Cyber Rain










 彼がどこからかそれを取り出したとき、ついおれはとげとげしく、声を荒げてしまった。
 「007、あんた一体、どこからそんなものを……」
 「悪いかね」
 目の色も口元の様子も変えず、彼は薄い眉だけを、ひょいと上げてみせた。闇の中でも、それとわかるほどに。……もっとも、おれたちの視力は状況に応じて調節の出来るものなので、闇の中だろうと白昼の下だろうと、大した変わりはないのだが。
 おれがあっけにとられている前で、彼は堂々とパッケージの封を切り、雨風を避けながら中から一本、弾き出した。かるく鼻先に持っていって、いいねえ、この新鮮な匂いは、などとひとりごちる。パッケージをズボンの脇についているポケットに仕舞う仕草が、やけにゆっくりとしていて、おれは一層、眉間の皺を深くした。
 「よせ、こんなところで。熱で位置がばれる」
 「熱でばれるくらいなら、とっくの昔に我々は蜂の巣だ。004、おまえさんとて、体温があるじゃあないか?」
 「……」
 二の句が継げずに、おれは黙り込む。してやったりといった風に、彼はにやりと笑った。そこだけに、どこからかあるはずのない陽のひかりが差したように見えたのは……おれの錯覚だったのだろうか。
 雨はまだ、止みそうにない。この「性能テスト」も、いつ終わるのだろうか?






 もう、数時間になるだろうか。いや、十数時間? 時間の感覚すら、はっきりしなくなるほどの長い間、おれたちはこの場所にとどまっていた。
 絶え間なく降り注ぐ雨は、果たしてほんものなのか。意識の無いまま「ここ」へ連れて来られたときから、おれにとって、一切はまがいものとなった。そう、このからだをはじめ、周囲のものすべてが。
 まがいものの世界で、来る日も来る日も、おれは「性能テスト」とやらに駆り出される。時折、接触してくる「仲間」と名乗る声も、「性能テスト」で行動をともにする、同じ服を着た人びともまた、まがいものだ。ヒトとは思えぬ姿にされ、おのれの存在を疑いながら、ただ呼吸し続けるしかない。誰も彼も、実体をともなった人間とは、とうてい思えない。他ならぬ、おれ自身が最たるものだ。
 そんな世界で、どうやってこれまでと変わりなく、生きろというのか? ただプログラミングされた行動を繰り返し、うまくゆかなければ、またからだを切り裂かれるこの場所で? ……そう、思っていた。長い間。
 けれども、何かが変わり始めている。それが何故なのか、おれはまだ、掴めずにいる。そして、苛立っている。いつものように。






