Don't Let It Bring You Down










 大都会のど真ん中、通りを行き交う人びとは、大抵道端で何が起こっているかなどということには、まるで無関心だ。
 物売りがいようと、街頭演説をおこなっている者がいようと、はたまた酔っ払いがクダを巻いていようと、大した違いはない。皆、足早に目指す方向へと歩いてゆく。果たして、目指す方向がそれで間違っていないのか、それとも本当に目指す方向など見えているのかは、とりあえず別として。
 道端を見ている人間なんてものは、きっと、そこへ身を置いた経験があるか、それともそんな可能性を抱えている者だけなのかもしれない。自嘲を交えて、そう思う。そして、おそらく……こんなことをするはめに陥ったのも、そのせいではなかろうか?








 ぼんやりと、そのあたりを眺めていたら、目が合ってしまった。吸い寄せられるようにふらふらと歩み寄ったら、がっちりと手を取られ、あとはなすがままだ。
 おれの手を取り、ひっくり返したり指を曲げさせたり、ためつすがめつしている婆さんは、したり顔で頷いたり、小狡くおれの表情をちらちらと盗み見たりしている。こんな顔をして手相を見るのだから、どうせ大した占い師ではあるまい。相手に不安など植え付け、それを煽るような人間は、カウンセラーには失格なのだ。もっと、堂々と構えればいいものを。
 「……お客さん、故郷を離れて、ずいぶんになりますね」
 ほう、そりゃあ当たっている。もっとも、ここは日本で、我輩は見るからに異国の人間だ。しかも日本語を流暢に操るとくれば、それはもう……ここにいる時間が長いと、小学生だって分かるんじゃなかろうか。
 「ご両親とは、ご縁が薄かったようですねえ。ご覧なさい、ここに孤独の相が出ておいでですよ」
 ……ご名答。親父は野垂れ死に、ろくでもない亭主に殴られて半生を送った母親は、早くに病で亡くなったさ。そいつは我輩の責任じゃあないが、その後、友人知人がことごとく、裸足で逃げ出すような羽目に陥ったのは、正当な報いだ。おれのような飲んだくれのひとでなしは、見棄てられるにふさわしいだろうよ。
 もっとも、今は気のいい仲間がいる。地獄の底まで一緒にゆくと、ことばに出さずとも皆で誓える仲間だ。九人もいるというのに、その存在を読みとれないとは、ずいぶんとお粗末ではないか。
 秋の日は、落ちてゆくのがまったく早い。暮色に溶けそうになる一瞬前、婆さんは手元の懐中電灯を取り上げ、ぱちりとスイッチを入れた。まるく切り取られた空間に、おれの手が浮かび上がる。婆さんに促されるままに、もう片方の手も、その輪の中に差し出した。
 筋張ってはいるが、おれの手は額に汗して働く者のそれではない。今は婆さんの皺くちゃの手の中にある自分の一部を、それを検分している相手の様子を、冷静に観察している自分がいる。視線を追っていれば、彼女が次に、何を『言い当てる』かは、大体想像がつくものだ。こんな技法も、道端ばかりに視線を寄せ、他者を観察していたから、身についたのだろう。
 「一時は、かなり羽振りがよろしかったでしょう? 芸術方面のお仕事のかたと、お見受けしますが」
 「……まあね」
 曖昧に笑みを浮かべたつもりだが、やはり苦笑に類するものになってしまう。『一時は』ということは、今のおれは、やはりしけた中年男に映るということなのだろう。一度、骨の髄までしみつき、魂に刻み込まれた貧乏根性は、きっと死ぬまでおれにつきまとう。血肉を失おうと、それは変わるまい。
 そういえば、かつてこんな手をしていた男をもうひとり、知っていた。
