がいちばん承知している」
 「……はあ?!」
 店にまばらにいた客たちが、こちらを一斉に振り返った。すました顔で、くちびるの前で人差し指を立てた彼を、ぼくは思い切り睨みつけてやった。
 「グレート、あんた今、なんて言った?」
 「おっかない顔しなさんな。せっかくの色男が台無しだ」
 「うるせえ。だから今、なんて言ったんだって聞いてるんだ!」
 「いや、だから自分で書いたものだから、どこが悪いのかはちゃんと判ってるって言ったのさ」
 「書いた? これを、あんたが?」
 シーッ、とまた彼が、口の前に人差し指を立てる。仕方ないので身をかがめ、できるだけ声を落とした。そこまで理性が残っていることのほうが、我ながら不思議なくらいだった。
 「なんで黙ってたんだ、今まで!」
 「そりゃ致し方なかろう、こっちだって今の今まで、忘れていたんだから」
 「忘れていた、だと? 自分で書いたものだろうが!」
 「そう言われもなあ。……」
 のんきにコーヒーを啜りながら、彼は本当に途方に暮れた、といった様子で、眉尻を下げている。そして、
 「おおよそ七十年前だぜ? それをおれが書いたのは」
 どうだい、忘れるだろうと、愉快そうに言う。どうしてそんな顔ができるのか。理解できないまま、気がつくと彼の手を掴み、飲みかけのコーヒーもほっぽらかして、外に飛び出していた。
 「……おいおい、アルベルト!」
 なすがままの彼の手首を掴みなおして、例の小劇団のチラシを、今一度見直す。夜の公演にじゅうぶん間に合う、そう確信したが早いか、地下鉄の駅に向かって、彼を引っ張ってとっとと歩きはじめていた。



   **********



 時折彼は、とんでもなく動物的な勘で真実を嗅ぎつけ、あげく突拍子もない行動に出て、おれを翻弄する。たとえば今日もそうだった。
 とうに存在すら忘れていた……正確には、思い出すこともまれになっていた……自分の芝居のタイトルを、偶然入ったあの場所で見つけたことが、そもそも青天の霹靂だった。驚きを消化できずにいるうちに、よりもよって、彼がその芝居のチラシを手に取って、観にゆこうなどと言い出す。適当にかわすつもりが、なぜ書いたのはおれだなどと白状してしまったのだろう。確かに彼に、決して嘘はつかないと誓った。けれども、嘘をつかないことと喋らずにいることは別物だ。
 手首を掴まれ、馬鹿力でおもてへ引きずり出された。引っぱられるままに地下鉄に乗ったはいいが、彼は懐中時計を取り出し、飛び出してきたことを少々後悔している様子である。開演まで、まだ間があるはずだ。
 「コーヒー」
 「あ?」
 「飲みかけのまま、捨ててきちまったのを悔やんでるのだろう?」
 「うるさい」
 口を曲げてそっぽを向いたものの、図星なのは明白だ。あんたのせいだ、と理不尽な責任転嫁をするのも、まことに彼らしい。渋ちんでわがままで無鉄砲、なくて七癖どころか、癖だらけなのはお互いさまだ。だからこそ、いびつな互いを愉しみながら受け止めて、一緒にいることができるのだろう。
 しかし今、実のところおれには、そんな悠長に構えている余裕はない。テストを採点する教師の眼で、チラシの一字一句を読み直している彼が、次に何を言い出すのかも明々白々。そして案の定、長い前髪の下から、じろりとこちらを睨んだ眼の凄みに、おれは足がすくんでしまった。まったく、敵には回したくない男だ。
