Better Half












  
 ヒースローで彼を見送り、シティに出て簡単な所用を済ませて帰宅するころには、みじかい冬の日はすでにとっぷりと暮れ、西の空には三日月と宵の明星が輝いていた。
 地下鉄の駅から自宅へと足早に歩きながら、またここで独りになったのだという感傷が、胸の奥をひんやりと吹きすぎてゆく。玄関のドアを開け、リビングのあかりをつけてコートと帽子を脱ぎ、とりあえずは紅茶でも淹れるかとソファを見やった、そのときだった。黒い革の手袋が片方だけ、ソファの背に置かれているのが眼に飛び込んできた。
 ――おやおや、あの男ときたら。
 出国ゲートの手前で別れてから、四時間以上経っている。電話をかけると案の定、彼はすぐに出た。コーヒー豆を挽いているところだと、ほがらかに笑う。彼にとっては、自宅で飲む十日ぶりのコーヒーということになるだろうか。
 手袋忘れてるぞ。そう言うと、彼はああ、と曖昧な返事をした。
 「まあ、いいさ。右があれば事足りるし」
 確かに彼が忘れていったのは、左だけだ。人工皮膚よりも革の手袋が好みで、夏場は右だけ薄手の礼装用手袋をしているが、今は真冬である。
 「そうは言ってもおまえさん、手袋ってのは対で使うもんだろう。寒かろうに」
 「でも、次にそっちに行けるのは、二月に入ってからだし……ああそうだ、あんたが使ったらどうだ?」
 「は?」
 「グレート、あんたなら、手の大きさ変えられるじゃねえか」
 愉快そうに声を上げて笑い、ああ湯が沸いた、なんて言って勝手に電話を切ってしまう。勝手だねえまったく、と左だけの手袋に視線を落としながら、おれは彼の意図にすでに気づいていた。
 まだ今の関係になる前から、彼はこの部屋にしばしば泊まっていたが、そのたびにいろんなものを“忘れて”いった。キオスクで売っている安物のライターに、ハンカチ、ボールペン、靴下の片方だけ。あんなに几帳面なくせに、案外粗忽なところもあるのだと、最初は軽く思っていた。そうではないと気づいたのは、瀟洒なアンティークのライターを置いていって、よければあんたのものにしてくれ、と電話口で言われたときである。そのときはじめて知ったのだ。彼はこの部屋に、おれの空間に、自分の痕跡を残したがっているのだと。
 そうして互いに恐れを捨て、互いを受け容れた今、彼の痕跡はこの部屋の至るところにある。シャワールームの歯ブラシから、本棚のゲーテ詩集、クローゼットの中の肌着やフランネルのパジャマ、彼のからだに合うようにサヴィル・ロウで仕立てた、正装一式。それらを眼にするたびに、彼の存在を感じる。680マイルの彼方、あるいはそれよりもっと遠く隔たっていようと、いつも彼とともにいる。この部屋で、この街で、おれはまったく独りではないのだ。
 「それでもまだ、足りぬと仰せかね、死神どの」
 足りる訳ないと、すました顔で、彼は言うだろう。現におれは、つい先刻まで別れの感傷に浸っていたのである。そんなところまで見透かされているのかと、苦笑が浮かぶ。愛はふたりで育てるものだが、主導権を握っているのは、彼のほうであった。
 手袋はイタリア製だった。配送に出かけたときに、本場のナポリで買ったものか。左手を入れ、補助脳に記憶されている彼の数値どおりに手の形を変える。長く節のしっかりした、それでいてしなやかな指の先まで、鹿革とカシミアの裏地が肌を包み込み、官能的なよろこびすら感じた。
 ――いつもいつも、ぼくを感じて。
 昨夜、闇の底で囁いたあまやかなかすれ声が、まざまざと三半規管の奥によみがえる。ブルーグレイのうるんだまなざし、熱い吐息、すがりついてくる、鋼の右腕。望みのままに、彼の虜になろう。ふたつでひとつの手袋のような、つがいでありたい。
 翌日、シアター・クラブのドアマンが、おれの手を見ておや、と眉を上げた。
 「旦那にしちゃあ、お珍しい。手袋を片方、落としなすったかい?」
 いやいや、と手を振っただけで、左手にぴったりと添う手袋の感触に、つい陶然となる。そんな自分をごまかしたくて、満面の笑みを浮かべる。
 「片方はちと今、旅に出ていてね。二月に戻ってくるのさ」
 ブダペストやイスタンブルやミラノを経由して、ベルリンからね。そんなおれの返事に、ドアマンは狐につままれた様子で、妙な顔をしている。素知らぬ顔で楽屋へと向かいながら、手袋の指先にそっと、くちづけた。彼のくちびるを、そこに感じながら。



   了



付記:
 みの字さまの009祭りに提出。たぶんサイトをいじっている時間があまりないので、先に上げておきます。



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