Fascinationある決意とともに一度、深く息をつき、ドアをノックする。すぐによく通る声で、どうぞ、と返事があった。 「身支度はできたか、グレート?」 ドアを半開きにして、中には入らないまま、声をかける。すまんね待たせて、と彼は返してきたが、こちらに歩み寄ってこないところをみると、またタイ選びで迷っているのか。 入ってかまわないという意思表示をしたのも、彼が身支度にいつも以上に気を遣うのも、ぼくが相手だからこそ。幾度噛みしめても変わらぬそのよろこびを今一度胸に抱き、最初の一歩を踏み出す。ぼくの身なりに、彼はどんな顔をするだろう。それを想像するのは、愉しくもあり、ほんのすこし怖くもある。 実のところ、彼と一緒に時を過ごすときにすることは、昔も今も大して変わってはいない。音楽や絵画を愉しんだ後に、極上の酒と食事、あるいは美味しいコーヒーか紅茶にお菓子。それらすべてを、こころゆくまで堪能する。わだかまりを捨ててからは、そこから先の時間がとても濃密に、長くはなったけれど、「よろこび」を共有するという点は、同じだ。 そして酒を選んだときはたいてい、どちらかが相手を介抱する。仲間にはぼくのほうが圧倒的に酒に強いように思われているが、そういう訳でもない。想いを募らせるあまり、おかしな酔いかたをするときもあったが、彼をもっと近くに感じたくて、わざと酔ったふりをしたこともある。やさしい掌に大切に扱われることのこころよさを、彼に触れられて、はじめて知った。亡くした恋人とのふれあいは、むしろもっとあっさりしていたように思う。 けれどもその夜、ひどく酔ったのはぼくではなく、彼のほうだった。玄関を開けるなり、彼は文字通り這うようにバスルームへ向かうと、便器にしがみついてひとしきり吐いた。しばらくして、よろよろと自力で壁づたいにリビングまで戻ってきたが、顔は土気色で、みるからに消耗していた。 「グレート、大丈夫か?」 「……吐いたから、じきおさまるだろう。大丈夫といえば大丈夫、大丈夫じゃないといえば、そりゃあ、まあ……」 「なら黙ってろよ。無理してしゃべることもない」 「なれば、仰せのとおりに」 大仰に礼をしてみせたが、案の定ひっくり返りそうになり、慌てて肩を掴んだ。ここぞとばかりにふところ深く、貧弱な彼の肉体を抱きしめる。そのまま寝室へ運び、ベッドに座らせて、水を満たしたグラスをサイドボードに置く。ようやく吐き気もおさまったのだろう、彼はグラスを手に取り、噛みしめるように水をゆっくりと飲んだ。 「まったく……厄介なからだだよ。どうせ人工物なら、悪酔いなんてしないように、作り替えてくれりゃあいいものを」 「でも、たまには不便なことがあるからこそ、おれたちは人間でいられる。あんた前にそう言ってなかったか」 「ああ、言った言った。おまえさんとジェット相手に、ふんぞりかえって偉そうに」 「そこまでは言ってない」 「いやいや、結果的には、そういうことさね。ざまあねえよ。おまけにおまえさんに、迷惑かけて」 ――別に、迷惑じゃない。 抱きとめた瞬間、ほのかに薫ったトワレと、一瞬頬に触れた絹のスカーフのなめらかな感触を思い出し、ぼくは黙って、かぶりを振る。泥酔していても、彼のふるまいは独特の空気を纏っていた。野卑とエレガンスの、絶妙な融合。そのどちらも知っている、ほんものの大人の男でなければ、醸し出せない雰囲気である。 手探りに、枕を探すそぶりをみせたので、ジャケットをそっと脱がせ、横に寝かせた。タイがわりに巻いていたスカーフも解いて、首元をくつろげてやる。しわがれた声で、すまん、と呟いた彼に、気にするな、と返した。 「次に飲むときは、おれのおごりにさせてもらうよ」 「気にするな、割り勘のほうが気楽だ」 「しかし……」 「どうしても気になるってんなら、そうだな。……」 もっと、記念になるものがほしい。飲めば消えてしまう酒よりも、大好きな彼をいつもより近く感じたこの夜を、これから先も繰り返し、思い出せるように。どうせ叶うみこみのない片恋、その形見くらい望んだとしても、罪にはならないと信じたい。 ふと、手の中にまだあったスカーフの存在に気づいた。イギリスらしいペイズリー模様と、やわらかな感触を確かめると、自然と口元に笑みが浮かんだ。 「これ、くれないか。あんたが今日してたスカーフ」 「……ええ?」 「なあ、いいだろ。これなら一回、酒をおごってくれるのと同じくらいだろうし」 「しかし、おれのお古だぜ。せっかくなら、新しいものを……」 「いや、いい。これがいいんだ」 スカーフを握りしめ、やや強引に言ったぼくを、彼はどんよりと充血した眼でしばし見つめ、そして小さく吹き出した。 