 「あんたにもうひとつ、訊きたいことがあるんだが」
 「……んん?」
 さっそく来なすったね。そんなふうに軽く笑って流そうとしたのに、うまくゆかない。そんなおれに、彼はますます眉間のしわを深くして、チラシのある一点を指さした。
 「あんたいったい、いくつ名前を持ってるんだ」
 「……」
 「グレート・ブリテンが芸名だなんてことは、どんな間抜けでも想像がつく。でもあんたがそれで通してるから、おれたちはあんたをグレートって呼んでる。本当のところは、今シアター・クラブで名乗ってるグレアム・ベントンがあんたの本名。おれが知ってるのはそこまでだが、間違いないな?」
 「ああ、間違いない」
 「じゃあこれはなんだ? 声に出して読んでみろよ、ここ。なんて書いてある?」
 「……作者:バート・グリーンウッド?」
 「疑問符なんてつけるなよ。わざとらしい」
 「ちょっとした、出来心さ。本名のイニシャルをひっくり返して、適当につけたペンネームだよ」
 「本当に、それだけか? 別の名前を名乗るってことは、この芝居をあんたが書いたと、誰かに知られたくなかったからじゃないのか?」
 「……」
 「どうなんだ、グレート。答えろよ」
 おどけて笑って、身をかわしてやるつもりだった。仲間に隠し事が多いのは、お互いさまじゃないのかと。しかし、あまりに真剣な彼のまなざしに射抜かれて、おれは身をすくめ、息を詰めるしかない。
 ――愛しいグレート、あんたの……なにもかもを、知りたいんだ。
 夜の闇の底でおれの身も心も絡め取りながら、彼は息も絶え絶えに、そう囁く。そのときおれがなぜおののくのか、彼は気づいてはいないだろう。まっすぐで強すぎる想いは、ときに人を窒息させる。恋に不慣れな年下の恋人には、そのさじ加減がまだわからない。
 「……おまえさんの言うとおりだよ、アルベルト。しかし」
 声がかすれた。一度咳払いをして、おれは視線を落とし、ふうっと大きく、深呼吸をした。
 「すこし、……もうすこし、時間をくれないか。きみにいつか話さなければと、ずっと思ってきたし、前にもそう言った。けれどもこんな街なかで、なにかのついでのように話したくはない。落ち着いた状態で、ちゃんと心の準備を整えて」
 革の手袋に包まれた大きな手に二の腕をぎゅっと掴まれ、おれはことばを途切り、眼を上げた。
 「すまない、グレート。踏み込みすぎた」
 「……」
 「そう、前にも何度も言われた。いつか話すって。なのにまた……あんたを追いつめちまった。許してくれ」
 「アルベルト。……」
 「芝居、観るのは辛くないか? なんならここから引き返そう。おれときたら、あんたの気持ちも訊かないで、勝手に……」
 「いや、観よう」
 大きく見開かれた青灰色のひとみが、不安げに揺れる。二の腕を掴んだままの彼の手を、おれは手袋の上から、そっと撫でてやった。
 「おれもそろそろ、あのころのことに決着をつけたい。ならば観たほうがよかろう。昔、ある人に不当におとしめられたあの芝居が、今の若者たちにどううつるのか、生みの親として見届けなければ。この公演の情報を見つけたのも、きみが観ようと言い出したのも、なにかの縁さ」
 「……グレート……」
 本当に、大丈夫かと彼は問う。彼の手をぽんと一度叩いて、おれはようやく、笑みを浮かべることができた。
 「きみが一緒なら怖いものなどないさ、アルベルト」



