Blue River













 夜のしじまをふるわせ、サイレンの鳴る音がかすかに風に乗り、聞こえてくる。
 このあたりの治安は、正直言ってあまり良くはない。チンピラどもが、警察沙汰を起こすこともめずらしくはなかった。そういう手合いに出くわさなくてよかったと、あらためて思う。いくらサイボーグとはいえ、自分より頭ひとつ分背が高く、体重も倍ほどある男を担いでいれば、身動きが鈍くなる。おまけに酒もそこそこ入っていた。
 ――まあ、すっかり抜けちまったがな。
 簡易調整器のモニターに、今一度視線を落とした。脳波と心拍数のグラフは規則正しく、おだやかに波打ち、おれのベッドに横たわる友人が、今は平穏無事に眠っていることを示していた。
 小型のスーツケースに仕込まれたそれは、われわれが各自一台所有し、日々のメンテナンスに使っているものである。ケーブルで後頭部か左手首のポイントに接続すれば、脳波と神経系統に直接働きかけ、軽度の不調ならば治すことができる。しかし、仕事でも私用でも、ちょっとした遠出にこれを持ってゆくことはない。移動の多い仕事に就き、必要最小限のものしか持ち歩かない彼は、なおさらであった。
 ――もし、こいつがないところで、彼が倒れていたら。
 考えるだけで、背筋が寒くなる。しかも今回、この調整器だけでは手に負えぬほど、彼の状態は深刻だったのだ。ドルフィン号で急遽来てもらうことを覚悟して博士に連絡し、調整器を介して遠隔操作で治療をほどこすことで、なんとかことを納めることができた。それで、はじめて知ったのだ。先週彼が受けたメンテナンスが、からだの組織の半分近くを入れ替える、大規模なものであったことを。
 ――せめて半月は、長距離の仕事を控えるように言ったんじゃが……。
 モニターの向こうで困惑する博士に、あたりまえです、とつい語気荒く返してしまい、おれは額をぴしゃりと打った。博士に当たるべきではない。戒めるべきは忠告をきかずに無茶をした彼であるし、仲間内で彼にそれをしてやれるのは、実際おれだけだろう。
 「ハインリヒ、まったくおまえさんときたら、なんて人騒がせな……」
 つい愚痴がこぼれ、おれは手で口を塞いだ。
 友人は気づく様子もなく、あどけない寝顔をさらして、眠り続けている。その様子は長距離の仕事のついでにしばしばここにあらわれ、のんびり昼寝しているときとそっくり同じで、苦笑するしかない。待ち合わせ場所のパブで倒れたときも、彼はおれと顔を合わせた瞬間、安堵しきった笑顔を浮かべて、膝からくずおれた。調整器から不穏なアラート音が鳴り響く間も、博士に遠隔治療を受けている間も、こちらの心配をよそに実に気持ち良さげに昏睡していた。
 状態が安定したとはいえ、不測の事態というものもありうる。やれやれ、こりゃ徹夜だねえ、と胸の内で呟いたとき、瞼をふるわせて、彼がゆっくりと、眼を開けた。
 「おや、ハインリヒ……気がついたかね」
 声をかけられ、彼は茫洋とした視線をこちらに投げかけた。ややあってから、なんともしまりのない笑顔で、グレート、とおれの名を呼ぶ。
 「ずいぶん……早いな。今何時だ?」
 「なに言ってんだおまえさんは。パブで倒れたの、憶えてないのか?」
 「……え?」
 「店の連中が救急車呼ぶっていうのを、無理矢理断って担いできたんだ。ギルモア博士に遠隔治療してもらわにゃ、危なかった。おまえさんひとりでいるときに、しかも仕事中に同じことになってたら、本当に大変なことになってたところだぞ」
 ついでに言うなら、今は午前四時を十五分回ったとこだ。そう付け加えると、彼の表情が呆然から愕然、に変わった。すまない、と呟いた蚊の鳴くような声に、わかればいいさ、とだけおれは返した。人の気持ちを察するのは不得手だが、情はたっぷりあるし、聡い男だ。くどくどと叱るようなことは、したくない。
 猛烈に喉が渇いたという彼に、ビタミンの発泡剤を溶かした水のグラスを手渡した。すこしだけ身を起こし、ゆっくりと水を飲むが、まだすこし辛そうだ。
 「たぶん、一日寝てれば治る。有機部分がなじむ最終段階で起こした、拒絶反応だろうから。もしかしたらそういうことがあるかもしれないと、博士に言われてたんだ」 
 「……ふむ?」
