Cost of Freedom何故、そんなところに穴が掘ってあったのか。それは分からない。掘られてかなりの月日が経っているのか、土の表面は見えず、雑草と野の花に覆われていた。 手にした酒の瓶を置いて、おれはちょっとした出来心から、その中に足を踏み入れてみた。ちょうど、ひとひとりが横たわって、おさまるくらいの広さと深さがある。棺を埋めるには、いささか浅すぎる。だが、横たわってみれば、おれのからだはその中に、すっぽりと納まってしまう。誰かがこの上から土を被せてくれれば、きっとおれが横たわっていたことなど、分からなくなってしまうに違いない。 人間、至るところに青山ありか。 ふと、そんなことを思う。くだらない想像だ。仮におれがここに横たわったまま、呼吸することを止めたとしても、おれのこの身は朽ちることはない。母なる大地に戻ることはない。 我々9人に、青山はない。どこぞの戦場で、錆付いたスクラップになるか。それとも、人知れず息を引き取った後、腐りもせずに横たわったままの死体を前に、アパートの管理人と警察が、首をひねるか。そんなところだ。 この世の果てに、置き捨てられた異形の者たち。それが、我々だ。そして、そのなかでもとりわけ異形の者がふたり、……ここにいる。そんな悲愴な運命を背負った者らしくもなく、ほろ酔いで、千鳥足になりながら。 「グレート。……」 呼びかけられて、おれはふと、目を開けた。 見上げると、緑と野の花に縁取られた青い空の端に、彼の姿があった。スプリングコートのポケットになかば突っ込まれた右手は、鈍色に光っている。ふたりでかわるがわる飲んでいたシェリーが回ったせいか、それとも、暖かな陽気に鬱陶しくなったせいか、手袋を取ってしまったらしい。常の彼らしくもない無用心さだ。 「願掛けは、終わったのか」 ああ、と、喉奥で答えて、彼は傍らに腰を下ろし、地面にじかにあぐらをかいた。こころなしか、いつもより視線が柔らかい。それも酔いのせいなのか、それとも、昔馴染みの場所に来たせいなのか。 珍しいものを見にゆこうと誘われて、ロンドンから持ってきた土産のドライシェリーを抱え、彼の愛車に乗り込んだ。振動とともに揺れる、ミラーにぶら下げられたロザリオをぼんやりと眺めつつ、不謹慎にもシェリーをちびちびと愉しみながら、小一時間。ついた場所は、農道が頼りなげに走っているだけの、野ッ原だった。 車を停めた農道から、やや離れたところに、小高い丘がある。その上に、一見してかなりの年月を経ていると分かる巨木が生えていた。樹齢500年は、いっているだろうか……そこが、彼の目指す場所に他ならなかった。 近寄ってみると、逞しく隆起する巨木の根元には、手作りの十字架やら聖画やらが、所狭しと並べられている。おそらくは、キリスト教がこの地に根付く以前からある、樹木信仰の名残。この樹も、何代目かの聖樹なのだろう。噂には聞いていたが、実際に目にするのは、はじめてのことだ。 聖母マリアの樹。そう呼ばれていると、彼は言った。遠い昔、ここで遊んでいた子どもが、聖母マリアの幻影を見て以来、この樹に願掛けをすれば願いが叶うという評判が立つようになったらしい。何やらルルドの泉と似たような謂れだが、ローマ法王庁には、奇跡と正式には認められていないため、こうしてひっそりと、地元の住民のみに大事にされる存在に、とどまっているのだという。 「まあ、そのほうがおれとしては、有難いな。奇跡なんて認定されたら最後、騒がしい観光地に早変わりして、地元の人間がゆっくり祈れる場所じゃなくなっちまう。聖樹の樹皮をひっぺがして、お守りだなんて売る奴も出てくるだろうし、そんなことになったら……早晩枯れちまうよ」 懐かしみと、深い敬意を篭めた指先で、そっと樹の幹を撫でる。きっと、子どもの頃からの馴染みの場所なのだろう。跪いて、頭を垂れたのを見届けると、おれは彼をそこに残して、丘の周りをぶらぶらと歩きはじめた。そうしているうちに、この穴を発見したのだった。 「マリア様が、願いを叶えてくれるといいな」 「……そう、願いたいところだ」 噛みしめるように呟いて、シェリーをひと口。濡れたくちびるを拭った指先を、そっとおれのくちびるに近づける。舌先で仄かな酒精を舐めとると、彼はくすりと微笑んだ。 「ところで、何してんだ、あんた」 「ご覧のとおりさ。いささか、哲学的黙想をば」 「哲学的黙想ならば、わざわざそんなところで死体の真似をしなくても、出来るだろう」 「……分かるか、やっぱり」 「そりゃ、分かるさ。