Before the Flood(1)













 「参ったよ。まったく迷惑千万だ。そりゃ今までだって、出発直前にスケジュールが変わることはあったし、洪水だって嵐だって、大雪だってあったさ。そのたんびに道路は封鎖、こっちはおまんまの食い上げだ。でもこんな、いつ再開できるかわからないなんてことはなかった」
 ふむ。それで?
 「時期が悪い。なんだってよりによって稼ぎ時にこんなことになるんだよ! こちとら勝手に荷物を運んでるんじゃないんだ。待ってる相手ってもんがいるんだ。会社の信用にも響くし、この不景気なご時世、会社につぶれられちゃ困る。絶対困る」
 なるほど?
 「うちの会社はほら、トルコ人経営だろ。だからムスリム相手の荷物が圧倒的に多い。今の時期、食材の輸送が滞るってのは、あっちゃいけないことなんだ」
 「……今の時期?」
 ようやく声に出して反応を示すと、彼の眼が輝きを帯びた。ミルクティーを満たしたマグカップを引き寄せ、続きを息せききってしゃべりだす。
 「ラマダーンだよ、ラマダーン! 今年は来週月曜からなんだ。あの時期、連中は伝統的な食べ物をほしがる。フレンチ・フライだのローストチキンだのじゃ、胃袋は満たせても宗教心と里心は満たせない。それで今回だって、ナツメヤシとかトルコ産のパスタとか、カマルッディーンとか……」
 「カマ……なんだって?」
 「これ」
 帆布のバックパックから取り出したものを、どさりとテーブルの上に置いてみせた。なにやらオレンジ色のセロファンに包まれ、平たくのばされたペーストで、中身はさらに濃いオレンジ色をしている。印刷のずれたラベルの文字はアラビア語。当然読めないのだが、アンズの絵が描いてあるので、アンズの果肉のペーストなのだろう。
 「ラマダーンには、欠かせない食い物らしいぜ。ジュースとか、プディングにしたりしてる。でもシリア原産でさ、例の戦争で、最近は品薄なんだと。だからうちの社長が必死になってかき集めて、フランスやイギリスで売りさばこうとしてたってのに」
 「プディング、ねえ。どうやって作るんだ?」
 「え?」
 話の腰を折られ、不機嫌そうに眉をしかめる。つい、苦笑が漏れた。料理の話を彼にふっても、出てくるものはたかが知れている。舌は肥えているくせに、いまだにパンケーキひとつ、まともに焼けないのだ。これはやはり彼自身が言うとおり、料理のセンスが絶望的に欠けている、としか評しようがない。
 くすくす笑っていると、彼はさらに不機嫌な顔になって、カマルッディーンをこちらに押しやってきた。今日びインターネットで調べれば、いくらでもレシピが出てくるはずだ。せっかく手みやげに持ってきてくれたのなら、これでデザートでも作ってやることにしよう。なんにせよ、理不尽な理由で収入が減ったことに、不満を抱えているには違いないのだから。
 「ところで、アルベルト」
 声をかけると、マグの向こうから、なんともばつが悪そうにこちらをちらりと見る。問うてくれるなと、言わんばかりだ。
 ――そういう訳にはゆかんさ、悪たれめ。
 そう、この男が長々と喋る状況は二種類ある。戦いのさなかならば、戦略を練っているとき。日常生活ではうってかわって、防戦したいとき。つまり、訊かれたくないことがあるときと決まっているのだ。
 ――さては、おれの悪癖がうつったか。
 そんな彼をいとおしく思う。しかし甘やかしすぎるのは、互いのためによくはない。
 「前から言ってるが、いきなり来るときはせめて、電話を一本くれないか。これで何度めだ?」
 「……三度め、かな」
 「ならば何度も同じことを言わせてくれるな。登録してある番号を押すだけ、簡単だろう?」
 「だって、あんた仕事中だったんだろ。なら出られないじゃないか」
 「出られなくとも、メッセージを残してくれればいい。吾輩にも、準備というものがある」
 「部屋が散らかってるのは、気にしないぜ。片づける愉しみもあるし」
 「そうじゃなくて、気持ちの問題さ。角を曲がって、誰もいないはずの部屋に明かりがついているのを発見するのは、あんまり心臓にいいもんじゃない。寿命が縮んだぞ、まったく」
 おれたちに寿命なんて関係ないと、屁理屈を吐いて、口角をぐいと下げる。おかしなことに、この男は不機嫌な顔をすればするほど、愛らしい。そんな馬鹿げたことを考えているのは、おれひとりかもしれないが。
 「それにしても、よくチケットがすんなりと手に入ったもんだ。陸路が全滅なら、飛行機のチケットだって高騰してたんじゃないのか?」
 「……たまたま、最後の一枚が手に入ったんだ」
 「……たまたま、ねえ。……」
 その最後の一枚は、ファーストクラスだったのではないか。しかしもちろん、口に出して訊くほど野暮ではない。
 昼間、仕事に出かける前にTVで観た光景を、漫然と思い描いた。異常な水かさのセーヌ川、腿まで水につかり、果てはゴムボートに乗って往来するパリ市民たち。彼の国でも、南部では死者が出ているようだ。いったいいつになったら仕事が再開できるのか、途方に暮れているのは彼と彼の雇用主だけではあるまい。それでも洪水で家や畑を流された者たちに比べれば、まだましだろう。
 「ま、好きなだけいてくれて構わんさ。ここはおまえさんの家だ、アルベルト」
 「……ありがとう、グレート」
 「しかし、吾輩も生きてゆくには、日銭を稼がにゃならんのでね。いつもみたいに、おまえさんにつきあうことはできん。あいにく来週金曜までテレーズが留守にしていてな、彼女の教え子のお守りを任されてる最中なんだ。という訳で、ショウは休めん。すまないが」
 「いや、いいんだ。おれはあんたのそばにいられれば、それで……」
 途中でふっと、彼の声が遠くなる。先ほどからおれは、猛烈な睡魔と必死に戦っていた。一日三本のステージを連日こなせば、家に帰り着くころには、精も根も尽き果てている。そんなところに、いきなり彼があらわれたものだから気持ちが高ぶっていたが、すでにミルクティー一杯程度では持ちこたえられなくなりつつある。
 こちらを見つめるブルーグレイのひとみの奥に、情欲の熾火がかすかに揺れている。きっと、必死に押し殺しているのだろう。互いのぬくもりを恋しく思う気持ちは、おれとて彼に劣ることはない。今夜は無理だが、いずれ埋め合わせをしてやらねば。
 「一緒に、シャワーくらいは浴びようか」
 眼もとを染め、彼がこくりと頷く。申し訳ない気持ちをこめて、そっとその眼もとに、くちづけてやった。



   (2)へ続く



付記:
 なんでタイトルが洪水の「後」じゃなくて「前」なのかは、続きであきらかになります。たぶん。



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