 ふと、蘇った記憶に身を浸し、目を閉じる。ひかりの輪の残像とともに、瞼の裏に、婆さんが今どんな顔をしているのかも、ありありと思い描くことが出来る。なおもおれの手のひらを指先でなぞり、刻まれた皺を注視しながら、彼女はまた、口を開く。おれのほうを躊躇いがちに窺いながら、ことばを選ぶ。乾いたくちびるを一度、舌先で湿らせてから、……ようやく、彼女の声が、おれの鼓膜に響いてくる。
 「……でも、その後、おからだを悪くされたでしょう?」
 あ、いえ、今もどこか、……お悪いのでは?
 瞑目したまま、今度こそ曖昧に、微笑んだ。
 なんという名だったろう、あの男は。
 学閥の権力闘争に敗れた、元大学教授。モロッコのスーフィズム研究が専門だと、言っていたか。安酒のボトルを手に、落ちぶれた者同士、よく道端にだらしなく座り込んで、通りを足早に往来する人びとを、眺めていた。おれは芸の肥やしになると言い、彼は研究に役立つと言って、乾いた笑い声をたてた。もう既に、輝かしい場所へと戻れるあては、お互い持ち合わせていないというのに。
 グレートさんよ……あんたぁ、一流の役者だったんだなあ。
 酒臭い吐息。無精髭に包まれた顎を、筋張った、掌の皮膚の薄い手でざりざりと撫でながら、彼はいつも、同じことを口にする。皆が同じ方向に、こうやって、家畜みたいに項垂れて歩いてゆくのに、あんたはその流れに、従おうとはしない。流れの外側から、じっと、すべてのものを観察している。なかなか出来ることじゃあ、ありませんよ。
 それは、あなたも同じじゃありませんか? ……ご同輩。
 そう返すと、彼は心底嬉しそうに満面に笑みをたたえ、おれの肩を抱え、揺さぶった。どん底ではじめて、心の友に出会えたと、何度も頷きながら。
 一般社会から隔絶された、特殊な研究の世界。そこでは広く名を知られていながら、自分の専門が世の中の役に立つものではない、趣味的なものであることを、彼は腹の底から承知していた。そんなおのれを誇りに思い、同時に、みずからを無用の者だと蔑むことも、忘れてはいなかった。矜りたかく頭を上げ、つめたく突き放した目でおのれを見つめる。黄金をこころの内に抱え、それを決して汚すものかと誓いながらも、汚泥に身を浸している。互いの姿に映し出されるのは、自分自身の姿。まさしくおれたちは、またとない分身、心の友だった。
 なのに……ああ、なんということなのだろう。
 「……おや」
 婆さんはおれの手に、額を擦りつけんばかりにして両の目を近づける。そして、しばしの沈黙の後……ゆっくりと顔を上げ、重々しく呟いた。
 「お客さん……くれぐれも、ご用心なさいまし」
 なんということなのだろう。彼はあれから、どうしたのだったか。思い出せないのだ。アルコールで脳みそがとろけてしまったせいか、それとも生身のからだを、そっくり失ってしまったせいか。名前すら、なんといったのか思い出せない。あの頃は、毎日名前を呼び合っていたというのに。
 「……死相が、出ていらっしゃいますよ」
 占い師のくせに、死ぬだなどと、軽々しく言うんじゃない。そう言おうとして……言えなかった。
 はるかな記憶をたどり、そして、今の今に思い出す。厳冬の裏路地で、霧の朝、冷たい骸に成り果てていた彼の姿を。救急車がサイレンすら鳴らさずにやって来て、そそくさと事務的に、彼だったものを、回収していった。呆然と、石畳の上にへたりこむ、もうひとりの酔っ払いには目もくれず。
 あのとき、死んでいたのはおれであったやも知れぬ。影の国から目の前に現われ出た、もうひとりのおれ。あのときおれもまた、死んだのだ。名前を思い出せないのは、当然だ。あれはおれ自身だったのだから。
 そう、その証拠に、あれから数日後だったか。……彼と同じ運命を辿る寸前、石畳の上から引きずり起こされたのは。行く先はビロード張りの棺桶ではなく、戦場だったが。








