Good to See You(3)










 
 翌朝、といっても、もはや昼に近い時刻。おれは彼のアパートを出て、製鉄工場の隣にのびている雑草だらけの道を歩いていた。
 先ほど目覚めたとき、枕元に置いてあった地図が、ポケットに収まっている。片手に手荷物を提げ、もう片方の手をコートのポケットに突っ込み、地図に時折触れながら、てくてくと歩いた。手袋越しでも紙の感触は親しげで、折れ曲がった部分に指先が当たるたびに、こころ踊る。こんな気持ちは、ひさしぶりのことだ。
 丁寧に道筋を描いてくれたはいいが、地図などなくとも、目的地は一目瞭然だった。歩いてゆくそばから、愉しげに笑いさざめく親子を乗せた車に、どんどん追い越されてゆく。その台数を数えることをあきらめたころ、背後からけたたましく、クラクションを鳴らされた。
 「よう、あんた! グレアムのダチだろう」
 振り返ると、つぶれそうな車の運転席から身を乗り出し、四角い顔が手を振っている。昨日、駅前のロータリーで拾ったタクシーの運転手だ。一体どこで、彼とおれの間柄を知ったのかと訝っているうちに、ふと思い当たった。彼がひと幕終えたところで店にやって来て、しきりとアンコールを求めた連中のなかに、この男の顔があったことを。
 合点がいったのが、色に出ていたのだろう。男はにっと歯を見せて、手招きした。
 「乗ってきな。あんたも、ルナ・パークへ行くんだろ」
 「……ああ」
 「はじめてじゃ分からんかもしれんが、ここから歩くんじゃあ、まだまだ二十分はゆうにかかる。靴擦れができると、後が大変だぜ」
 心配するな。今日のおれはタクシーの運転手じゃないし、第一あんたはグレアムのダチだ。金を取ったりしたら、罰が当たらあ。……こちらの回答もきかぬうちに、彼はさっさと片手を背後へ差しのべ、後部座席のロックを解いた。ここまで言われて、断る理由も見あたらない。素直に厚意を受け取り、昨日と同じように後部座席に腰を落ち着けた、そのときだった。
 「パパゲーロ!」
 いきなりの奇声にぎょっとして眼を上げると、大きな青い眼とそばかすに出迎えられた。助手席から小さな女の子が顔をのぞかせていて、視線があうと、ニカッと笑う。こら、と男が頭に手を載せるが、彼女はひるまない。歯を見せて笑う口元が、男にそっくりだ。
 「娘さんか」
 「ああ。休みの日になると、いつもこうして、こいつをルナ・パークに連れてくのさ。グレアムにも、ずいぶん可愛がってもらってる」
 「……へえ」
 彼の子ども好きは知ってはいたが、そういえば実際によその子どもと一緒にいる姿は、見たことがない。年齢よりやや老けた見てくれのあの男が、小さな子どもと戯れる姿は、容易に想像がつくものの、なんとなく違和感があった。
 同じ仲間であっても、ジェットやピュンマが、故郷でそれぞれの生活を持っていることについては、別になんとも思わない。しかし、彼がおれの知らない場所で、未知の生活を送っていると思うと、口の中に砂粒が紛れ込んだような感覚をおぼえる。この町に無理矢理来てしまったのも、つまるところその感覚に引きずられてのことだ。自分でも、それがなにを意味するのか、よく分からない。
 もやもやとした気分のまま、前を向くと、また彼女と眼があった。シートの上で飛び跳ねながら、パパゲーロ! パパゲーロ! と、はしゃぎまわっている。飛び跳ねるたびに、車体はおもしろいように揺れて、もはや遊園地の中も同然だ。
 「ひとつ、訊いてもいいか」
 「ああ、なんだ?」
 なおもシートを弾ませる娘をなだめようと悪戦苦闘しながら、男は片手でハンドルを切って、怒鳴った。タイヤが砂利を噛む音で、声が聞き取りづらいのだろう。おれは身を乗り出して、男の耳元で声を張り上げた。
 「パパゲーロって、なんのことだ」
 「すぐに分かるさ。着いてからのお楽しみだ」
 こちらを振り向き、前方を指さしてみせる。申し訳程度の電飾に飾られた『ルナ・パーク』の看板が、もうすぐそこに迫っていた。