 妙だな、と思った。仲間内でもっとも機械的なからだを持つ彼は、メンテナンスを受けても拒絶反応を起こすことはほとんどなかった。逆に、ほぼ全身を人工有機組織で構成されているおれやフランソワーズは、新しい組織を入れる度に、拒絶反応に苦しめられている。それでも極力薬に頼らぬようにしてきたのは、自分の意思とは無関係に実験体にされてしまったわれわれの、せめてもの矜持のあらわれであった。
 ふと、パブで彼を担ぎ上げたときに感じた違和感を、思い出した。全身武器の彼の体重は、同程度の体格の一般人のおよそ倍だ。B.G.の基地にいたころ、負傷した彼をしばしば抱えて帰っていたので、よく知っている。なのに、妙に軽く思えたのだ。せいぜい百キロ程度ではなかろうか。……
 眼を上げると、ヘッドボードに身を預けた彼の眼に、迎えられた。グラスを左手に持ち替え、今は人工皮膚に包まれた右手をゆっくりと、広げてみせる。
 「今回の手術で、有機部分を増やしてもらったんだ。おかげで目方が減って動きやすくなったし、人工皮膚の部分も、ずいぶん増えた」
 「強度は、問題ないのかね?」
 「大丈夫だ、技術が進化してるから。右手も軽くてねばり強い新素材に換えたから、関節が柔軟になった。これでピアノも、格段に弾きやすくなる」
 「じゃあピアノのこと、博士やイワンに打ち明けたのか」
 「まさか。車の整備に、このほうが便利だって言っただけだ」
 「やれやれ、吾輩はいったいいつまで、おまえさんに打ち明けられたたくさんの秘密を黙っておかにゃならん?」
 大袈裟に両腕を広げ、天井を仰いでみせると、彼は笑った。すこし気だるげに、けれどもほかの仲間の誰にも見せない含羞をふくませ、くちびるをほころばせる。
 「別に、喋りたい訳じゃないだろう?」
 無言でおれも、笑みを返す。彼はおれのことを理解している。ほかの誰よりも。
 もう一杯、水を飲み終えた彼からグラスを受け取り、横にならせて毛布をかけてやった。朝はまだ遠いが、明日の仕事のことを思えば、おれもそろそろ眠ったほうがよい。
 「もうひと眠りしたまえ。まだ辛かろう?」
 「……ん」
 「おれも寝てくるよ。リビングにいるが、なにかあったら遠慮なく呼んでくれ」
 「なぜ?」
 「なぜって……」
 返答に窮し、おれは木偶のように突っ立ってしまう。毛布にすっぽりと首まで埋まり、彼はひどく切実なまなざしを、おれにじっと注いでいた。
 所在なくグラスをもてあそんでいると、彼がもう一度、同じ問いを発した。
 「なんで、向こうで寝るんだ。ここはあんたの部屋だ」
 「……おれのベッドには、おまえさんが寝てるじゃあないか」
 「でも、堅いソファベッドで寝ることない。あんた明日も仕事だろう? これ以上、あんたを疲れさせたくない」
 「しかし……」
 「一緒に寝よう。おれは気にしないから、ここで……あんたのベッドで、寝ればいいじゃないか」
 ――おれは、気にするが……。
 もちろん、そんなことは言わない。しかし、洒落にならない想像が頭の中を駆けめぐりはじめ、おれは途方に暮れて、足元に視線を落とした。
 彼とはただの友人ではない。数十年来の無二の親友、それ以上の間柄だった。互いの間にある、そしてとりわけ彼がおれに対して抱いている感情に、おれはとっくの昔に気づいていた。けれどもそれを受け取り、彼の望むものを手渡してやれる自信は、おれにはない。同じ宿命を負った仲間のひとりと、特別な間柄になることを避けたいというのもある。けれどもなにより、彼はあまりに純粋で繊細だった。誰よりも大切な存在を、傷つけてしまいたくはなかった。
 ――おれは酒飲みの能なし、廃人同様だった人間のくずだ。きみを愛する資格はない。
 彼にすら話したことのない、過去の深い沼の中からろくでもない記憶がいくつもよみがえってくる。眩暈がする。息苦しくなる。逃げ出したくなる。
 やはり、リビングで寝るよ。そう言おうとしたとき、彼が毛布の下でもぞもぞと動いた。ベッドの片側に寄って首をもたげ、おれを見る。そして、
 「今夜は冷える。二人でいたほうが暖かい。それに、……そばに、いてほしいんだ。あんたに」
 「……」
 「そばにいてくれないか、グレート。お願いだ」
 ふるえるまなざしに、その声に、どうして抗うことができたろう。
 それでもためらいながら、毛布とシーツの間に身を滑り込ませると、驚くほど近くに彼がいた。長い前髪の向こうから、うるんだひとみがこちらを見つめている。長い睫を一度、ゆるやかに瞬かせ、彼はふわりとほほえんだ。白い薔薇のつぼみが、ほころんだようだった。
