Get It While You Can(2)









 彼が自らを「醜い」と、はっきり言うのを、何度もこの耳で聞いてきた。
 みずからの過失による恋人の死、肉体の喪失、その後与えられた、殺人機械としての役割。彼には、自己の存在を否定に向かわせる要素が、あまりに多すぎた。彼にもっとも必要だったのは、ありのままのおまえでいいのだと、たったひとこと言ってやれる存在だったのかもしれない。
 我々が、生きるか死ぬかの瀬戸際に、絶えず身を置いていたあの頃、彼は仲間を守るため、自らの役割を全うすることに没頭していた。余事にかまける時間がなかったのは、彼にとってある意味幸運だったと言えるだろうし、この間に培われた戦闘者としての彼の存在は、我々全員にとって、なくてはならぬものとなった。しかしその後、時折訪れる非常事態を別とすれば、表向きは普通の人間としての生活に戻ってから、……ひさしぶりに顔を合わせたある日、彼の影がやけに薄く見えたのは、決しておれの見当違いではなかろう。今にも風の中に溶けて、消えてしまいそうなその風情が心配で、以来頻繁に連絡を入れ、休暇ごとに会うようになった。
 確かにもともと、仲間うちで一番どころか、不思議なくらいに話の合う間柄ではあった。もし、彼と飲んでいるときに舞台仲間に偶然出会うことがあれば、おれは傍らの彼を、迷うことなく親友だと紹介するだろう。とはいえ、お互い相手の内側に土足で踏み込んで平然としていられるほど、子どもではないし、そういった類のことを、もとから嫌う性質である。余計なお節介だと言われるならば、放っておこうと思っていた。ところが、彼はいつでも、おれに飾りもしなければ武装もしない、無垢の笑顔を向けた。長い間、彼の頬にいつも張り付いていた、あの自嘲じみた歪んだ笑いとは、まったく異なる種類の柔らかな笑顔。抑えた表情の中に、えもいわれぬ親密さが込められていると感じたのは、おれの自惚れだろうか。
 彼の様子を見守るつもりが、いつの間にやら逆に面倒を見させてしまっていたというのが、おれらしい間抜けな展開と言うべきだろう。彼と飲むと、決まって彼に、介抱をさせてしまう。いつだったか、その借りを返させてくれと言ったとき、彼は微笑んで、そっとつぶやいた。
 あんたと一緒に飲めるだけで、おれは嬉しいよ。それに、クダ巻いてるあんたを抱えて歩くのは、退屈しない。修辞法のいい勉強になってるさ。役に立つかどうかは、別だがな、と。青のまなざしを細め、口元にジオットの聖母の静謐を浮かべて。
 そのとき、おれは心底、安堵した。もう、彼が消えてしまうのではと、心配する必要はない。そして、はっきりとそのとき思った。いとおしい、と。目の前で微笑む男を、誰よりもいとおしいと心から思った。