 二の句を継げずに、尚も眉をしかめていると、彼は煙草を咥えたくちびるの端を、またほんのすこし、歪めてみせた。したたかな老兵のような笑みに、思わず背筋が伸びる。
 「こんな状況下だ。それに、兵隊サンにゃいつだって、煙草と酒が支給されるもんだよ」
 「しかし、おれたちは……」
 「ま、確かに我々は、普通の兵隊とはちと違うがね。配給がないのなら、自力で調達するまでだ」
 煙草を支えるために、こころもち受け口気味になった顎を、おれは眉をしかめて睨んでいた。うっかり煙草のほうに目をやってしまえば、物欲しそうな顔になってしまうのは、分かりきったことだったから。
 険しいおれの視線を柳に風と流して、彼はこれもどこからか取り出したマッチで……戦場につきもののジッポーではない、マッチだ……、悠然と煙草に火をつけた。どういったコツがあるものか、この雨の中でマッチはきちんと役目を果たし、きびきびと振られた彼の手の中で、燃えさしに変わる。指先でぴん、と小気味良く弾かれて、それは密林の中のいずこへと、消えていった。
 くそう、と、おれは心中舌打ちせざるを得ない。彼ときたら、さもうまそうに煙を吐き出し、にんまりと笑みを浮かべるじゃないか。しかも、ご丁寧に戦場の兵士よろしく……いや、確かにおれたちも、「戦場の兵士」なのだが……両手で明滅する煙草の火を包み隠している。そんな吸いかたをされると、いかにもうまそうに映るじゃないか。ましてやおれは、もう何年も、何十年も、煙草など口にしてはいないのだ。
 ものの無かった東ベルリンで、かろうじて手に入ったロシア煙草。いがらっぽく、舌と肺にちくちくと刺さるようなその味を、記憶の底をさらって思い出そうとこころみる。しかし、思い出すほどの価値のあるものとも思えず、代わりに西ベルリンに仕事で出たときに、偶然手にしたアメリカ煙草のうまみが、ありありと甦ってきて、おれは頭を抱えたくなった。
 先ほど、彼がズボンのポケットにしまったのは、確かにあの、白と赤のアメリカ煙草のパッケージだった。出所は、なんとなく想像はつく。あのうっとうしい、ニューヨーク出身だという若い男が、ここの職員に手を回して、こっそり手に入れたのだろう。彼と奴は、仲が良いらしい。そのよしみで、お相伴に預かっているという訳か。
 目を怒らせていると、また彼と、視線がぶつかった。にやにやと、こちらを見ている。いつ砲弾が飛んでくるとも知れぬ場所で、冷たい雨に打たれ、よくもこんな顔をしていられるものだ。
 「……007」
 「何だね、004」
 いや、ハインリヒ、か。
 唐突に本名を呼ばれ、おれは思わず、息を呑んだ。
 目の前の彼は煙草を咥え、その火種を両手で包み隠しながら、尚もにやにやと、たちの悪い笑みを浮かべている。そういえば、彼にはおれの本名を教えていたのだ。一ヶ月ほど前、彼と三度目の「性能テスト」に出された直後のこと。何故かは分からないが、おれは彼を戦闘機の爆破から庇い、「破損」した。様子を見に来てくれた彼と、本当の名前をうちあけあった。まだ他の誰にも教えたことのなかった、おれの人間としての名を。
 何故なのだろう。
 「……おまえさんも煙草、好きかね」
 「……ああ」
 ちびた煙草に、蘇鉄の葉先から滴る雨水を吸わせ、足元へ静かに落とす。そうして、またおもむろに腰の辺りに手をやると、おれに先ほどのパッケージを、差し出してきた。
 「一本、いかがかね」
 さりげないようでいて、有無をいわせぬ声音。聞く者の腹の底に、ずしりと響く。決して重々しくはない、むしろさびさびとした、軽みのある声だというのに。
 考えるよりも先に、手が動いていた。
 むしゃぶりつくように飛びついて、煙草を一本、引きずり出す。鼻先に突き出されたマッチの灯に、夢中で端を近づけた。思い切り、吸い込んだ煙を、からだの奥から味わう。長らく煙草にありつけなかった後の、なじみの一撃に頭をくらくらとさせながらも、おれはたった一本の煙草を、貪り吸った。
 「……ほらほら、ちゃんと庇わないと、雨にやられちまうぞ?」
 「……え?」
 「火だよ、煙草の火種」
 別に、センサーを恐れてこうしている訳じゃあないんだぞ。
 揺れる視界の中で、彼は眉尻を下げて、笑っている。先ほどまでの、人の悪そうな笑みとはまったく異なるやさしさが、笑い皺に埋もれていた。
 ……ああ、そうなのだ。
 何故あのとき、おれはこの男を庇ったのか。何故、この男のことばは、素直に聞いてしまうのか。その疑問が、一瞬のうちに氷解したのが分かった。
 たちの悪い笑みを浮かべていても、どこか人の善さそうな、貧乏クジばかり引いていそうな雰囲気。したたかそうでいて、心の奥底に弱さを隠し持っていそうな、不可思議さ。おれよりもきっと、多くのことを経験して、けれども教訓を生かしきれてない不器用さ。だからこそ彼は、ここにいる。ここにこうして、みずから望んだわけでもない運命の渦に巻き込まれ、血肉を奪われながらも生きている。機械の化け物になったおれと、「性能テスト」の現場で、雨に打たれている。
 雨も、密林も、おれのこのからだも、すべてが空々しいつくりもの。けれども彼は、「生きている」。生きた、実体をともなった存在として、ここにいるのだ。
 ふと気がつくと、煙草はすっかり燃え尽きて、フィルターが焦げた臭いを漂わせていた。
 くちびるを緩めると、それは足元の草むらの中に、ぼとりと落ちた。腐ったりんごか何かが、地面に落ちてゆくさまにどことなく似ていて、いかにも今のおれの境遇に、ふさわしい。
 おれはまだ、生ける屍のままだ。けれども、今しがた貪った煙草の味が、生の実感を呼び起こす。まだおれの中にも、生きてゆける可能性が、残っているのかもしれない。
 おれも、生きられるだろうか? 彼のように。また人間として、生きなおすことが出来るのだろうか?
 「もう一本、いるか? ハインリヒ」
 みずからも一本咥えながら、彼がまた、パッケージを差し出す。おれは、……ほんのすこし、強張った頬を緩めて、頷いた。
 「喜んで」
 ……グレート。
 無言で、彼が微笑む。差し出されたマッチの灯で、ふたり顔を並べ、煙草に灯をともす。そしてなにも言わぬまま、火種を手のひらでかばいながら、煙草をふかしあった。
 頬に、雨がしぶく。丸めた背中にも容赦なく降り注ぎ、熱を奪う。けれども、内側はあたたかい。背を丸めて、ふたりで火種をかばいあうその空間だけは、不思議ないのちのぬくもりを宿らせていた。
 雨はまだ、止みそうにない。




  了




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