   **********



 四度も続いたカーテンコールが終わり、客席に照明がついても、彼はまだ席に座ったままでいた。
 フリンジとはいっても結構な大きさの劇場で、しかも立ち見まで出る大入り満員の芝居だった。畳みかけるようなセリフについてゆくのは大変だったが、物語はすっきりとまとまって、なにより後味が良かった。この芝居が“不当におとしめられ”、忘れ去られていたなんて、理解しがたい。けれども何故と問えばまた彼を苦しめ、そしていずれ時が来れば、きっと彼は真実を語ってくれるのだろう。
 「さて、……」
 いつか話す、けれどももうすこし時間がほしいと苦しげに言ったときと同じく、彼は深い息をひとつついた。大丈夫か、と問うと、ああ、大丈夫だと、笑顔で返してくれる。いつもの笑顔だ。
 立ち上がって、コートに袖を通したときだった。いきなり前の非常口の扉が開いて、まだ舞台化粧を落としていない役者たちが彼めがけて、わらわらと駆け寄ってきた。
 「ベントンさん! グレアム・ベントンさんですよね、“ピカデリーズ・ディッチ”の!」
 年の頃はぼくの見た目と同じくらいだろうか、主役をつとめていた男が、握手を求めて彼に手をさしのべてきた。この劇団の座長だいう。チケットについてきた簡単なパンフレットによれば、ケンブリッジの演劇サークルの出身。この劇団に所属する若者たちは、みな彼と同じく、ケンブリッジ出身のエリートたちであるらしい。
 「あなたの舞台、みんなで何度も観にゆきました。テレーズさんとのコンビもすばらしいけれど、あなたのワンマン・ショウの大ファンなんです。風刺と諧謔がきいていて、とにかく面白くて。イヴニング・スター紙のコラムも、拝読してます」
 「それは、どうも」
 如才ないほほえみを浮かべてはいるが、ぼくは知っている。この表情は、居心地の悪いときのものだ。誉められるのもけなされるのも、彼は自分の芝居について語られることが、本当に苦手だった。けれどもこれが、彼の宿命だ。ほんものの才能を持つ者は、毀誉褒貶から逃れることはできない。今はチロルの山中に眠る、ぼくの師のように。
 彼を囲む輪からそっと抜けて、先に外へ出た。いくら気の回らないぼくでも、人気商売の恋人のために、スキャンダルの火種になることだけは絶対に避けるべきだとわかっている。しかし意外なほどすぐに、彼は劇場から出てきた。気に入りの中折れ帽をかぶり、待たせたね、とウィンクする。
 「さあ、ワインとチーズでも買って、帰ろう」
 「いいのか、あの連中。あんたと飲みたそうにしてたが」
 「そんなことできるかね? やきもち焼きのおまえさんを放り出して」
 「やきもち焼き、って」
 にっと笑って、彼はぼくを肘でこづく。けれどもやはりその笑顔には、虚勢がひそんでいるように思えてならなかった。
 地下鉄は空いていたが、彼は座席に座らず、列車が発車すると扉に寄りかかった。暗い窓に額を押しつけ、振動に身を任せている。同じように扉に寄りかかり、ぼくも黙っていると、彼が口を開き、ぽつりと呟いた。
 「訊かれたよ。作者のこと」
 「……え?」
 「バート・グリーンウッドの名前を、どこかで聞いたことがないかってね。もちろん、知らないと答えた。無名の作家だろうから、調べてもわかりっこないだろうとも言ったさ」
 「なんで、……」
 ぼくの発したその問いを、「なぜ、彼らはあんたに尋ねたんだ」と解釈したのだろう。彼は鼻を鳴らして笑った。
 「コラムでたまに、大戦後の演劇史について触れているからな。詳しいと思われたんだろう」
 彼らのうちのひとりが骨董屋で手に入れた机の、立てつけの悪い引き出しの中から、偶然それはあらわれた。きっちりとタイプで清書され、封筒の中に封印された芝居の台本。あまりにおもしろかったので、作者について調べてみたが、どこの誰だかまったくわからない。すこしでも手がかりを得ようと、試しに上演してみることにした。それがパンフレットに書かれていた、上演に至るまでの顛末であった。
 「おそらくおれが失踪して、死亡扱いになった後、民生係がおれの“遺品”を廃品回収業者にでも回したんだろうな。どういう具合か奇跡的に、あの原稿は生き延びた。一ページも欠けることなく、ね。さらに奇跡的に、劇団員の手に渡った。……そういことだ」
 「……」
 「まさか、書いたことを忘れていた当人が、上演されているのを観る日が来るなんてな。しかもあんなにみごとに演じてもらって、何度もカーテンコールを」
 そこまで言って、彼は声を詰まらせた。拳を固めて、ガラス窓を叩く。そのままずるずるとへたりこみ、肩をふるわせ、彼は嗚咽しはじめた。地下鉄の走行音に混じって響く慟哭の声に、車中にまばらにいたほかの乗客たちが、不審そうに車両を移動してゆく。そんなことには構わず、ぼくも床に膝をついて、彼を胸に抱いた。
 時折彼は、仰天するようなことをさらりと、なんでもないといった顔で口にすることがある。それは恋も栄光も絶望も、ぼくなどよりはるかに多くのものを経験してきた証拠。今このとき、彼の胸に渦巻く感情のすべてを推し量るなど、とうてい出来そうにない。けれども、支えたいと思った。彼のそばにいて、荒れ狂う嵐をなだめるための手助けをしたいと思った。
 「アルベルト、……おお、アルベルト!」
 嗚咽に混じり、彼がぼくの名を呼ぶ。もっと泣いてくれてもいい、ぼくがあんたのそばにいる。次の停車駅の名を告げる車内アナウンスを聞きながら、ぼくは彼を抱きしめる腕に、より力を籠めた。



   了



付記:
 グレートさんの過去にまつわる話、その1。彼が昔書いた芝居というネタは、実は10年前に書き留めておいたネタ集から拾ってきたものです。無名のアーティストが死後に発掘され、評価を受けるという話は、去年観たドキュメンタリー映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』に着想を得ました。ティム・ロスがほんの一瞬登場するので観に行ったのですが、思わぬ拾いものでした。
 この話は、もちろん続きがあります。なぜ彼が、束縛を嫌うのかということともつながってきます。スタミナが必要なので、いずれ余裕のあるときに。それより今回もちょっと出てきた、グレートさんの相棒の話のほうが先になるかもしれません。



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