そんな格好をしているんだから」 胸の上で組んだおれの手に、視線を落とす。もう一度、近づいてきた指先が、手の甲に浮き出た筋をなぞっているのを感じながら、おれはふたたび、目を閉じた。 「陳腐な想像を、していたよ」 おれがここに横たわったまま、目覚めることがなくとも、この身は朽ちることはないんだと、ね。ありがちな想像さ。 自嘲じみた口調で呟くと、彼が微笑んだ気配が感じられた。 「そうでもなかろう。いつだって……おれたちには、付き纏っている想像さ。とりわけ、おれたちふたりにね」 あんたは、他人の人生を演じる役者。舞台の上で、死を演じることだってある。おれは、こんなからだだ。いつまでこの檻の中に囚われて生き続けるのかと……日々考えていたって、おかしくはないさ。 まあ、囚われ続けるのも、悪くはないけれどな。 そのことばに、おれは思わず、両目を見開いた。こちらを凪いだまなざしで見つめる、彼の双眸に、迎えられた。 「……何故、起き上がらない?」 静かに問いかけられたことで、その問いは、かえっておれの心の奥深くまで響いた。 何故だか分からないが、おれが死体の真似事をしているこの穴の中は、奇妙に心地よかった。それこそ、起き上がるのが億劫になるくらい。これも陳腐なたとえではあるが、母親の懐に抱かれているような、そんな安寧をおぼえる。母なる大地から生まれ、母なる大地へ戻る。死の……誘惑か。 しばらく、無言のまま見つめあっていると、彼はわずかに眉を寄せ、ふいと視線を逸らせた。手を伸ばし、シェリーの瓶を取り上げ、ラッパ飲みする。もうそろそろ、中身は残り少ない。 「全部飲むなよ。我輩に、最後のひと口を取っておいてくれ」 「そこから起き上がるって言うなら、取っておいてやるさ」 「いや、我輩は黙想中だ。もうすこし、こうしていたい」 「ならば、そのまま死体になってろ。死体は、酒を飲まないんじゃないか?」 目の端で、咎めるような視線を送ってくる。死の誘惑に囚われたおれを、静かに罵倒している。 まあ、どうしてもって言うならば、こうしてやるさ。 そう言って、彼は最後の一滴まで呷ってしまうと、瓶を傍らに放り、おれの上に屈みこむ。しかし、くちびるより先に、指先が胸元に伸びてくる。ネクタイを掴まれ、強引に上半身を引き上げられた。 重ねられたくちびるから、生暖かなシェリーが注ぎ込まれる。そのあたたかさは、彼が生きているという証。みずからのいのちを注ぐことで、おれを生かそうとするかのように、シェリーが注ぎ込まれ、喉の奥へと流れてゆく。 「死の接吻ならぬ、生の接吻、だ」 くすくす笑って、彼は言う。あんたをそこから引きずり出すためなら、おれは何度だって、あんたとくちびるを重ねるよ。だって、生きていなければ、あんたとこんなこと、出来ないだろう? 「随分と、魅惑的な手段だな。自信が、おありとみえる。死神殿」 「あるさ。こう見えても、おれは結構、楽観主義者なんだ。あんたのほうが、よっぽど悲観主義者だよ、道化を装う悲劇役者め」 思わず、おれは苦笑を浮かべる。降参の旗印だ。 ネクタイが、更に引っ張られる。引き上げられるままに、おれは起き上がった。土と枯草を払うのを、彼も手伝ってくれる。泉下から地上へ戻ると同時に、柔らかな抱擁が迎えてくれた。ぬくもりが、身にしみる。 戻って来て、よかった。そう呟くと、彼が満足そうに、微笑んだ。 空になったシェリーの瓶を拾い上げ、互いの背に腕を回したまま、歩き出す。おれが振り返ったりしないよう、彼の腕に力が篭められるのが分かる。しかし、もうそんな必要はない。おれは、生きることを選んだのだから。 「おれが、何をあの樹に願ったのか……知りたいか?」 「おまえさんが、打ち明けてくれるならね」 「また、そんな言い方をして」 ふふ、と、彼が微笑む。風にそよぐ銀髪に覆われた頭が、おれの肩にこくりと預けられた。 「最期の瞬間を、あんたと同時に迎えられるように……そう願った」 あんたがいなければ、おれは生きてゆけないよ。あんたがいない世に取り残されるくらいならば……あんたより、先に逝きたい。でも、それじゃあんたが、気の毒だろう? だから、一緒に最期のときを迎えたい。それが、おれのもっとも願うことさ。 「……マリア様が、願いを叶えてくれるといいな」 「そう、願いたいところだ」 けれど、今は生きていたい。互いが生きて、呼吸をしている限り。 何度願ったか分からぬことを、あらためて願う。本当の望みとは、もっとも身近にあるものなのだと、おれは思う。 了 ブラウザの「戻る」で、お戻りください。 ☆ |