The First Time













 手すりは古びすぎて危ないからと、さしのべられた手にすがり、薄暗い階段を最上階までよろよろと昇る。ようやくたどり着いた玄関で、ポケットから鍵を取り出すと、右斜め上からしのび笑いが聞こえてきた。
 「グレート、あんた飲み過ぎだ。ロンドンとベルリンの区別もつかなくなってるぞ」
 ああ、そうだっけと、口の中でもごもごと返していると、やわらかな接吻に邪魔をされた。ただ触れるだけで彼は遠ざかり、自宅の鍵を目の前で振ってみせた。
 青いガラスの目玉が、ぎょろりと光る。金属と触れあい、すずやかな音をたてた。
 「あんたとお揃いだ。この前そっちに行ったときにわかってたけど、ちゃんと使ってくれてるんだな」
 「あたりまえだろう。ほかでもないおまえさんからの贈り物を、無碍に扱えるかい」
 「それもそうだ」
 愉快そうに彼は笑い、ドアを開ける。リビングの古ぼけたソファにおれを導き、好きにくつろいでてくれ、とキッチンに引っ込んでいった。
 灯りもつけないままのリビングで、おれはもう一度、おれの自分の鍵を取り出す。鍵についている揃いのアミュレットは、窓越しにうっすらと差す夜の灯に透かしても、なお青い。トルコ語でナザル・ボンジュウと呼ばれているのだと、彼から教えられた。
 ――「邪視」から身を守るためのお守り。あんたにいちばん、必要なもの。
 そんなメッセージとともに、ウムラウトのたくさんついた、けれどもドイツ語とは異なる言語の社名が印刷された封筒におさめられて、それは届いた。邪視、つまり他人を羨む視線が災いを引き起こすという考えはヨーロッパにも、アジアにもあるが、東地中海ではとりわけ強い。なるほど、舞台に上がるおれには必需品だ。吹けば飛ぶようなスタンダップ・コメディアンにも、つまらぬ妬みを向けてくる者はいる。ショウビズの世界に生きる者にとって、それは勲章でもあるのだ。
 やがてキッチンから戻ってきた彼は、フレンチ・プレスのコーヒーポットに、チョコレート菓子のロゴが印刷されたマグカップを二個、手にしていた。
 「どっちでも、好きなのを」
 とは言うが、中身は同じポットから注がれたコーヒーだ。マグカップも見慣れたものである。食器も家具も、概してわれわれ九人は、物持ちがよい。いのちのないものにもなにがしかの愛情を注いでしまうのは、われわれの、とりわけ彼の習い性であった。
 客人の礼儀として、どちらかといえばくたびれていないほうのカップを取って、コーヒーを啜った。酔いの回ったからだに、カフェインが沁みる。中身が減るに従って、見覚えのある、しかし記憶よりもかなり成長したひびが眼に入って、ついほほえんだ。
 「しばらく来ないうちに、だいぶ大きくなったなあ」
 マグカップのロゴと同じ、ヘーゼルナッツの入ったチョコレートを大きな手で割ってすすめながら、彼もほほえむ。
 「そりゃそうだ。生きてりゃコーヒーは毎日飲む。手を滑らせて、シンクにマグカップを落とすたびに、ひびはでかくなる」
 「ええと、……何年前だ? 吾輩がここに、最後に来たのは」
 「四年前。ちょうど、四年前だ」
 そんなにご無沙汰だったか、と返すと、彼は喉奥で頷く。もう数十年、しじゅう顔を合わせてはきたが、思えば長距離の仕事のついでにと、彼がおれのアパートメントを訪れることのほうが、圧倒的に多かったのだ。
 うすむらさきを帯びた青灰色のひとみが、キッチンから差し込む弱い照明を受けてきらめく。引き込まれるように、おれは左手をのべ、彼の頬に触れた。
 いとしいアルベルト、わが百年の想いびと。親友としてではなく、互いの最後の恋人として寄り添うことが、われらの望み。その証を立てるために、おれはここにいる。ともに生きる伴侶として、はじめて彼の家の扉をくぐったのだ。
 「長い間、待たせて……すまなかった」
 銀無垢の髪をさらさらと揺らし、彼はかぶりを振る。鋼の右手でおれの手を包み、髪と同じ色の長い睫を夢見るように伏せる。
 「やっと……やっと、来てくれたな。グレート」
 「……ああ」
 「コーヒーとチョコレートの意味、分かってるよな?」
 頷いて額をつきあわせ、肩を揺すった。彼にしてみれば、今宵はもうひとつの初夜。きっとこの夜を、ずっと待ち望んでいたに違いない。
 「ちゃんと……酔いを醒まさなくちゃな」
 「まずは熱いシャワーってのは、どうだ?」
 もちろん一緒にと、彼が甘く囁く。コーヒーの最後のひと口をゆっくりと愉しんでから、指を絡ませ、立ち上がった。






