Lieblicher als tausend Küsse











 台所で淹れてきたコーヒーをとっておきのカップに注いで差し出すと、彼は一瞥するなりぴくりと薄い眉を上げてみせた。
 ソーサーの上に添えたスプーンを取り上げ、コーヒーをすこし掬うと、わずかに傾ける。金褐色のしずくが転がり、カップのふちに向かって消えてゆくのを認めて、大きくまばたきをした。
 「まさか、ネルフィルター?」
 「探すのに、ちょっと時間がかかったけどな」
 「ここで手に入ったのかね?」
 「まさか。復活祭のころ、メンテで日本に行ったろ。そのとき張大人に教えてもらったんだ。調理器具がなんでも揃う市場。そしたら案外簡単に見つかった」
 日本ならと目星をつけたのには、理由があった。今はもう、姿を変えてしまったとある喫茶店の、ありし日の情景が思い浮かぶ。豆を燻すけむりで煤けた天井、やわらかな照明、ポットの注ぎ口から木綿布の濾し器に精妙な間隔で落とされる、玉のような湯水。あんな店がある国なら、道具も手に入るはずだと思ったのだ。以来、家にいるときは欠かさず練習して三ヶ月、いざ今日を迎えたという訳だ。
 ふむ、と顎をひき、彼はソーサーごとカップを持ち上げる。そして優雅なしぐさでそっとカップを口元に運び、わずかにひと口、含む。息を詰めて、その一部始終を見守った。ゆっくりと噛むように最初のひと口を味わって、もうひと啜りするとソーサーを置いた彼は、こちらを一瞥すると小さく噴きだした。
 「なんだねアルベルト、世にもおっかない顔になってるぞ」
 「……どうだ、コーヒー?」
 「ひと口飲んだだけで、簡単にうまいだのまずいだの言えんよ。それに自信があるんだろう? 吾輩にふるまってくれるってことは」
 それはまあ、と答えを濁して、手元のカップの中に視線を落とす。確かに、ある程度の手応えを得てはいたのだ。そうでなければ仲間うちでもっとも舌が肥え、もっとも辛辣なこの男に、ネルフィルターのコーヒーなどふるまえるはずがない。積み上げた煉瓦を崩さぬように、慎重に愛を交わしていた季節は過ぎ、すでになんの気遣いもいらぬ関係になった今なら、なおさらだ。
 彼と逢瀬を重ねるようになってはじめて、ベルリンのこの部屋でひと夜を過ごしたあくる朝のことだ。フレンチ・プレスで淹れたコーヒーをひと口含むなり、彼が渋面を作ったのは。
 ――ひでえなあ、泥水かいこりゃあ!
 もちろん、「千のくちづけよりも愛らしい」なんて賛辞を期待していた訳ではない。けれどもロンドンのカフェをまねて、わざわざプレスを買って使っていたぼくのショックは、結構なものだった。あまりの落ちこみように、彼がおろおろ機嫌を取ってくれたのはまあ僥倖として、以来ひそかにもくろむようになったのだ。彼が唸るような一杯を、いつか飲ませてやりたい。
 思い当たるものがあった。まだ彼が日本に住んでいたころ、しばしば連れて行ってくれた喫茶店のことだ。商店街のはずれの古びたその店で頼めるのは、シンプルなフィルターコーヒーとウィンナ・コーヒーのみ。しかしその味は、忘れがたかった。たった一杯のコーヒーに、果実や木の実や土や風や太陽、さまざまな味が落とし込まれ磨き込まれ、そのくせ水は澄んでいる。カウンターの奧で、黙々と働く初老の店主の手元にあったのは、木綿生地の濾し器とガラスのビーカーだった。もはや発明元のヨーロッパですら、ほとんどお目にかかれぬ古典的な方法で、ゆっくりと時間をかけ、一杯のコーヒーを抽出していたのだ。
 ――ほかの連中には、内緒だぞ。
 ただでさえ、極上の一杯にくらくらしているのに、そんな殺し文句を茶目っ気たっぷりに囁かれたら、虜にされずにはいられない。甘美な記憶とともに、その一杯はぼくにとって至高のものとなった。けれども、そのひとときを彼と分かちあうことができたのは、わずか片手の指にあまるほど。それから数年後、店主の引退とともに居抜きされてエスプレッソ・バーになってしまったその店に、彼とぼくが出かけることは二度となかった。
 ――あのコーヒーを、また彼に飲ませたい。