 おれが死神と呼ぶと、そのときだけは、おのれの宿命を思い出し、例の歪んだ笑みを浮かべるおまえ。けれど、その様子は決して辛そうではなく、むしろ愉しげだ。酒場のやわらかな照明の中で、次々とおれの繰り出すジョークに腹を抱えていたかと思うと、ふと真顔に戻って、おれの顔をじっと見つめていたりする。そのまなざしの真摯さにどきりとさせられることが、幾度となくあった。おれの中に積もり積もった誤魔化しや諦め、汚れきったおれの人生そのものを、何もかも見透かされているような、そんな気がしたものだ。
 酒に灼けた中年の顔を観察するのが、そんなに楽しいかと、何とか混ぜっかえす。不意を衝かれた表情を隠せないまま、それでもウイットは忘れず、ああ、観察日記でもつけたいぐらいだと答えるおまえ。うるんでいるような、澄んだまなざし。銀糸の髪が、光の輪のように輝く。そんなおまえを、死神というよりも、むしろ……天使と呼んでみたいと、ずっと思っていたと言えば、おまえは笑うだろうか。
 あんたも焼きが回ったもんだ、グレート。ジョークが空回りしているぞと、微苦笑を浮かべるさまが、容易に思い浮かぶ。その笑顔に、おれが見とれているのに気付くこともなく。
 自らを「醜い」と、当たり前のように言ってのけるおまえ。右手については、分からないでもない。何しろ四六時中、そこにあるだけで、おのれが機械であることを、みずからにも他者にも知らしめているのだ。隠したがる気持ちは、痛いほど分かる。しかし、持ってうまれたはずの、おまえのその姿については、どうなのだ。いくら、生身であった頃の似姿に過ぎないとはいえ、その姿を醜いと言うのは、造物主への冒涜ではないか? その双眸の輝きの、胸が痛くなるほどの美しさは、あらゆる辛酸を舐めながら、何ものにも決して汚されぬ、おまえの無垢の魂を映しているからではないのか?
 おまえに、ずっと伝えたかったこと。それはおまえの魂の、触れがたいほどの清らかさ。おまえの存在すべてが、その結晶なのだ。そう、面と向かって伝えられたら。飾ることのない、おれ自身のことばで。
 何もかも、見透かされているように思う。敏い彼のことだ、実際、見透かしているのだろう。恥ずかしい話も、さんざん聞かせた。なのに、彼はおれを見棄てもせず、咎めることもなく、やさしく微笑む。すべてを受け止めた上で、恥じることはない、それがあんたの人生だ、おれたち皆を和ませてくれるグレート・ブリテンの人生だと、無言のうちに言ってくれる。おまえの微笑みが、これまで歩んできた、汚泥にまみれた道ともいえぬ道を、そして、おれの行く手を照らす。ボッシュの怪物も、ブレイク卿の暗黒の幻想も、そのまばゆさに恐れをなして、地平の彼方へと遠ざかってゆく。
 彼の微笑みを、テーブルを隔ててではなく、この腕の中で、この両手であの淡雪のような頬を包んで拝むことが出来るのなら、その刹那に生命を捧げてもかまわない。しかし、どんなに美辞麗句で飾ってみたところで、おれの気持ちは伝えられないような気がする。空しく空回りして、虚空へ消えていってしまうような気がする。
 お笑いだ。こんな男の、どこが希代の名優だ。軽いお喋りばかりが上手になって、何もかもに口当たりの良い砂糖をまぶすのが癖になった。いつしか真実は飾りたてたことばの奥底に隠れ、埋もれて見えなくなってしまう。どれほどことばを尽くしてみたところで、想いを伝えるどころか、ほのめかすことすら出来ないなんて。まったくもって、お笑いだ。零落れたのも、今なら納得できる。酒とクスリのせいにしていたおれは、卑怯者だ。
 そんな無力な、ちっぽけな男なのだ、おれは。所詮、おまえさんにそぐわない。まばゆい無垢の光を纏う天上の天使に焦がれながら、汚泥にまみれ、あがき、永遠にクダを巻いている名もなき酔っ払いが、おあつらえ向きの役どころだ。
 ……その天使が、涙にむせんでいても?






 開いた窓から突然、騒々しいDJのお喋りが飛び込んできた。近所のどこかの部屋か、それとも失業中の若い連中が道端に持ち出したラジオが、その音源であるらしい。
 朝っぱらから、ロックンロールに狂っている奴がいる。いつもはそんなことは思わないだろうに、くそいまいましいという苛立ちしか沸いてこない。窓を閉めようかと立ち上がったとき、聞き覚えのある歌声に、おれは思わず、上げかけた腕を宙に泳がせていた。


   新聞を開けば、この世の中はどこも、争いごとばかり
   血を分けた兄弟ですらも、その例外じゃない
   だからこそ、もし、誰かが現れて、あなたに愛を捧げてくれるのなら
   そうよ、受け止めるのよ、この世にあるうちに



 (ジャニス・ジョプリンか……)
 おれがまだ若く、夢見ることを日々の糧にしていた頃に、よくラジオから流れてきた歌声。愛が欲しい、愛が欲しいと、全身で叫ぶようにマイクに向かっていたあのヒッピーの歌姫が、いまわの際に歌っていた歌が、今また流れてくる。愛を激しく求めながら、酒とクスリに縋って生き急いだ彼女の歌声が、こうして同じような境遇だった、今まさに愛を失いかけ、しょぼくれている男の耳に流れてくる。皮肉だろうか。


   誰かに恋するときはいつだって、胸の痛みと背中合わせ
   でも、気にしていられないわよ、そんなこと
   明日は、私たちこの世にいないかも知れないんだから



 やけに説得力があった。……耳に痛いほどに。何しろ、こう歌った数日後に、彼女は本当にあの世へ旅立ってしまったのだから。たったひとりで、看取る者もなく。
 この歌をはじめて聴いたとき、若者特有の傲慢さで、そんな説教はやめてくれと、おれは嗤った。これまでの貪欲な彼女らしくもない、人生の敗者の、甘ったるくて鬱陶しい泣き言に聞こえた。しかし今、歳を経て、地獄から生還してみて、思い直す。真実の愛とは、そう簡単に手に入るものではないのだ。カネではもちろん買えない。名声をだしにしたところで、それが何だというのだ。やみくもに手を伸ばし、愛してくれと喚いてみたところで、手に入るとも限らない。こちらに、相手を想うこころがなければ。相手を大事だと、なにものにも代えがたいと思うこころがなければ。 
 今のおれには、それがある。他のものはなにひとつなくとも、大事だと思える、いとしい者がいる。この背の後ろの、すぐ近くに。