 ――はじめてだ、こんな気持ちは。
 かぐわしい春の兆しとともに、唐突に訪れた蜜月を彼とともに分かちあいながら、幾度その思いを噛みしめたことだろう。そう、おれは真実の恋を知らなかった。生身の人間として五十年足らず、異形の者としてさらに数十年。いたずらに長い歳月を生きながら、真実の恋のなんたるかすら、知らなかった。
 シャワーの熱と、おだやかな愛撫にほんのりと肌を染めて、彼はベッドの上に身を横たえた。まばゆい光景に見とれていると、にっこりとほほえみかけてくる。傍らに寄り添い、ベッドサイドの灯りをうつして黄金に輝く髪に、指をくぐらせた。
 「五月の薔薇のつぼみの、いとしいきみよ」
 はじめてきみの眼を見つめたときのあの姿と、今の姿は、ちっとも変わってはいない。……彼も知っているはずの言の葉で、彼の美を讃える。見てくれが何十年も変わらないのは、われわれとしては当然なのだが、そんな些末なことに言いがかりをつけるほど、無粋ではない。
 「何番だっけ、それは?」
 「104番」
 「有名なのと、気に入ったのはいくつか諳んじたけれど……さすがに無理だ、全部は」
 「そりゃそうだろう。全部で154篇もあるんだ。いくつか暗誦しているだけでも、立派なもんさ」
 まだ湿り気を帯びた前髪を掻き分け、白い額にそっとくちづけると、彼は甘く鼻を鳴らした。この際だから白状しちまう、もうとっくにばれてるだろうけどと、くすくす笑う。
 「あんたとたくさん喋りたくて、シェイクスピアのソネットを読み込んだんだ。ルネサンス詩なんてほんとは、ぜんぜん興味なかった。でも、ほかの誰よりも、あんたを独占したくて、誰にも渡したくなくて……いつの間にか、シェイクスピアだけじゃなくて、詩も好きになってた」
 「それはきみの中に、詩を愉しむ素養があったってことさ」
 物語を愛し、至高の音楽を奏でる感受性をそなえているのだ。詩に夢中になるのも、当然だろう。しかし彼は切実なまなざしを、ひたと向けてきた。
 「グレート、あんたが教えてくれたんだ。芝居のおもしろさも、詩の豊かさも、あんたと出逢わなければ、気づくこともなかった。ぼくはなんにも知らなかったんだ。こうして、肌と肌で触れあうよろこびすら……」
 「……アルベルト」
 「だから、もっと教えて。あんたの知る限りのこと、ぼくにすべて」
 すこし、舌足らずの英語。愛らしさに、頬が緩んだ。水晶のまなざしにおれひとりを映し、身も心もすべてをゆだねてくるとき、彼はいつも小さな子どもに戻ってしまう。あやすように髪を撫で、ふるえる瞼にくちづけて、ゆっくりと降りてゆく。陰影の濃い鎖骨のくぼみ、金属と肌の継ぎ目、銃口のあいた右手の指先。こまやかに慈しみながらも、やはり買いかぶられている、と思った。
 「おれの知っていることなんざ……がらくたばかりだぜ」
 虚飾と酒色にまみれ、恥ばかり多いおれの半生。多くの者を傷つけた。むなしいことばにむなしい情事、わが身を擦り減らしてどん底に落ちた、平凡でちっぽけな、取るに足らぬ酒飲みの能なし。それがおれの正体だ。生きながらにして、すでに死んでいた。サイボーグにされなくとも、早晩共同墓地の灰になっていた。……
 頬に触れる硬い感触に、ふと顔を上げる。大きなひとみを哀しげにうるませて、彼がじっと、おれを見つめていた。
 「あんまり自分を責めないでくれ、グレート。やっぱり、酒が入っているせいか?」
 「……さあな」
 わざと突き放すように答えると、おれの頬に添えた彼の右手に、力が籠もった。
 「冗談でも、もう自分を卑下するな。あんたがそこまで自分を貶めるんなら、あんたがぼくに捧げてくれたことばは、どうなる? あれも全部嘘なのか?」
 「……」
 「美しい詩も、心が籠められていなければただの文字と音だ。けれどもあんたは、本心からぼくに詩を捧げてくれている。ちゃんと知ってるよ、あんたがダメな男だってことくらい。何十年のつきあいだと思ってるんだ?」
 「……アルベルト」
 「でも、そんなあんただからこそ、愛してるんだ。それを忘れないでくれ」
 赦しを乞うことばは、接吻で遮られた。はじめは触れるだけ、やがて深く、熱を交わすように。
 「すまないと思うなら、……ちゃんと抱いて。ここで、ぼくの部屋で、あんたのものになりたかったんだ。もう待ちきれない……」
 導かれて触れた彼の果実は、すでに熟しきり、蜜を滴らせていた。伝い流れた蜜で背後もしとどに濡れて熱を宿し、指先で触れただけでぎゅっと収縮する。これほどまでに求められていることに、胸が痛くなる。からだの芯が燃え立ち、彼の鋼の指先が奏でる、あの哀しくなるほどにやさしいバッハのカンタータが、耳の奥で響きはじめる。
 「あっ……あぁあ! ぐ、グレート、グレート……!!」
 強く引き絞られ、彼の熱と鼓動を、彼の愛を、全身で感じ取る。深く繋がり、包み込まれながら、独りではないのだと思った。こんな気持ちは、ほんとうにはじめてだ。この広大無辺の宇宙でただひとり、おれを暗闇から救う彼と分かちあうよろこび、真実の恋。
 「愛している、アルベルト。わが薔薇よ……」
 きみこそわがいのち、わがすべて。
 懸命に首をのべ、触れあったくちびるに、ドイツ語なまりの同じことばがそっと吹き込まれた。



   了



付記:
 74部屋再起動してから、はじめてエロ書こうと決めて書きました。しかし暑さのせいで、かなりパワーダウンしたかも。もっとエロくしたかったのに。
 なにしろ74はよく喋るカップルだと思うので、情事の最中もあれこれ喋ってます。人称が途中で変わっているのは、わざとです。ハインはもともと「ぼく」な人なので、グレートさんの前でほんとに無防備な状態になると、ぼくに戻ってしまいます。グレートさんが彼をきみと呼ぶのは、やっぱりスイッチが入っている証拠。もっと本当に、粘液度高めな話とか、艶笑譚っぽいものも考えているので、そのうちに。まあ、うちの74は互いを神聖視しているので、あんまりひどいことはしないと思いますが。



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