 「……で、あんたは落ち込んでいるって、そういう訳か?」
 ああ、まあ、そういう訳だと、おれはまた項垂れた。ぐずぐずと鼻水を啜り上げながら、すっかりぬるくなった水っぽいビールを、ひと息に呷った。
 街角の片隅だというのに、彼はおろしたてのズボンが汚れるのも構わず路上に腰を下ろし、おれの背を撫でさすっている。こんなことの出来る男なのだと、とうの昔から知っていたはずなのに、それでもどこか新鮮な驚きを感じるおれがいる。
 外国人の男がふたり、あきらかにただの友人同士とは見えぬ様子で寄り添い、道の隅に座り込んでいるというのに、道行く人は誰も振り返るどころか、視線さえ送ってよこさない。おれたちの存在そのものが、彼らの目には入っていないのだろう。
 ああ、あの頃と同じだと、ぼんやりと思った。
 中身のなくなったアルミ缶を、頼りなくもてあそぶおれの手を取り、そっと包む。やんわりと握られた右手の感触に、おれは堪らなくなった。皮の手袋の下は、いつもの鋼鉄のはずであるのに、何故かその掌はひどくやわらかく、あたたかく感じられた。
 「泣くなよ……」
 あんたが泣いていると、おれまで泣きたくなるだろう?
 ひしゃげた缶が路上に落ちるのと、じわりと視界が滲むのが、ほとんど同時だった。
 言われたそばから、ぼろりと、涙が零れる。彼の指先が伸びてきて、素早くそれを掬い取った。眉尻を下げて、すこし哀しげに微笑む。握られた手に励まされて、おれもようやく、笑顔を返すことが出来た。
 「グレート。……」
 「なんだ、アルベルト」
 「ひとつ、うちあけばなしをして、いいだろうか」
 無言で頷くと、彼は目を細めて、おのれの手に、視線を落とした。
 「その、死相が出ているって話なんだが……」
 実は、おれも同じことを、言われたことがあるんだ。
 驚いて、見つめるおれに向かって、彼はこころもち、くちびるの端を持ち上げてみせた。いや、以前ドイツも東洋の神秘ブームだとかで、手相見だの、風水だのの本がいろいろと出ていたんだ。運送会社の連中のひとりが、一時期手相に凝っていて……皆の手相を、見て回っていた。そのとき、言われたのさ。もちろんおれは、右手に『化けの皮』をつけていたんだが。
 「結局、おれは死ななかったし、同僚も皆、手相なんていんちきだと笑い飛ばしたよ。けれど……こんな解釈も、出来るんじゃないかな?」
 指先が動いて、握られたおれの手を、静かに裏返す。あらわれた掌の上の筋をなぞりながら、彼は歌うように、続けた。
 ……もし、おれたちが生身だった頃の、最後の姿をそのままうつしているのならば……おれたちの掌に、死相が刻まれていたって、おかしくはないんじゃないのか? 血肉を奪われて、おれたちは皆、あのとき一度死んだんだ。幽霊みたいに、生身の頃の姿のまま、街中をこうして、徘徊しているんだ。
 でも、生きている。幽霊とは違って、おれたちは生きている。飲み食いもするし、誰かに向かって、働きかけることも出来る。こうやって、路上に座れば、気恥ずかしさやアスファルトの温度だって感じられるし……恋だって、出来るんだ。それすら確認できれば、とっくの昔に通り越した死相なんて、恐れる必要はない。そうだろう?
 目を丸く見開いて、まじまじと見つめるおれの視線を受け止めて、彼はまた、微笑んでみせた。額を寄せて、甘いぬくもりを宿した吐息で、冷え切ったおれの頬を暖めてくれた。
 「……奇抜で、大胆な解釈だな」
 「大胆っていうより、ご都合主義かもしれないぜ。そうでもしなくちゃ、長い長い人生、やってられないだろ」
 その、長い長い後半生を、あんたと一緒に生きるんだから。……他の死神には、あんたを渡さないよ。たとえそれが、あんたの昔の『心の友』であったとしても。
 「……妬いているのかね?」
 低俗な切り返しだと、自分で自分を嘲笑いたくなって、頬を思い切り歪めた。しかし、彼はおれを見捨てはしない。何も言わずに、ただ抱きしめてくれる。それが分かっていながら、おれはこんなことを言うのだろう。
 彼は知っている。かつての友人の代わりをさせたくて、こんなところでふたり、飲むことをおれが提案したのではないということを。憂鬱に囚われても、決して本当に死に焦がれているのではないということを。おれたちはもう、互いの想いを疑うような、野暮なことはしない。何があっても、世界中がおれたちに立ち向かってこようとも、互いが互いを守る。ともに生きてゆく。真に結びあっている。心の奥底では、ちゃんと分かっているのだ。彼も、おれも。
 グレート、と、彼の呼ぶ声。彼の懐に額を預けながら、おれは喉奥で、返事を返した。
 「あんたって、素直じゃないから。……」
 「それは、おまえさんとて、同じだろう」
 「それはまあ、そうかもしれないけれど……」
 ぐっと、おれを抱きしめる腕に、力が篭る。それでも、誰かの視線が、こちらに注がれることはない。道行く人びとの誰よりも、おれたちは地面に近いところで、蹲っている。幽霊のように、姿かたちの変わらぬまま、ここにいる。きっと、どれほどの時が流れても、同じことなのだろう。
 そして、おれたちのこの想いも、変わらない。どれほどの夜と朝が巡っても、きっと変わることはない。互いのぬくもりが傍にある、それだけで、生きてゆける。生きているのだと、信じることが出来る。
 「……なあ、アルベルト」
 「……ん?」
 「生きているんだよな、おれたちは」
 誰に顧みられることがなくとも、今このとき、おれたちは生きている。互いを抱きしめ、存在を確かめるだけで、じゅうぶんなのかもしれない。
 「ああ、生きているよ」
 切なさを引きずる笑みを浮かべ、彼は今一度、おれを引き寄せる。互いの肩にもたれあいながら、おれたちはしばし、その場に座り込んだまま、雑踏を眺めていた。



 
 了




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