Drive by(1)










 いきなり頬に電流が走り、おれはよろめいて、床の上に尻餅をついた。
 引っ掻かれたのだと気がつくまで、しばしの間を要した。痛みを感じたところに指先をやってみるが、血は出ていないらしい。痕が残るだろうかと、かすかな心配がちらとかすめる。いくら都落ちの身とはいえ、顔に傷をつけて、舞台に上がる訳にはゆかない。
 当の彼女は、しばらく床の上に横倒しになったまま、軋んだ笑い声を立てていた。やがてむくりと起きあがり、床の上に四つんばいになって、ソファの下に手を差し入れる。無傷であらわれたショットグラスを撫でさすり、にっと歯を見せた。
 「ごらんよ。割れてない……割れてないよ」
 「ああ、割れてないな」
 「最近のおまけってのは、随分とまあ、頑丈に出来ていること」
 長いブルネットの巻き毛が、ぐしゃぐしゃに絡まって、前後に大きく揺れている。次第に正体をあらわしはじめたミミズ腫れをいたわりつつ、おれはそのさまをぼんやりと、眺めていた。
 こうなることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。どちらかが、先に約束を破る。酒を断とうと誓いあったとき、ふとそんなことを思ったのだ。きっと、挫けるのは彼女のほうだ。中毒の度合なら、彼女の方がずっとひどい、と。
 なんという、いやらしい男なのだろう、おれは。決定的なきっかけがないと、女と手を切ることすら出来ないのか?
 「ハーパー社に、感謝の電話でもいれておけよ」
 ちっとは掃除の手間が省けたって、ね。
 そう、続けようとしたのに、残りのことばを飲み込んだ。顎をひいたおれに向かって、強固な意志をもって突き出された掌が、海草のようにゆらゆらと揺れていた。
 「ちょうだいよ」
 「……」
 「持ってるんでしょう、ねえ。どこにやったのさ」
 「だめだ」
 「何でよお、けちん坊!」
 グラスを持ったままの手が、したたかに胸を打つ。天井と床がさかさまになり、馬乗りになってもなお、彼女の打擲はやまなかった。今しがた引っ掻かれたばかりのところに、長い爪が食い込んでくる。乱れた黒髪の向こうから、血走った目がおれを睨みつける。胸が詰まり、涙が滲んだ。
 「やめ……く、苦しい!」
 「あたりまえだろ! あたしのほうが、もっと痛いし苦しいんだよ」
 床に投げつけられたショットグラスが、派手に砕け散った。隣の部屋の窓が、荒々しく閉められる音がする。きっともうすぐ、大家から苦情の電話が入る。いや、直接玄関のドアをノックされるだろう。なにしろ電話は、一昨日止められたのだ。
 ――そうさ。もう本当に、限界だ。おまえの選択は、間違っちゃいない。こんな女と共倒れなんて、まっぴらごめんだ。そうだろう?
 ひからびた笑い声を立てて、内なるもうひとりのおれが、囁きかけてくる。ソファの陰に隠してあった酒瓶を目ざとく発見し、彼女はおれの上から退いていた。酒瓶ににじり寄り、ブラウスの胸が汚れるのもかまわず、ラッパ飲みする。そんな彼女を眺めるおれは、きっと蛇の目をしていたに違いない。
 もう、手はずはすべて、整えてきたのだ。あと数分すれば、きっと更正施設の連中が、拘束服を積んだ車で乗り付けて来ることだろう。それでおれは、解放される。この先ひとりならば、なんとかなるだろう。
 ――薄情なことだ。ひとでなしめ。
 冷ややかな声に、唾でも吐きかけたい気分だった。かまうものか。これがおれなのだ。こうしなければ、おれまで駄目になる。かつては花形でも、いまやアルコール中毒にトラブル中毒。仕事をすっぽかし、声も濁り、ついに虎の子の場末のバーの仕事まで失った歌い女の情夫だなどと、後ろ指をさされるのはもうごめんだ。
 背後の扉が、重々しくノックされたとき、彼女は酩酊のただなかにいた。幸か、不幸か。
 抵抗するそぶりも見せず、素直に係員の言うがままに、よろよろと立ち上がる。両脇をすくわれ、彼女は連れられていった。壁に凭れたまま、黙って見送るおれに、ひと言の恨みも侮蔑も浴びせることなく。
 これで終わるのだ。徐々に階段を遠ざかってゆく足音を聞きながら、ぼんやりと思ったそのとき。かすかな歌声が、靴音に混じって低く、とぎれとぎれに、聞こえてきた。


  羽振りがたいそう良かった頃は
  有り金残らずはたいても、あたしは気にならなかった
  友だち全員、飲みに連れて行ったさ
  海賊もののウィスキーやら、シャンパンやら
  ワインをしこたま買い漁ってね



 雷に打たれたように、おれは飛び上がり、窓に駆け寄った。
 施設の車は、ちょうどエンジンをふかし始めたところだった。窓は全部閉まっていて、彼女がどこに乗っているのか、よく分からない。なのに、なぜ彼女の歌声が聞こえてくるのか。上機嫌の時に、いつも口ずさんでいたあの歌が。


  落ちぶれちまったら最後、
  誰もあんたのことなんか、憶えちゃいない
  ポケットが空っぽじゃ
  友だちだって、みんな裸足で逃げちまうのさ



 「おおい、待ってくれ!」
 窓から身を乗り出して、必死で手を振る。しかし、施設の連中が気がつく様子はない。車は滑るように、走り出してしまう。後方の窓ガラスに一瞬、ぐったりと項垂れた巻き毛の頭が映ったように思えた。
 「ステラ!」


  そうさ、落ちぶれちまったら最後、
  誰もあんたのことなんか、憶えちゃいない



 「ステラ……ステラ!!」
 今さらなんで、そんなにやさしい声で歌うんだ。なんであんなことになった。おれのせいなら、気の済むまで恨め。おれを赦すな。赦してくれるな!
 声の限り、彼女の名を呼び、叫んだ。しかし応えはないし、歌声ももう聞こえてはこない。取り返しのつかないことをしてしまったと、ようやくおれは、悟った。
 本当にもう、これで終わりなのだ。重い中毒患者に、肉親以外の者の面会は許されていない。彼女には、もう会えない。これでもう、終わりなのだ。
 「ステラ!!」
 夜空は曇り、月どころか星ひとつ見えない。あたかも、彼女との訣別を祝福するかのごとく。
 涙すら、出なかった。



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