「……なんだよ、グレート」 「いや、おまえさん、あまりに必死なもんだから」 「必死じゃない」 泥酔しているようでも、案外彼の頭がはっきりしていることに、ぼくはうろたえてしまった。そんなぼくの狼狽を愉しむように、彼は枕に半分顔を埋めて、にやにやしている。気恥ずかしさに耐えられなくなって、視線を逸らすと、ぽんぽんと腕を叩かれた。二度かるく叩き、親しみの籠もった掌で、そっとぼくの腕を撫でてくれた。 「ハインリヒ、おまえさんは変わったねえ」 「……どこが」 「昔はそんなふうに、感情をあらわにすることもなかった。いつも仏頂面で人を拒んで、なにを考えているのかさっぱりわからなかったが、今は違う。思うところをちゃんと口にして、結構こだわるところは、こだわるしな。おまえさんのこだわりのツボが、ちぃとわからんときもあるが」 ――わからなくて、いい。 むしろこの先も、わからぬままでいてほしい。気の置けぬ親友のふりをして、いつもまとわりついてくる男が、夜毎涙にくれるほどに自分に恋い焦がれているだなどと。陰鬱さを押し隠してまで道化を演じ、仲間の和を重んじる彼のこと、仲間のひとりと特別な関係になることなど、望むはずもなかろう。 押し黙るぼくの腕を、今一度、きゅっと掴んで、彼の手が離れる。そして、彼は笑った。大きな眼を細め、とろけるような笑顔になった。 「ま、そのほうがいいさ。駄々をこねるなんざ、かわいいとこもあるじゃないか。今のおまえさんのほうが、ずっと……いい。おれは好きだよ」 「……」 「スカーフ……あげるよ。でもそれだけじゃ悪いから、次はやっぱり、おれのおごりで、……」 それきり、彼が眠りに落ちてしまったのは、ぼくにとってさいわいだったと言うべきだろう。しばらくぼくは、立ち上がれなかった。高鳴る鼓動と、火照る頬をもてあましたまま。 こうして、彼のスカーフは、ぼくのものになった。当の彼はあの晩、やはり相当に酔っていたらしく、スカーフをぼくに譲ったことを憶えていないようだった。時折、いぶかしげな表情でクローゼットのタイ掛けを眺めていたが、ぼくはだんまりを決め込むことにした。彼に返す気は、もちろんさらさらなかった。幾度か試しに身につけてみて、自分にはそぐわぬものだとわかってはいても。 亡くした恋人の形見を持つことすら許されなかったぼくの、臆病でつまらぬわがままだと、わかってはいても。 部屋に入ってきたぼくを認め、彼は両眼をまるく見張り、二秒ほど遅れて、ああ、と声を絞り出した。 「アルベルト、そうか! あのとき、きみに……!」 「やっと思い出したか?」 「ぼんやりと、いや……確かに」 額に手を当てて、苦笑する。そのまま俯いてしまった彼に歩み寄り、紅潮した耳の先に、そっとくちびるで触れる。一本取ってやった。でも心の奥底で、ぼくは望んでいる。いつものように、彼ならではのふるまいで、心ふるわせてほしい。 並んで鏡の前に立つと、彼はふむ、と顎をひいた。そして美しい先細りの指で、ぼくが首に巻いたスカーフの結び目を、するりと解く。 「こんな渋いペイズリー柄は、老木を賑わせるためのもの。きみは素材がいいんだから、もっと素朴なもののほうが似合う。その、茶系のジャケットとスタンドカラーのシャツに合わせるなら、……そうだな」 代わりにクローゼットの中のタイ掛けから、彼は藍染めのスカーフを抜き取って、ぼくの首に巻いてみせる。不規則な繊維がしっとりと輝いて、夜の河のようだ。 「山繭のスカーフだよ。きれいだろう、よく似合ってる」 鏡越しにウィンクした彼は、ぼくの首から解いたスカーフを、すでに身につけていた。ひさしぶりに元の持ち主の首元におさまったそれは、つつましやかに襟を飾っている。さすがに脱帽せざるをえなかった。わざと口惜しそうにしてみようとしたけれど、結局妙にこそばゆい、おかしな表情になって、鏡の中の彼に寄り添う。 「ようやく、落ち着いたよ。こいつはずっと、おれの気に入りでね。見失って以来、心の一部をどこかに置き忘れちまったような気持ちが、ずっとくすぶっていたんだが」 「……すまん、グレート」 「謝るこたぁないさね。べろべろになるまで酔っ払っておまえさんに介抱させた、おれが悪い。それに」 彼の指先がやさしく、頬を撫でる。促されるままに、ぼくは俯く。 「考えてみりゃ、当然のことだ。おれの心の一部を、おまえさんが持っていたのは」 もう、恋の形見はいらない。触れあうくちびるの熱を感じながら、ぼくはひそやかに、笑みを浮かべた。 了 付記: つきあいはじめてすぐのころの74。今回は、あえて純情な感じで書いてみました。ハインはちょっと病的なまでに、グレートさんに執着してるといいなと思うのです。あと、平成アニメにあった指輪のエピソードは、採用していません。あれはどう考えても、無理のある設定だと思うので。 ブラウザの「戻る」で、お戻りください。 |