 
   もし、誰かが現れて、あなたに愛を捧げてくれるのなら
   そうよ、受け止めるのよ、この世にあるうちに



 背後で、彼が立ち上がる気配がした。彼も、この歌を聴いているのだ。そしてきっと、おれと同じことを考えている。
 これまでと同じように、これからも、同じように。

 
   背を向けては駄目、受け止めるのよ


 心を決めて、振り返ると、そこに彼のまなざしがあった。視線が絡み合う。無言のうちに、そのまなざしは、彼がおれと同じ気持ちでいることを物語っていた。
 ゆっくりと、彼のくちびるが開かれた。
 「……もう、沢山だ。自分を偽っていたくない」
 ああ、と、おれは喉の奥で答える。縋るようなまなざしを、万感の思いをこめて受け止めた。受け止めるのだ、今こそ。今しかそのときは、ない。明日には、我々は生きていないかも知れないのだから。
 「ゆうべ、夢を……見たんだ。おまえさんの夢を」
 「……」
 「おまえさんが、おれの隣で泣いていた」
 「……夢じゃない」
 低い声で、それでもはっきりと答えた彼の覚悟は、決まっている。それに応えるのだ。
 「そうだな、夢じゃないかもしれない。おまえさんが、天使に見えたからな」
 「天使? 死神じゃなくてか?」
 くすくす笑う声。笑える余裕があるのなら、大丈夫だ。
 おれはつられて、微笑みを浮かべようとした。だが、彼から見れば角に引っかかったような、ぎこちない笑みに頬が歪んだだけだったのかもしれない。
 「おれには、あんまりに分不相応だな……それに、『天使に見えたから、夢じゃない』ってのは、ちょっと変なんじゃないか? 普通は逆だろう」
 「そんなことはない。おまえさんは……おれの天使だよ。この世でたったひとりの、おれの救いの天使だ」
 そう。地獄の底で、汚泥にまみれてうずくまっていたおれの傍らに、ある日突然舞い降りた。まばゆい、無垢なひかりを身に纏って。その手がいくら血に汚れようとも、硝煙の匂いを染み付かせていようとも、彼の纏う輝きを害うことは出来ない。それこそが、彼の本質なのだから。
 くすくす笑いの余韻を残したまま、小首を傾げて、彼がおれをじっと見つめている。あどけない表情。澄んだ、素直なひとみの輝き……それこそは、夢の中でおれを見上げた、あの顔だった。
 やはり、彼は天使だ。悪夢から、内なる闇からおれを救う、おれの守護天使。
 「過分な賛辞かもしれないな。でも……嬉しいよ。そう言ってくれるのは、たぶん……」
 一瞬の間。
 「あんただけ、だから」
 わずかに視線を逸らせ、それから強い意志を込めて、おれに向けられた青いまなざし。その中に、恥じらいとともに喜びの色が、はっきりと見て取れた。
 いとおしい。誰よりも。
 「ありがとう」
 消え入りそうな感謝のことばとともに、おれに向かって差し伸べられた両の腕は、かすかに震えていた。迎え入れるように、おれも腕を伸ばし、彼を胸に抱く。冷たさと熱さ、硬さと柔らかさ、相反する要素が共に息づく、彼独特の感触が、こんなにも近くにある。これこそ、夢でなければいいのだが。
 おれの肩に擦り付けられた彼の頬が、わずかに動いた。
 「ただね、おれにしてみれば……あんたこそ、天使だよ」
 「……」
 思いもかけぬ彼のことばに、おれは瞬間、呼吸を忘れた。
  開きかけた口が、みっともなく震える。禿げ上がった中年の、年中アルコール浸りになっている天使がどこにいる? ……返そうとした軽口が、声にならない。
 おれのそんなさまを見やって、彼は悪戯っぽく微笑んだようだ。しかし、その微笑みは危うげで、ちょっと頬をつつけば、泣き崩れてしまいそうな気配を漂わせていた。
 「あんたがそこにいてくれるだけで、どれだけおれが救われているか、あんたは知っているか?」
 「おや、いるだけでいいのかね」
 「そう、言いたいところだが……それじゃ我慢できない」
  抱擁がほんのすこし解かれて、おずおずとくちびるが近寄ってくる。花びらにも似た、柔らかな感触が触れる直前、おれより一瞬早く閉じられた彼の瞼から、涙がひとしずく、つうと流れ落ちるのが見えた。
 重ねられたくちびるの、甘さ。長い間忘れていた、恋人とのくちづけの味だった。
 「グレート、おれの、やさしい守護天使……愛してる」
 ももいろのくちびるから、溜息のように零れる告白。お互い、まったく同じことを考えていたことに、ちょっと苦笑を浮かべたくなったが、今この瞬間、それはそぐわない。守護天使らしく、やさしく微笑んで包んでやろう。そして今こそ、おまえに誓おう。みずからのことばで、真実の愛を。
 「愛している、ハインリヒ。この世の誰よりも」、と。


   了





ブラウザの「戻る」で、お戻りください。