Eternal Summer













 冬の終わりに部屋をあとにして、一カ月と15日。季節は移り、鉛色のこの街にも、ようやく春の気配がたちこめようとしている。
 数時間前までいたロンドンでも、桜がほころびはじめていた。その盛りを、彼とともに愉しめないことは心残りではあったが、決まりごとは守らなければ。長い休暇をぽんとくれた雇用主の厚意に応えるべく、おれはようやく、クロイツベルクの片隅にある自分の部屋に戻ってきた。
 軋むギロチン窓を開けると、一階のハラール食材店の店先でかかっている大音量のトルコ・ポップスが、この階にまで響いてくる。先ほども過剰な挨拶で、久方ぶりの再会を喜んでくれた常連たちが、彼らの生まれ故郷のことばで交わす会話が途切れ途切れに混じる。その喧騒を、煙草のけむりとともに、ゆるゆると愉しむ。自宅にいるのだという実感とともに、かわりばえのしない、いつもの生活へと自分をなじませてゆく作業に、しばしつとめた。
 それでもやはり、心奪われる。反芻し、気がついたら浸っている。抗わずに、流れに身をまかせることにした。それほどに、濃密な体験をしたのだから。
 ――夢のようだった。
 最初の二週間は、過酷な戦いだった。けれどもその後は、至福の日々。これからはきっと逢瀬のたびに、互いの部屋でより多くの時間を過ごすことになるのだろう。今回だって最初の三日間は、玄関どころかベッドから出ることすら、ほとんどなかったのだから。
 煙草を一本吸い終え、帆布のバックパックから、搭乗時間を待つ間に入ったカフェテリアで彼から渡されたものを取り出した。贈り物はふたつあった。長めの薄い包みと、持ち重りのする四角い箱。
 ――五月の薔薇のつぼみの、いとしいきみよ。  
 敬愛する詩人のもっとも美しい言の葉を掬いあげ、彼はふたたび、おれをそう呼んだ。シティのカフェのガラス越しに、直接頭の中へ囁きかけてきたときとは違い、いたずらっぽくほほえんでいる。おれもあのときとは違い、戸惑いはしなかった。薄いほうの包みにかかったサテンのリボンを解き、ウィリアム・モリスのラッピング・ペーパーをはいでいる間に、その中身がなんであるかも、すでに気づいていた。
 ――あまりによく、似合っていたのでね。いつも身につけてほしいと思って。
 めかしこんでフランス料理店に出かけたあの日、貸衣装屋で借りてきたアスコット・タイとよく似た、深紅の絹のスカーフ。彼のこまやかな指先で結びなおされたタイが、胸元で薔薇の花束のように揺れたとき、おれは心に決めたのだ。愛する者から贈られる賛辞を、素直に受け取りたいと。そして、彼にそう呼ばれるにふさわしい者でありたいと。
 いつもの暮らしで、こんな上質なものを身につける機会など、ありはしない。これを纏うのは、次に彼と会うときだ。そしてあの夜のように、彼の指にこのスカーフを解かれることを、夢想する。その瞬間を待ち焦がれているのだと、視線だけで伝えたおれの思いは、確かに伝わったはずだ。紙のカップに寄せた彼のくちびるが、わずかにほころぶのが見て取れた。
 しかし、もうひとつの包みの中身は、見当がつかない。そして奇妙なことに、おれがリボンの端をつまむと、彼はにわかに赤面して、そわそわと落ち着かなくなった。
 ――なんだグレート、そんなにやばいもんでも入ってるのか?
 ――い、いや、別に、……。
 紙カップに差した、プラスティックのスプーンをつまみあげて、中身の残り少なくなった紅茶をくるくるとかき回す。芝居がかった台詞を大まじめな顔で口にするくせに、時に彼はこうして、無防備な羞じらいをあらわにする。そのさまを、おれがずっと愛らしいと思ってきたことを、知っているのか、いないのか。
 ラッピング・ペーパーの下からあらわれたのは、白木の箱である。それをまた、注意深く開けて、思わず眼を見張った。小さなガラスのドームの中に、紫がかった深紅の薔薇が、まどろんでいる。薔薇はただ一輪だった。足すべきものも差し引くべきものもなく、ただそこにひそやかに、永遠の夏のまま時を止め、孤高の姿を晒している。
 ――プリザーヴド・フラワーだ。枯れない花なんざ、おれたちには悪い冗談みたいなもんだが、……。
 ウィリアム・シェイクスピアという品種なのだと、彼はひそひそと言った。本来はあわい色合いばかりのオールド・ローズに、この深紅は珍しいから気づいた。気づいた途端、買わずにはいられなくなってしまったのだと。それきり耳まであかくなって、俯いてしまった彼の想いを、おれは推し量る。その詩人の言葉をおれに捧げたから、そういうことなのだろう。
 けれども、もっとすばらしいことを思いついた。今こそ、日頃の鍛錬を披露するときだ。彼と語らいたくて、あの詩集を読みこんだのだから。あの言の葉ほど今このとき、胸に抱いた想いにふさわしいものがあるだろうか。
 ――これは……あんただろう、グレート?
 ――へ?
 気の抜けた返事がおかしい。それでつい、調子に乗った。
 ――そう、これはあんただ。こいつがあれば、おれはさみしくない。しばらくあんたに会えなくても。“季節はいつも冬に思えた、きみがいないので。花をきみの面影と見ては、花と戯れた”。……
 ――吾輩のお株を奪うなよ、アルベルト。それにおまえさん、おれを……買いかぶりすぎだ。
 ひとつ置いて隣のテーブルに腰掛けた女性客が、こちらを訝しげにちらりと見やる。それに気づいて、彼はますます縮こまった。けれども、おれは胸を張った。中年男がふたり、贈り物を前に顔を赤らめてひそひそ話をし、しかもシェイクスピアなんて吟じていれば、誰だって怪しむに決まっている。
 ――あんたこそおれを買いかぶりすぎだ、グレート。でも、そういうもんだろう? 誰かを好きになるってことは。
 ――……。
 ――なあ、どうせだから、記念撮影しないか?
 拒まれる前に携帯電話を取り出し、彼のタイを掴んで、強引に引き寄せる。いつもはおれの指など受け付けもしない、いまいましい液晶画面が、このときはなぜか、機敏に反応した。






