昨日の世界 (2)













 翌々日、シアター・クラブでのマチネー興行を終えたおれは、手早くメイクを落とし、服装をあらためて、待ち合わせ場所に選んだシティのカフェに向かった。
 実のところ、店から10メートル以上手前のところで、すでに彼の存在に気がついていた。通りに面したガラス張りのウィンドゥの向こうで、おれの蔵書から選んできたのだろう、熱心に本を読んでいる。通りの向かい側に佇み、しばしその光景に、見とれた。
 軍資金はある、自由に服を買えばいいと言ったのに、彼は貸衣装でじゅうぶんだと、頑固に首を縦には振らなかった。堅実なことだ。その謹厳さは、おそらく少年期の終わり、悲惨な敗戦を経て彼がすべてを失ってからはぐくまれたものであろう。しかし、それ以前に身につけた宝はすべて、いまだに彼の身のうちで守られている。彼がそれさりげなく取り出し、身にまとうときの感覚を信じていたからこそ、おれは彼の好きなようにさせた。今日の服装も、あえて任せた。ただ、極めすぎない正装で来るように、とだけ伝えて。
 カフェの照明を受けて、やわらかく輝くプラチナブロンドを、ガラス越しにそっと眼で撫でた。袖のゆったりとした、クラシカルなシルエットの白いシャツに、深緑の襟つきウェストコート。アスコット・タイの深紅が、よく映える。いつもの冴えない格好のときは、猫背で居心地悪げに俯いているというのに、この眼を見張るほどの変身ぶりは、どうだろう。背筋がぴしりとのび、本の背表紙を支える、今は人工皮膚に包まれた手の指先にまで、匂うような気品が満ちている。
 ――完璧だ。
 これも彼が生まれ持った、血のなせるわざだろう。そして、堂々たる紳士ぶりだというのに、どこかうつつのものならぬ、儚さを宿す。数々の戦火をくぐり抜け、もう何十年も年をとらずにいる我々だというのに、眼を離した隙に風の中に消えてしまうのではないかと、不安をかきたてられる。
 ふいに、詩が口をついて、こぼれた。
 「……きみを、夏の日に譬えようか」
 わが敬愛する詩人が、年若い同性の友人に捧げた、もっとも美しいことばの花束。十四行のその詩を、噛みしめるようにゆっくりと吟じ終えたちょうどそのとき、彼が本から眼を上げて、こちらを見やった。
 しばし、無言で見つめあった。一度、ゆっくりと瞬いた彼の眼もとに、あでやかな羞じらいのいろが滲む。くちびるの端が、いつもの皮肉な調子とはまるで違うかたちにほころんだ。
 ――意地の悪い男だな。いつから、そこにいた?
 ――五分ほど、前から。
 ――ずっと、見ていたのか?
 ――あまりによい眺めだったものでね。つい、時を忘れて。
 今しがた、吟じた詩にちなんだことばで、彼を呼ぶ。薄いくちびるをきゅっと引き結んで、彼は視線を泳がせる。
 ――シェイクスピアのソネットは、美青年に捧げるものじゃなかったか?
 ――おや、だからこそうってつけだと思うが、いかがかね。
 ――確かその詩には、死神も出てきたはずだが。
 ――死神よりも、こちらのほうが今のおまえさんにはふさわしい。
 そして、もう一度繰り返す。……五月の薔薇のつぼみの、いとしいきみよ。わがもとへ、いざ。
 本を手に、カフェから出てきた彼は、黒いヴェルヴェットのフロックコートを羽織っていた。みごとなヴィクトリア朝スタイルだが、いささか仰々しい。そのことを当人もわかっているのだろう、すこしばかり肩を竦め、苦笑した。
 「ちょっと、張り切りすぎた」
 「……そのようだな」
 「すこしだけ、くだけた格好にしたい。グレート、あんたのセンスを、拝借できないか?」
 ふむ、と顎をひいて、目の前の彼の出で立ちを今一度、チェックした。
 人差し指で促すと、彼はほんのすこしかがんで、顎を前に出した。素早く解いてふわりとふくらませ、彼のアスコット・タイを蝶結びに仕立てる。おそらく彼には、思いもよらぬ方法だったろう。
 「おっと、猫背に戻ってはくれるな。台無しだぞ」
 ガラスにうつった蝶結びのタイを、くいいるように見つめていた彼の背を、ぽんと叩く。驚きと喜びと、照れくささの入り交じった無垢のほほえみを、きっとおれはこれからも折に触れて思い出し、いとおしむのだろう。






