Mr.Disappointment










 
 地平線近くの東の空が朱鷺色に染まり、今日最初の陽光がほのぼのと朝もやのなかに満ちてきたころ、国境を抜けた。
 ハイウェイも混んでいないし、この調子ならば予定の時間よりもずいぶん早く、最初の目的地に到着できるだろう。しばらく快調に飛ばし、国境から数えて三番目のサービスエリアに入った。腹ごしらえもしておきたいし、なによりそろそろ「時間」だ。
 エンジンを切り、固まった肩の関節をほぐしていると、聞き慣れた電子音が耳を打った。画面を確認し、ゆっくりと携帯電話を取り上げる。疲れた声など、聞かせたくはない。一度咳払いし、通話ボタンを押した。
 「……もしもし」
 「起きているか、同志ハインリヒ」
 「あたりまえだ」
 そいつは結構と、彼が言う。まだ到着したばかりなのだろう、声の背後に遠く、搭乗を促す空港のアナウンスの声が聞こえた。
 「ねぐらに帰らんでいいのか。おまえさんの時間は、もう終わっただろうに、死神」
 「死神と吸血鬼は別ものだぜ。そこのところ、間違ってもらっちゃ困る」
 「ははあ、そうだったな。こりゃ失敬」
 乾いた笑い声。それには取りあわず、おれは先を続けた。
 「それはそうと、グレート。念のため確認だが、終演は九時半だったな?」
 「そう、九時半。開演は六時だ。おまえさんは、何時にはこっちに来られそうだ?」
 「六時半か、七時ってところだ。着いたらすこし宿で仮眠を取るから、気にすることはない」
 「そうか」
 さびさびとした声音は、いつもの彼のものだ。しかし先ほどの空回り気味の冗談が、気にかかった。やはり緊張しているのか。
 だからつい、口が滑った。
 「大丈夫か、あんた」
 「なんのことだ」
 手厳しいボレーのような切り返しに、思わず口ごもる。しばらく返答に給していると、くすりと笑う声がした。
 「心配御無用だ。おまえさんが気にすることはないよ、ハインリヒ」
 劇場を出たら、また連絡する。そう約束して、彼は電話を切った。
 ――果たして、本当に大丈夫だろうか。
 トラックを降り、自販機の前に立ちながら、おれはぼんやりと考えていた。みずからの意思で故国に戻り、仕事を見つけてからの彼は、確かにずいぶんと変わったようだ。過去の亡霊に立ち向かう強さを、いつの間にか培っていたらしい。だからこそ、かつて自分が所属していた劇団の舞台を観にゆく気にもなったのだろう。以前の彼ならば、ひとりでこっそり観にゆくことぐらいはあったかもしれないが、第三者にそれを宣言するなど、決してしなかったに違いない。
 ――しかし。
 なにも言わずとも、彼の抱えている不安や恐れは、手に取るようだった。劇団の役者たちはすっかり世代交代しており、生身のころの彼を知る者は、ひとりもいないはずだ。それでも彼は、わざわざロンドンではなく隣国での公演の、しかも天井桟敷の席を取った。彼の能力をもってすれば、赤の他人に化けて、堂々と最前列に座ることくらい、わけないはずだというのに。
 もし、まだかつての生き残りがいて、彼の身元がばれてしまったら。……まさかとは思うが、そんな事態が起こってしまったとき、彼の被る痛手を思えば、心配せずにはいられない。しかし、心配していると、正面きって言ってしまってはいけないのだろう。今晩会うときは、ただ単純に、三ヶ月ぶりの再会を喜ぶ友人のふりをしなければならない。
 「心配するな、グレート」
 おれがついてる。……思わず呟いたそのひとことに気恥ずかしさをおぼえ、おれは薄いコーヒーを一気に飲み下した。






