Thrill Me (1)









 あれは、いつのことだったろう。
 底冷えのする、霧の夜。父はいつものように、家を留守にしてなかなか帰らない。お国の事情が悪いのだと、母もまた、いつものように青い顔をして呟く。何度も、何度も、同じことを。人生の黄昏にさしかかり、回顧しかすることのなくなってしまった老婆のように。
 かつては、もっと小さかった頃には、母はもっと健康で、おれを気遣うゆとりもあった。けれども、そう……あれから半年もたたぬうちに、彼女は風邪をこじらせ、この世を去ったのだ。生きてゆくちからの尽きかけていた彼女に、何かを望むことなど、出来はしなかった。
 ただでさえ成長が遅く、栄養失調気味だったからだは、寒さをしのぐ熱など生み出せはしない。両手を擦り合わせ、吐きかける息も白く、窓の外の霧に似て、一瞬の後には冷えてゆく。
 抱きしめて、ほしかった。
 抱きしめて、子守唄を歌ってほしかった。囁きかけてほしかった。アルベルト、いい子ね。母さんと一緒に、ピアノを弾こうか? 父さんが帰ってこなくても、アルベルトとピアノを弾いていれば、母さん淋しくないからね。
 けれども、窓の外から視線を戻せば、そこには現実がある。壊れた人形のように表情のない顔で、椅子に腰掛ける母がいるばかりだ。
 ぬくもりも、抱擁も、既にあの頃、はるかな遠い昔の思い出でしかなかったのだ。






 「今晩は、このまま?」
 「ああ、このまま、こうして……」
 物憂げに呟いて、彼はくつくつと笑う。酒臭い吐息は、きっとおたがいさまだ。けれども、恋なんて、情事なんて、そんなものかもしれない。誰かに恋するということが、そのひとの人生すべてを受け容れ、慈しむことであるとすれば、おれたちの恋はきれいごとばかりで誤魔化せるほど、体裁の良いものではないだろう。
 もう、夜もだいぶ更けたに違いない。毛布の外に晒された頬に、しんしんと冷えゆく湿った大気を感じる。そこにもぬくもりが欲しくて、頬を寄せると、彼がまた、アニスの匂いの入り混じった吐息を、深く吐いた。
 「いかんなあ、また飲みすぎちまった」
 「……」
 せっかくの逢瀬だっていうのに、おまえさんをがっかりさせちまって、すまない。
 そんなことはない。おれは、彼と一緒にいられれば、それで良いのだ。ましてや、こうして何をも隔てることなく、互いのぬくもりを感じていられるのならば、何を不満に思うことがあろう。
 ことばにしてしまうのが、惜しい。だから、無言で腕に力を込める。ゆっくりとかぶりを振りながら、彼を抱きしめる。ぴったりと、互いのからだの輪郭を沿わせると、こんなにも温かい。こんなにも、やさしい気分になれる。
 「こういうのも、おれは好きなんだ」
 すごく、きもちいい。……そう呟くと、彼はまた、くつくつと笑った。額に押し当てられる、やわらかなくちびるの感触に、胸の奥が甘く疼く。それだけでいいと、心の奥底から思う。
 そう、互いの内側に入り込むことだけが、情事ではない。恋ではない。昔……ほしくても、手に入れられなかったぬくもりを思うよすがになるのも、恋であり、情事なのだろう。母のぬくもりと、彼のぬくもり。まったく別のものだとは、知っているけれども。
 あれから時は流れ、痩せっぽちだったからだも、貧弱ではない程度に成長した。けれども今、おれのこの身に血は通っていない。遠い昔、母が抱きしめてくれた肉体は、失われてしまった。そのことを今更、嘆き悲しむつもりはない。これがおれの、おれたちの運命だ。今更失ったものに恋い焦がれ、嘆いたところで仕方のないことだ。
 それでも。
 頭で分かってはいても、納得してはいても、思いは曲げられない。氷雨けぶる晩に、胸の奥にしまった思いが蘇る。母のぬくもりに、恋い焦がれた気持ちが蘇る。霧のように、じっとりと纏わりついて、こころを冷やす。思いに実体など、ないというのに。
 それでも。縋りつける腕がここにあるのは、幸いなことだ。互いの肉を貪る代わりに、飲みすぎて穏やかに肌を触れ合わせるそのとき、切実に思う。
 こんなふうに、おれを包んでくれる彼に、恋してよかったと。





 
 もしかしたらおれは、おれたちは、あの霧のように頼りない存在なのかもしれない。いくら強化されたからだを持とうとも、こころは生身のときと同じだ。弱い心を持つものは、弱いままのおのれを抱えて、生きてゆくしかない。
 霧の夜に、母に歌ってもらいたかった子守唄。もし、あんたがおれと同じように、誰かの抱擁を求めているのならば、それが得られずに、淋しさを抱えているのならば、……おれも、あんたを抱きしめよう。子守唄を歌おう。
 「……おや、やはりいい声だね、おまえさんは」
 さすがに音楽を志しただけのことはある。気持ちが、落ち着くよ。
 彼が、深く息を吸い込みながら、耳をすましてくれる。記憶の奥底をさらい、細く、とぎれとぎれに子守唄を口ずさみながら、おれは彼の胸に、顔を埋める。
 あんたも、満ち足りているだろうか?





 
   了






(完売したコピー本『Fog and Rain』より、再録修正、。)



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