 もちろん、自家焙煎していたあの店の豆が手に入らない以上、再現は無理だ。おまけにこちらは道具を揃えたばかりの素人、プロの足下にも及ばない。けれども、想いだけは籠めた。誰よりも尊敬し、好もしく想うひとに捧げるにふさわしい一杯になるように。いっこうに料理の腕はあがらなくとも、せめてコーヒーや紅茶は、心からうまいと言ってもらえるように。
 それでも緊張で、心臓が止まりそうだ。
 息することもままならぬぼくをよそに、彼の挙措はいつもに輪をかけて、ゆったりとしていた。ひと口含むごとに、舌の上で転がし、静かに嚥下する。そして永遠にもひとしい数分ののち、ようやくからになったカップをソーサーに戻すと、テーブルに置き、ほほえんだ。はしばみ色の光が、細めた瞼の陰で揺れる。
 「……怖えよグレート、そんな笑い方しやがって」
 「怖がるよりも、自分で確かめてみてはどうかね?」
 「まったく、意地が悪いよな、あんたは」
 傍目には、きっとただの笑顔にしかみえない彼の表情に向き合えず、ぼくはまた視線を落としてしまう。カップの柄と右手の指が耳障りな音を立てぬよう気をつけながら、自分のコーヒーをおそるおそる啜り、……落胆する。味にふくらみが足りない。
 「だめだな、こりゃあ。……」
 「そう卑下することはなかろう。以前の泥水とはそれこそ雲泥の差だ。それにロンドンじゅう探したって、このレベルのコーヒーはそうお目にかかれんよ」
 「でも、あの店にはとうてい」
 「理想が高すぎるんだ、おまえさんは。最初からあのレベルのコーヒーを淹れられるんなら、世の中のカフェはほとんど、看板下ろさにゃあならん」
 「……」
 「ほれ、もう……機嫌をなおしておくれでないか」
 頬にそっと、彼の指の背が触れる。上を向く間もなく、指先が滑るようにうごき、口を曲げたぼくの頬をつまむ。やわらかいねえおまえさんの頬は、赤ん坊みたいだ、などとたわいもないことを言われ、つい皺の寄っていた眉間がゆるんだ。
 「ありがとう。うまかったよ、アルベルト。絹のような、舌触りだった」
 「……」
 「なにより、きみの心遣いが嬉しい。吾輩のために丹誠籠めて、きれいな器も用意してくれて」
 ――ずるい男だ。
 こんな間合いで、こんな声音でそんなことを言われたら、陥落せざるをえないではないか。あっけないと思われるのは癪だけれども、やっぱりぼくは彼に降参して、自分から彼の掌に頬を押しつけてしまう。Mon chéri、なんて囁かれて額にキスされて、自分の至らなさも端に置いて彼の愛に身を投げ出してしまう。気障で意地悪でなんでも知っていて、なのに哀しくなるほどやさしいこの男に夢中なのだと、思い知らされてしまう。
 「……器は、あんたが買ってくれたんじゃないか」
 「そうだったな。ロイヤル・ドルトンの白い薔薇、きみが使うのを見たかったんだ」
 「おれは、あんたが使うのを見たかったんだけど」
 「じゃあ、もう一杯ご馳走になるとしようか。きみがいやでなければ」
 「いやなもんか。喜んで」
 彼の術中にまんまとはまったと、わかってはいてもそれが心地よい。次の一杯は、先の一杯よりもきっとすこし上手に淹れられる。その次は、もっと上手に。まるでぼくらの恋のようだ。
 湯を沸かし、ドリップポットからネルフィルターに湯を注ごうとすると、すぐ後ろに彼がいた。腰にそっと、彼の手が添えられる。
 「あせらず、ゆっくり」
 「……ん」
 珠玉のような、湯水がこぼれる。たちのぼるあまやかな香気が、肺腑を満たしてゆく。



   了







付記:
 タイトルはバッハのコーヒーカンタータの歌詞から。去年の出張時、紅茶の国と思われているイギリスでも、かなりコーヒーが飲まれていると知って以来あたためていたネタです。個人的な印象としては、イギリス人は紅茶は家でも外でも飲むもの、コーヒーは仕事のリフレッシュ時などに外でおもに飲むものと位置づけているような気がしました。来月またイギリスに行くので、この話に出てきた「今はなき喫茶店」のモデルにしたお店の店主が、まあまあいいと評しているお店の豆を買ってくる予定。



ブラウザの「戻る」で、お戻りください。