 「グレート。おれの、からだね……あんたと同じ素材になったんだ」
 「……おれと、同じ?」
 「そう。有機部分が、あんたのからだと同じ素材になったんだって。さらに強化してるけど、もとの素材は同じだ。そう思うと、あんたにすごく、会いたくなった。だから博士に忠告されたのに、ドーヴァー越えの仕事を取っちまった」
 「……」
 「迷惑かけて、ほんとに……すまない」
 額をおずおずと寄せてくる彼を拒まぬように、けれどもこちらからは決して触れぬように身を寄せあいながら、おれは焦っていた。彼に決定的なひとことを、口にさせたくない。今の間柄のまま、互いの秘密を抱きしめながら、これまでどおり屈託なく酒を酌み交わしたり、芸術を愉しんだりしていたいのだ。
 「おれと同じ素材ならば、おまえさんも分子配列変換装置をつけてもらったら、変身できるってことか」
 そう問うと、彼は小さな子どもみたいな表情になって、しばし考え込む。あらゆることをまずは疑うくせに、彼はおれに対して、あまりに純真すぎた。唐突な狡い問いに、疑念を差し挟むことすらしない。
 愛しているよ。そんなきみを、この世の誰よりも。
 「……理屈の上では、そうなるかな」
 「じゃあ、変身できるとすれば、おまえさんはなんに変身したい?」
 「うーん、そうだなあ。……」
 おかしそうに、くすくす笑う。笑うたびに、銀無垢の髪が天窓から差し込む月の光に、やわらかく輝いた。なんて美しい子だろうと、今さらながらにうっとりと見とれる。願わくばこのまま、きみを摘んでしまうことなく見つめていたい。
 触れてはいけない。清らかなきみを汚してしまわぬように、触れぬままきみを愛し続けることができれば。
 「ゆっくり……考えるよ」
 囁いたとき、彼はすでに半分、眠りに落ちていたのだろう。ほどなくして聞こえてきた安らかな寝息と、やさしいぬくもりに誘われて、砂に水が吸い込まれてゆくように、おれの意識も遠ざかる。
 そして、夢かうつつか。夜のしじまを、おれは彼とただふたり、漂っていた。
 ふたりとも、母の胎から生み落とされたままの姿をしていた。彼の白い右手の指先が、わずかにおれの左手に触れている。ただそれだけなのに、なぜか離れもせず、それ以上近づくこともなく、濃い藍の河の流れに乗って、ゆるやかに漂っていた。
 うすむらさきを帯びた青灰色のひとみが、じっとこちらを見つめている。ほほえみかけると、彼もくちびるをほころばせて、ほほえみを返してくれた。本当にそれだけなのに、もう数千年、数万年の星霜を、こうして彼とふたりきりで過ごしてきたように思えた。
 岸辺は、どこだろう。あまり遠くに流されてしまいたくはないが。
 そう言うと、彼が返した。どこへゆこうとも、恐れることはない。あんたとこうしてふたりでいれば、寒くない。さみしくない、と。
 ああ、そうだ。きっと大丈夫。なにがあろうとも。
 どこに流れてゆくのかは、わからない。この先どれほどの時を過ごすのかもわからない。けれどもどこへゆこうとも、このままずっと、ふたりで。……
 それは彼の想いを受け止める勇気のない、臆病なおれの身勝手な願望にすぎなかったのかもしれない。けれども、酒とクスリに救いを求めていたころ、おれが浸っていた幻影は、こんなにやさしくはなかった。音もなく流れゆく河は仄暗くもあくまでおだやかで、傍らの彼はずっと、笑顔だった。
 ――今はただ、この流れに身をゆだねていたい。
 互いのぬくもりが融けあうのを感じながら、おれは彼とふたり、ゆっくりと岸辺から遠ざかっていった。



   了



付記:
 “When You Awake”の、およそ一年三ヶ月ほど前の話と位置づけています。このちょっと後で、ハインはグレートさんのところにちょくちょくやってくるのを一年止め、ひさしぶりに日本で再会した後、恋仲に……という流れです。なぜそういうことになったのかは、あらためて別の話で。
 それにしてもうちのハイン、気持ちがだだ漏れですね。こんな調子で数十年やってきて、グレートさんが据え膳に決して手をつけなかったのには、もちろん理由があります。まあ、切ないの大好物なので、互いに惚れきっているのにプラトニックを貫くというのは、書いていて愉しいです。互いにおっさんならばなおさら。中年の純情ほど尊いものはありませんよ。



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