My Best to You













 ドアの鍵穴に鍵を差し込む前に、わざと鍵を振って、音をたててみる。中からドアが開かないかと、すこしの間待ってしまったことを後悔しながら、自分で鍵を開け、ドアノブを押した。
 よりにもよって誕生日前、それも恋人と愉しむ休暇の最中に、急な電話で仕事を頼まれるとは。後ろ髪をひかれる思いで彼に戸締りを頼んだのは、もう四日も前のことだ。彼がもういないことはもちろん承知していたが、それでも一縷の望みを抱いていなかったといえば、嘘になる。
 「……馬鹿だなあ、おれは。……」
 暗いドアの先にあるのは、やはり淀んだ空気のみ。自分で自分にうんざりして、つい愚痴が口をついて出る。しかし、落胆しきってしまうよりも一瞬早く、冷えた空気の中にわずかに漂う香気に気づいた。むしるように手袋をはずしながら、足早にリビングへと向かった。
 灯りをつけると、リビングのテーブルの上には、オレンジ色のセロファンできれいにラッピングされ、金色のリボンがかかった包みが三つと、薄緑の封筒がひとつ。はやる気持ちを抑え、封筒を手に取った。わが薔薇よ、と呼ばれるのには慣れたが、やはり宛名として書かれたものを眼にすると、こそばゆさをおぼえる。けれども中身はきっと、簡潔だ。彼はそういう男なのだ。
 ――わが親愛なるアルベルト、きみの誕生日を心より祝す。もはやわれらにはその甲斐もないなどとは、お願いだから言ってくれるな。
 「おい、祝っておいて自分で水を差すなよ、グレート」
 目の前に彼はいないとわかっていながら、ついまた、ことばがこぼれる。カードの中では、ロートレックの描いた痩せっぽちの踊り子が、フレンチ・カンカンを踊っていた。互いを無二の理解者と認め合っていた画家と踊り子の物語を思い出し、彼がこのカードを選んだ理由を察して、頬が緩んだ。
 ――いつものとおり、きみのお望みのものを焼いた。二本はきみが家で愉しみたまえ。残りの一本は、職場に持ってゆくために。
 ああ、やっぱり。玄関で得た予感が的中して、胸がいっぱいになる。包みのひとつを手に取ると、慣れ親しんだ、しっかりとした持ち重りがする。セロファンと銀紙越しにも際だつラム酒とスパイスの香気に、これをはじめて食べたときの感動が、まざまざとよみがえってきた。
 彼が張大人の店を辞め、母国で演劇の世界に戻ってから、だいぶ経ったころのことだ。いつものように長距離の仕事のついでに彼の家に転がり込んで、ともに過ごす休日の午後、アフタヌーン・ティーに出てきたのが、この自作のイングリッシュ・フルーツケーキだったのだ。
 ――見た目はご覧のとおり無骨だが、味は悪くない……と思うぜ。なにしろ吾輩の作品だからして。
 ――なんだグレート、自信ないのかよ。
 ――はなはだ遺憾なのだが、“ひいおばあちゃん秘伝の”とか、“ヘンリー八世づきの女官のレシピから”とか、そんな立派な箔のついたもんじゃないのでね。ネットで探してきたレシピを、ちょいとアレンジしただけさ。
 アレンジの内容は、と尋ねると、スパイスの配分とラム酒の量とマーマレード、と言う。料理音痴の身では、それがどんなものだか想像もつかず、尋ねたことを少々後悔した。しかし切り分けられたそれを口に含んだ途端、そんなことはすっかり忘れた。思わず眼を見張り、驚きとよろこびが、からだじゅうに満ちた。
 ――うまい。……うまいよ、これ!
 ――……本当に?
 味は悪くないなどと言ってのけたくせに、自信なさげに肩をすぼめる。お世辞なんて言うか、と、つい語気荒く返した。
 ――びっくりした。同じようなものは、何度も食べてきたけど……こんなにうまいのは、まずないぞ!
 そのときはあまりに感動して、うまく彼に伝えることはできなかった。後で気づいたのだ。それが記憶のはるかかなたに霞む、幼い日々の思い出を呼び覚ます味であったことを。屋敷の使用人の誰かが作ったのか、それともウィーンのカフェのどこかで食べたのか。すでに思い出すことはできなかったが、古い記憶の断片と、目の前の彼のケーキの味が、確かにぴたりと重なったのだ。
 それ以来、彼からの誕生日の贈り物は、このケーキになった。ロンドンの彼の家でふるまわれ、残りを手土産に託されるか、さもなくば小包で送られてくるか。彼との関係が親友から恋人同士になっても、それは変わらず続けられてきた儀式だった。
 職場でふるまうために、と余計に一本焼いてはくれたものの、今の職場の同僚たちはムスリムばかりだ。彼らとて酒を飲まない訳ではないのだが、ラム酒が思い切りきいたケーキをふるまうのはためらわれる。しめしめ、と心中舌なめずりをしたところで、はたと思い当った。彼はこれを、ここで焼いたはずなのだ。だとすれば、……。
 台所に行くと、シンクの横に見慣れない道具類があった。おそらく彼が、買ってきたのだろう。ボウルにパウンドケーキ型、泡立て器、どう使うのかはわからないが、刷毛。そのほかに、足元にいくつもラムとワインの空き瓶が並んでいる。手に持ったままだったカードに視線を落とすと、末尾にこんなことが書かれてあった。
 ――追伸。はなはだ恐縮だが、道具類はとっておいてくれたまえ。瓶はリサイクルに。次は一緒に飲もう。Your G
 「ふん、人のぶんまで、しこたま飲みやがって……」
 どうせそんなことだろうと、一応は悪態をつきながら瓶を玄関に移動させ、道具を戸棚にしまった。しまいながらも、抑えられない笑みが溢れてくる。道具があるということは、いつでもあのケーキを焼けるということなのだ。彼がここに、いさえすれば。
 「グレート、次に来るときは、あんたに何本焼いてもらおうか?」
 ラム酒もワインもチーズも、そのためならばいくらだって買っておく。代わりにあんたに、ぼくを贈るから。……ひとりきりなのをいいことに、気恥ずかしいことばを口にして、カードに思いきりキスをした。誕生日に、足りなかったぶんもあわせて。



   了



付記:
 みの字さまのサイト「Hideaway」のお祭に参加させていただいた作品です。なんというか、突発的に書きました。
 うちのハインは甘辛両方いけるくちです。甘いものは、たぶんもとから好きですが、ほぼ唯一の生体部分である脳みその栄養として、彼にとっては必要不可欠なもの。ドイツ人らしく、チョコレートにもいろいろこだわりがありそう。とりあえず、マジパン入りのチョコレートは基本かな。



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