Far Away, So Close!













 彼から、絵葉書が届く。先週はウィーンとブダペストから。そして一昨日は、ソフィアから。
 日付をみると、ブダペストからの葉書は8日前のものだった。ソフィアからのは6日前だ。彼が月に一度は出ている、イスタンブルへの超長距離便の往路にくれたものである。とすると、今ごろはもう復路の途中か。そのうちまた、別の長距離便に出ている便りをくれることだろう。
 写真はありふれた観光名所である。そして裏側には、万年筆の整然とした筆記体で、わずか三、四行の英語が並んでいる。ドイツ語と、時折フランス語なまりの混じる彼のくせのある発音を思い浮かべ、そのみじかい文章を幾度読んだことか。もっとも、たいしたことが書いてある訳でもない。そこに着いたときの天気や、道中あったことが簡単に述べられ、おれへの気遣いのことばと彼のイニシャルで締めくくられているだけだ。
 ――妙な男だよ、まったく。
 届いた順番に、葉書をテーブルの上に並べ、つい笑みが浮かんだ。
 メールどころか、インスタント・メッセージに写真を添付するのが主流の昨今である。なのにわざわざ、こうして絵葉書を買い、手書きのメッセージを添えて、ポストに投函する。怠け者の配達員のせいで、届くのに一週間以上かかるかもしれない。紛失のおそれだって、ないとはいえない。それでも彼は、かたくなにこの古風な手段を貫いている。運送業者の持ち物としてはいささか不似合いな、万年筆まで新調して。
 いや、おれは知っているのだ。彼がなぜ、こんなことをするのか。
 知っているというよりは、気付かされたと言ったほうが正しいだろう。結局一ヶ月近くこの部屋に居座ったあげく、仕事があるからと渋々ベルリンへ帰っていったその日の晩には、すでに気付かされていた。窮屈でないシングルベッド、ミルクの減りの遅さ、相槌の不在。つましい独り暮らしに彼が空けていった空虚感は、思いのほか大きかった。
 もともとは長い間、ここでおれは独りだったのだ。それにまた、ひと月半か二ヶ月経てば、彼はここにあらわれる。その日を心待ちに、またもとの日常に戻ればいい。そう思って、実際戻りかけたときであった。彼からの絵葉書が、ひっきりなしに届きはじめたのは。
 ――あんたと、離れたくないんだ。グレート……あんたのそばに、いてもいいか? ……もうすこし、だけでいいから。
 ヘルシンキ空港で別れを告げたというのに、結局ロンドンの片隅のおれの部屋までついてきてしまった彼は、玄関をくぐる一瞬前、観念したようにそう囁いた。夜の灯を宿し、不安げにうるんだひとみが揺れる。奥歯を噛みしめたのだろう、頬の一部がわずかにふるえ、こころ弱い彼の胸の内を伝えるそんな小さなしぐささえ、いとおしいと思った。
 ――いいよ。おまえさんの好きなだけ、いるといい。……アルベルト。
 幾度か呼んだことのある、けれどもいつもは使わなかったファーストネームで、あえて彼を呼んだ。通名として使っているセカンドネームにはない、あたたかな響きで彼を呼びたかった。
 手をさしのべると、きつく握りしめられていた彼の右手がほどけ、すがりついてきた。腕の中に迎え入れるが早いか、逆に玄関の壁に、背中を強く押しつけられる。慌ただしく後ろ手に、ドアが閉められた。嵐のような抱擁、そして、呼吸も忘れるほどに、くちづけを交わす。
 ――好き。……好きなんだグレート、あんたのことが! もうずっと前から、あんたのことしか考えられないほどに……愛してる。
 ずるずるとその場にへたり込んでしまった彼に引っ張られ、おれも尻餅をついた。長い間、押し殺していた想いを吐きだすように泣きじゃくる彼の髪を、背中をそっと撫でて、ふるえるからだを抱きしめる。いつの間にか、いとしい者をなだめるための動きは、愛撫に変わっていた。互いを支えながら立ち上がり、もつれあいながらベッドに倒れ込んでから一旦身を引いて、しっかりと彼の眼を見つめ、おれも告げる。
 ――愛しているよ、アルベルト。おれも、おまえさんのことを、誰よりも。……
 そうして、おれは彼を知り、彼はおれを知った。ただひたむきに互いを見つめ、求めあって、あまりに濃密な蜜月を過ごした。こんなに真摯に恋をするのは、もしかしたらはじめてではないか。その証拠に、こんなにも深く、彼に囚われている。
 彼がこの部屋に残していったものが眼に触れるたびに、狂おしい想いの虜になる。彼からの便りが届くたびに、夜の底で輝いていた彼のまなざしが、ともに昇りつめた刹那の歓喜がまざまざとよみがえる。忘れてくれるなと、耳の奥で彼の声がする。よそ見なんてしてみろ、蜂の巣にしてやると、凄艶なほほえみが瞼の裏に浮かぶ。ひとときたりとも、忘れられるものか。どれほど離れていようと、肌をあわせているほどに、彼を感じるのだから。
 「脅されなくとも、吾輩はいつだっておまえさんの虜だよ、死神どの……」
 やれやれと肩を竦めたそのとき、おもてで特徴のあるバイクのエンジン音が響いた。郵便配達のバイクだ。
 書留でもなければ、すべての郵便物は一階のメールボックスにまとめて放り込まれる。ある予感を得て、おれは玄関を飛び出し、階段を降りた。
 メールボックスを開けると、中にはガス代の請求書といくつかのダイレクト・メール、そしてまばゆい夕景のなかに浮かび上がる、細く瀟洒なモスクの尖塔。裏返すと、見慣れた彼の筆跡で、同じ文句が三行、並んでいた。
 ――I love you,
    I love you,
    I love you. A.H.
 廊下の壁にもたれ、おれはしばし、その場に立ち尽くした。歳甲斐もなく、と我ながら思ったが、高鳴る動悸を抑えられない。
 「まったくもって、おまえさんは死神だ。言うに事欠いて、こんなにまっすぐな殺し文句を、……」
 おれとて同じ気持ちだ。……わがいとしき薔薇よ。
 吐息とともに呟き、絵葉書を胸に抱く。気の遠くなるほど長い人生の、これが最後の恋であるのならば、本望だ。



   了



付記:
 うちの74は、精神的にかなり百合な感じ。お互い芸術を愛する人たちですし。しかし私が書くと、ジョニ×ニールもダニー×ニールも西行×崇徳院も、全部百合になるな。



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