 窓の外から流れてきていたトルコ・ポップスが、いつのまにか静かになっている。明日の朝は早い。そろそろ眠らなければ。
 寝室のサイドボードの埃を払い、彼から贈られたプリザーヴド・フラワーをそっと置いた。ベッドに寝転がり、夜の灯のみでしばらくその優雅なシルエットを眺め、さびのある彼の声を、耳の奥で再生する。
 ――五月の薔薇のつぼみの、いとしいきみよ。
 ずっと踏みにじられてばかりの人生だった。薔薇にたとえられるだなんて、思ってもみなかった。掌中の珠のように大切に、敬意をもって扱われ、慈しまれる。そんなふうに誰かに愛されたいと、ずっと夢見てきたことに、おれははじめて気づいたのだ。彼を愛し、彼に愛されることで。
 携帯電話を取りあげ、写真のアイコンを押した。幾度めかでようやく反応した液晶画面の中に、ぶれ放題のおれたちの写真があらわれる。それでも、彼が慌てふためいているさまがはっきりとわかる。不意をついて、振り回して、もっと彼の素顔がみたい。
 「……近いうちに、また」
 液晶画面に、そっとくちびるを寄せる。どさくさにまぎれてくちづけた、眼元の皺の感触がよみがえり、胸の奥が甘く疼いた。



   了



付記:
 「昨日の世界」に引き続き、ソネットネタが入っています。ハインが引用したのは98番。前回もそうですが、和訳はネットで閲覧できる、高木登氏のものを使わせていただいています。これがいちばん好みなので。
 うちの74は、基本7←4です。長年プラトニックに4を愛でていた7が(いっぽう、4のほうはずっと前から本気で「その」つもり)、熱烈な想いを4にぶつけられて、慌てふためきつついいようにされてゆく、というのが標準パターンかも。7に夢中な4は、すでに人目を気にしていません。仲間にばれるのも時間の問題かも。
 でもハイン、まだ自分がなんで「薔薇のつぼみ」と呼ばれるのか、気付いていません。このネタ、たぶん続きます。



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