 ドイツ東部の、武門の誉れ高い貴族の家系に、待望の跡継ぎとして彼は生まれた。1930年代の初頭、わが国は先の大戦の負債にあえぎ、彼の国でもファシズムの足音が響き、ヨーロッパ全体が緩慢な死の病に冒されていった、そんな時代だ。
 父親は軍人、母親は革命から逃れてロシアからオーストリアに移住した、これもまた名門の令嬢。母親に似て繊細で病弱だった彼は、本とピアノを親友に幼少期をウィーンで過ごし、やがて新進気鋭の音楽家の弟子となる。偏屈で知られた音楽家のたっての希望だったというのだから、その才能は推して知るべしだ。公民館の会議室を3時間だけ借り切り、古ぼけたアップライト・ピアノで”指慣らし”をする彼にたびたびつきあってきたが、実際おそるべき腕前である。いい加減な調律などものともせず、数々の難曲をやすやすと、しかも情感豊かに弾きこなすその姿に、幾度瞠目させられたことか。
 ――大戦さえ、起こらなければ。
 今は優雅にワイングラスに添えられた手に、視線を注いだ。そう、あの大戦さえなければ。そしてベルリンが分断されるなどということがなかったら。おそらく彼は希代の演奏家として、華やかな生涯を送ったに違いない。
 ――それとも。
 シュリーマンに憧れて、考古学者を夢見たこともあったと、聞かされたこともある。けれどもからだが弱かったので、炎天での発掘作業は無理だと諦めた。その次に夢中になったのは、中世史。幼いころから培われた濫読癖は、歴史学者にはうってつけだろう。そうやって、あるはずもない過去の未来を、思い描いてしまう。才能豊かな彼から、すべての可能性を奪った運命を、呪いたくなる。
 「考えごとか? せっかくおれのくそまずい料理から逃れて、いいものを食べに来たのに」
 慌てて眼を上げると、青灰色のひとみが、こちらをじっと見つめていた。
 おれの小さな狼狽を愉しむように、彼はすこしばかり口の端を曲げる。そして美しい手つきでフォークとナイフを取り、運ばれてきた鴨のローストに手をつけた。
 「深刻な顔をして、なにを考えている?」
 「不可思議な運命について」
 なんだそりゃ、と、口調はぞんざいだが、あいかわらずその挙措は完璧だ。時折、テーブルの隙間を通り過ぎるウェイターや、身なりのよい客たちが、ちらりと彼に視線を走らせるのがわかる。不躾ではあるが、致し方なかろう。
 「……アルベルト、おまえさん、注目の的だぞ。どこぞの名流の御曹司かと思われてるな」
 「結構な化けっぷりだろう? いつもは車の油まみれなのにな」
 今日はじめて、歯を見せてにっと笑った。確かに今の彼からは、ジタンの両切りをくわえてトラックの運転席にいるいつもの姿は、とうてい思い浮かばない。
 しかし、それだけではない。彼の生い立ちについて、知っているのはおれだけなのだ。ともに死線を越えてきた長年の仲間たちにすら、彼は自分の生い立ちはおろか、ピアノのことすら伏せている。フランソワーズとピュンマ、それに張大人は薄々感づいているようだが、彼らもまた、なにも問わない。この男の気難しさを熟知するがゆえの気遣いであるのは、言うまでもない。
 「……なぜ、おれだったんだ?」
 そう問うと、彼はわずかに眉を上げて、おれを見た。
 「……なにが?」
 「なぜ、おれにだけ昔のことを打ち明けた? ほかのみんなには、誰ひとりとして話していないというのに」
 「だって、当然だろう」
 デュ・パープの紅の陰から、さらりと言う。あえかに色づく、彼のくちびる。色褪せた銅板画や写真にほどこされた、彩色のように。
 「あんたしかいないじゃないか、『昨日の世界』を共有できる相手は、さ」
 「おれのはまがいものだぜ。おまえさんのように、ほんとうにそのなかに身を置いて、身につけた訳じゃない」