 最初の目的地には、幸い予定よりもずいぶん早く着いた。
 荷物の一部を降ろし、ふたたびハイウェイに乗る。単調な田園風景のなかをひたすら走り抜け、首都に到着したときは、やはり六時半を回っていた。
 開演前に、一度彼に連絡を取っておくべきだったかと、ちらりと思いはした。劇場の場所を訊いておくのを、すっかり失念していたのだ。しかし結局、おれが携帯電話を手にしたのは、本社に連絡を取ったときと、ハイウェイ上で首都の支社に到着の予告をしたときのみであった。それに彼からの電話を、待っていなかったといえば嘘になる。しかし、彼は自分から電話してくるということが、あまりない男であった。ひとりきりのときは、驚くほど静かで、ひっそりと息をつめるように生活している。ただひとつ、酒すら入らなければ。
 支社に到着し、書類に必要事項を記入してしまえば、明後日の朝までおれは自由の身だった。紹介された安宿にチェックインし、シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。そのまま泥のように眠り、……目覚めたのは、九時ちょっと過ぎのことだ。慌てて顔を洗い、口をゆすいで身支度を整え、おれは携帯電話を目の前に置いた。あとは彼からの連絡を待ち、所定の場所に出かければよいのだ。
 ところが、九時半を過ぎても、電話は鳴らなかった。
 ――いったい、どうしたんだ。
 約束の時間を二十分ほど過ぎたところで、さすがにしびれが切れはじめた。カーテンコールが長引いているのかと、最初は電話することをためらった。しかし、今日は千秋楽でもなんでもない。思い切ってコールしてみたが、留守電に繋がるばかりである。三度目に留守電のアナウンスを聞いたとき、ついに伝言を入れた。ホテルで待っているので、連絡してほしい、と。
 四十五分。まだ連絡はない。うろうろと部屋を歩き回るだけでは、苛立ちをなだめることができなくなった。宿を出て、ゆっくりと河岸を歩きながら、遠くの丘の上でぼうっと光る聖心教会を眺める。あの教会がどんなふうに見えるところに、彼はいるのか。それとも見えないところにいるのだろうか。ひと足先に、飲んでいるなんてことはなかろうか。酒瓶片手に行く手からひょっこりと、「やあ、待たせたな」などと笑いながら、歩いてくるのではなかろうか。
 そして、ついに一時間。おれは四たび、彼の番号を呼び出した。
 ――どこにいるんだ、グレート。
 なにかがあったことは、確実であった。ならばせめて出てほしい。しかし今度も、彼の声を聞くことはかなわなかった。ただひとつ、最初のときと変わっていたのは、彼の電話が通話中であったことである。
 はっと思い当たることがあって、慌てて通話を打ち切った。その途端、激しく震えるように鳴り出した携帯電話に向かって、おれは怒鳴っていた。
 「グレート!」
 どこにいやがる。そのひとことを、夢中で飲み込んだ。
 「……ハインリヒか」
 すまない、遅くなってと、彼は呻くように詫びた。河岸にしゃがみこんでいるのか、息づかいの背後で、水音がかすかに跳ねる。まさか彼は川面に仰向けになって、たゆたっているのではないか。そんな恐ろしい想像が駆け抜けて、おれはもう一度、叫ぼうとした。どこなんだ!
 そのときだった。妙に明るい笑い声が、聞こえてきたのは。
 「……ばれちまった」
 「え?」
 「劇場を出ようとしたら、声をかけられてね。ばれちまった。おれを憶えている奴が、いたんだよ」
 もう九十五歳なんだと。それでも照明の裏方で働いている、名物爺なんだとさ。まあ、なんのことはない。人違いだと言って、笑って逃げてきたがね。まったく、恐れ入る。……早口にまくしたて、空々しく笑う声が聞こえる。呆然と携帯電話を握りしめていると、また水音がした。しばしの沈黙。そして低く、尾を引く嗚咽。
 河岸から一般道へ駆け上がり、おれは今度こそ叫んだ。
 「しっかりしろ、グレート。今どこだ」
 「……今?」
 「そうだ、聖心教会はどっちに見える。モンマルトルの丘は!」
 「……右」
 「河岸から離れろ。一般道に出るんだ。標識を見つけて、そこに書いてある通りの名前を言え。番地は!」
 ややあって、消え入りそうな声が告げた通りの名を、しっかりと記憶に刻み付けた。とにかく川を遡ればいい、と思った瞬間、おれは回れ右をして、猛然と走り始めた。
 「聞こえるか、グレート」
 通話中のままの携帯電話を耳に押し当て、おれはまた怒鳴った。かすかに情けない吐息の気配が、耳朶をかすった。
 「待ってろ。今行くから」
 おれがついてる。……無我夢中で叫んだそのことばを、おれは恥じはしなかった。憶えていることと、思うことは別なのだ。広い広いこの街で、今このとき、彼のことを思うのはおれひとりであり、彼はおれを待っている。うちひしがれた友人に、してやらねばならないことは、ただひとつだ。
 「待ってろ!」
 おれがついている。ついている。ついているから。ただそれだけを叫びながら、彼をめざし、おれは夜の街を走り続けた。


   了







*「機械人間通り9番地」のみの字さまへ、100ヒットのキリリクです。お題は「47、携帯電話」。果たして47になっているのかは謎。




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