 車から降りると、男はしっかりと娘の手を握った。勝手にちょろちょろするんじゃないぞ、と言い聞かせているが、もはや彼女はうわのそららしい。驚くほど安い入園料を支払い、並んで門をくぐったとき、いきなり頭上で花火が打ち上げられて、派手な破裂音をたてた。思わず物陰を探し、右手から手袋をむしり取りそうになった自分に、苦笑する。習慣とは怖ろしいものだ。
 「古いのか」
 「そうでもない。半年くらい前から、居着いちまったのさ」
 「……居着く?」
 「移動遊園地も、近頃は景気が悪いらしいぜ。動くにも金が入り用なのさ」
 煙草をくわえ、男は乾いた笑い声をたてた。けれども、この遊園地ができてから、不思議と町の雰囲気が「あかるく」なったのだと、彼は言う。今のこの状態で「あかるく」なったのであれば、以前の状態は推して知るべしであるが、詳しく訊くことはしなかった。過去をほじくり返すことはしない。それはおれや、今この遊園地のどこかにいる彼にしても、同じことなのだから。
 のんびりと歩き回りながら、大して広くもない遊園地の中を観察した。町同様、お定まりの場末の雰囲気は拭えないものの、確かにどこかあっけらかんと突き抜けたあかるさがある。景気よく回る観覧車や、調子っぱずれな音を立てるメリー・ゴーランド、射的に見せ物小屋、どこにも鈴なりの客だ。笑いさざめく人びとのうち、かなりの数がぎりぎりの生活をしているだろうに、どこにもそんな悲愴さがない。誰もが懸命に日々を生き、休日をこころから愉しんでいる。
 ちょうど観覧車のあたりまで歩いてきたところで、腰砕けなファンファーレが鳴り響いた。
 「パパゲーロ! パパゲーロがいる!!」
 父親としっかり繋いでいた手を振りほどいて、はじかれたように、女の子が走りはじめた。その後をゆっくりとした歩調で追いながらも、男はゆったりと構えて、笑顔すら浮かべている。女の子の走っていった先に、ちょっとした人だかりができている。その中心にいる、緑色の着ぐるみの後ろ姿を見ただけで、すぐに分かった。彼だ。
 あかるい緑に、赤いとさかのついたオウムの『パパゲーロ』は、しばらくおかしな身振りをしてみせたり、鉄骨にぶらさがったり飛び跳ねたりして、笑いと拍手を呼んでいた。そのうち、着ぐるみのままで猛然と走り出したかと思うと、くるりととんぼを切ってみせた。笑いが感嘆の声に、口笛に変わる。駆け寄ってきた子どもたちにもみくちゃにされながらも、『パパゲーロ』は両手……翼か?……を上げ下げして、陽気にはしゃいでいた。
 ――無理するな、歳を考えろよ。
 思わずそんなことを思いながらも、浮かんできたのは苦笑ではなく、笑顔であった。ぬいぐるみの下で、彼が肩で息をしているのが分かる。滝のような汗が背中を伝い落ちてゆくのが分かる。いくら特殊な身の上とはいえ、辛い仕事だろう。それでも今のこの生活を、彼はありがたいと言う。こころから愉しいと、笑顔で言うのだ。
 気がつくと、子どもたちが行儀良く一列に並んでいた。『パパゲーロ』が、色とりどりの風船を持って、並ぶ子どもたちに順に手渡している。写真を撮ったり、赤いとさかを引っ張ったりしている子どもの列に、おれも並んだ。そわそわと順番待ちをしている間、妙な顔をした男と何度か眼があったが、そのたびに笑顔を返す。ふしぎなほどに、人目が気にならなかった。
 おれを目の前にして、彼はぬいぐるみのなかで、苦笑したようだった。けれども風船をうやうやしく差し出し、手渡してくれる。ふわふわと揺れる黄色い風船をしっかりとたぐり寄せ、おれは万感の想いをこめて、彼を抱きしめた。ごわついたぬいぐるみの毛の下に、貧弱でやわらかい、彼のからだを確かに感じたとき、背中をぽんぽんとやさしく叩かれた。いつもの、彼のしぐさだ。
 ――おれも、頑張って仕事を見つけるよ。あんたも頑張って生きてくれ。
 声には出さず、通信装置も使わず、胸の内だけで呟く。しばらくそのまま、おれたちは無言で、互いを抱きしめあっていた。


 
  了





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