 「でも、すべての者がその真価を理解できるとは限らない。青い血の誇りの上にあぐらをかいた、鼻持ちならない俗物はいくらでもいたし、今もいるさ」
 「……」
 「あんただけだ、グレート。おれの中にあるものを共有して、しかもともに愉しめるのは」
 でも、それだけじゃない。囁くようにそう付け加えて、彼はほのかに頬を染める。ことばにはしない想いは、夜の闇のなかで、すでに幾度も交わしてきた。ほほえみを返して、おれもワイングラスに口をつける。彼にくちづける、その代わりに。
 極上の料理を堪能した後で、地下鉄に乗るのでは興ざめだろうと言ったが、やはり彼は首を縦には振らなかった。一日の疲れを引きずり、くすんだ陰を背負った人びとに混じって、いつものように、地下鉄で郊外のおれのアパートへ戻る。
 「おれたちだけ、BBCのコスチューム・プレイだ」
 蝶結びのアスコット・タイを、先ほどから彼はずっと指先でいじっている。フランス料理店へ向かう間も、食事の間も、時折指先でタイに触れていた。きっと気に入ったのだろう。機嫌のよいとき、時折驚くほどに子どもっぽいしぐさをみせるのを、おれは知っている。
 「おまえさんだけだろう、おれはいつもの格好だぜ」
 「なに言いやがる、お互い中身は骨董品のくせに」
 例によって、益体もないやりとりを重ねながら、地下鉄を乗り換え、終点ひとつ手前の駅で降りた。人影もまばらな夜道を並んで歩き、最後の角を曲がったところで、彼がぽつりと言った。
 「今日はありがとう、グレート」
 「……礼には及ばんさ」
 「でも、あんまりおれのために、金を使わないでくれ。その……高かっただろう、今日の店? おれはあんたと過ごせるなら、別にあんたの部屋で、ありあわせのものを食べるだけでも……」
 しかし途中で、その無粋さに嫌気がさしたらしい。仏頂面に戻ってことばを呑み、口角を思い切り下げる。苦笑とともに、おれは肘で、ちょんとこづいてやった。
 「気にするなと言ったろう。たまの愉しみだ。宵越しの銭は持たないってのが、吾輩のポリシーだからな」
 「しかし、……」
 「うまかったし、いい気分だったろう? ならばそれでいいじゃないか。いのちある限り、人生を愉しめ。おまえさんが小さかったころ、ウィーンで出会った大人たちは、みんなそうだったんじゃないのか?」
 「……ん」
 「ほれ、また猫背に戻っているぞ」
 背中をぽんと叩いたが、彼は姿勢を正さず、逆に身をかがめてきた。
 甘い吐息が、頬にかかる。密度の濃い、長い睫がゆっくりと瞬いて、うるんだひとみが夜の光を帯びる。指先で、またタイをいじっていた。愛らしいしぐさに、胸の奥が疼いた。
 「あんたのアパートでいいって言ったのは、もっとほかに、意味があるんだ」
 「……だろうな」
 「このタイ、あんたが結びなおしてくれたときから、ずっと……」
 からだの芯が火照って、と呟き、ひとみに宿した夜の光が揺れる。むしゃぶりつかれる前に、熱を帯びた頬に、くちづけを捧げる。それでいっそう、彼の火が燃えさかるのがわかる。
 おれの手を握り、そのままぐいぐいと引っ張って、彼は残りの家路を急ぐ。足をなかばもつれさせながら、おれはすでに、深紅のタイをそっと引いて、彼の官能を解き放つその瞬間のたかぶりに、思いを馳せていた。



   了



付記:
 文中で、グレートさんが吟じていたのは、シェイクスピアのソネットの18番。いちばん有名な作品だと思います。ソネット18番ネタは続く予定。それから、ハインが待ち合わせのときに読んでいたのは、たぶん『風姿花伝』か『山家集』の英訳。これもいずれ、ネタにしたいです。



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