There by the Grace of God










 床の上にへたり込んだおれを前にして、彼はしばし、呆然と立ち尽くしていた。
 敏い彼のことだ。ドアを開けた瞬間に、すべてを理解しただろうが、驚くのも無理はなかろう。ここ5日間ほど、窓を一度も開けていないのだ。おれ自身の鼻にさえ、饐えた臭いがはっきりと感じられる。最後に酒以外のものを胃に入れたのは、いつのことだったか。それすら消化されることなく、床にこびりついた汚物に変わり果てているし、もう酒すらからだは受け付けなくなっている。サイボーグでなければ、救急車で病院に担ぎ込まれて、しこたま点滴でも打たれていたところだ。
 ゆっくりと歩み寄り、ことばもなく、傍らに膝をつく。その彼をのろのろと見上げて、くちびるの端を歪めてみせるのが、やっとだった。
 「……すまんな。せっかく来てくれたのに、おまえさんをエスコート出来そうにない」
 「……」
 青いまなざしがひどく哀しげに、こちらをじっと見ていた。この子に、こんな目をさせてはいけない……そうは思うのだが、憂鬱は時に、おれひとりの手に余る。そんなとき、やはり彼が傍にいてくれれば、いいと思う。彼がここに来る日に合わせて、こんなざまを晒している訳では、決してないのだが……。
 床に転がった酒瓶を、手際よく片付ける手はいつものように、右手だけが皮の手袋に包まれている。彼がそうであるように、おれもまた、人ではない。なのに、酒には酔うのだ。もちろん、以前ほどひどい酔い方をすることはないが、それでも飲みすぎれば宿酔いに悩まされるし、反吐を吐きもする。おかしなものだ。
 四肢を投げ出したまま、項垂れるおれを、甘いミルクの匂いがふわりと包んでくれる。汚れなき魂を持つ彼にふさわしい、素朴で愛らしい匂い。やさしいぬくもりに宿るその匂いが寄り添ってくれるだけで、えもいわれぬ安寧を感じる。母親に抱かれる、幼な子のように。
 抱き起こしてくれた彼に笑いかけたいのに、笑えない。顔の筋肉が、すっかりこわばってしまっている。表情ぐらい、いつだって自在に変えることが出来たはずだ。人工的に加えられた能力などに頼らずとも、役者ならば、自在に。なのに……なんてざまだ。
 「また、デューラーの天使につかまっちまったのか?」
 耳元に、低い声がひそやかに囁きかけてくる。彼もなかなか、粋な修辞法が身についてきたものだと、頭の片隅で思った。しかし、その賛辞を今、言の葉にすることは出来そうにない。ひとこと、声を発するだけでも、からだじゅうの筋肉が軋む。脳みそは泥の中に沈んでしまったように、はっきりせず、ろくに働きもしない。
 いいよ、分かるから。今は、何も言うな。
 饐えた悪臭を撒き散らすおれのからだを、何かから守るように抱きしめる。その感触に、うっとりと目を閉じるのと同時に、折り曲げた両膝と背に添えられた両手が、軽々とおれを抱え上げた。








 立て付けの悪いドアの隙間から、冷たい外気がわずかに漏れてくる。居間の窓を開け放って、空気の入れ替えをしているのだろう。それでも寒さを感じないのは、暖房の設定温度を、うんと上げたせいらしい。寝室に運び込んだ盥に湯を注ぎながら、彼は申し訳なさそうに肩をすくめた。
 「すまない。電気代が余分にかかるだろうが、こうしないとあんた、風邪引くだろ」
 「……かまわんさ、そのくらい」
 やっとのことでそれだけ答えてから、何がかまわないのだろうと、ふと思った。電気代がかかるのがかまわないのか、風邪を引いてもかまわないのか。いずれにせよ、どうでもいいという思いに、おれは囚われていた。
 もし、彼が来てくれなかったら、おれはあのまま、居間で更に何日も潰れていたことだろう。いくらサイボーグといえども、脳が死ねば、おれの生命の火も潰える。栄養を採らぬまま、持ち主に放って置かれた脳みそが、どれほどもつものなのか、おれには分からない。しかし、分からぬだけに、……その答えを、知りたいとも思う。この身をもって、知るのも人生のうちかと。
 見上げる天井が暗いのは、今がそんな時刻だからなのか、それともおれの視力が弱っているせいなのか。ぼんやりと視線を漂わせていると、淡い影がゆっくりと、覆い被さってきた。
 「からだ、拭いてあげるよ」
 あんた、弱ってるだろ。風呂に入ったら消耗するから……せめて、その代わりに。
 返事を返すよりも前に、彼の指がシャツのボタンにかかっていた。するするとおれの服を脱がせてから、薄闇の中でも、弱ったおれの視力でもそれと分かるくらい、頬をあかく染める。おれが一糸纏わぬ姿になるとき、いつも自分がどんな姿でいるのか、それからおれたちが何をするのか……それをありありと、思い出してしまったらしい。
 いつまでたっても、初なことだ。
 意地悪くからかおうとして、口を開きかけたそのとき、じんわりと温かい感触が首筋を被った。
 その心地よさに、思わず目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。ころあいの温度と湿り気を保ったまま、その感触は首筋から、頬へと移動する。タオルに包まれた器用な指先が、丹念に耳殻のくぼみを拭い、清めてくれる。
 「どう? 赤ん坊に、戻ったみたいだろ」
 くすくすと笑いを含んで、ひそやかな声が上から降ってきた。たまには、こんなのもいいだろう? いつも、おれはあんたに頼って、甘えてばかりだから……今日は、おれがあんたを甘えさせてあげる。
 それは違うとかぶりを振ってみたが、今のおれには意思表示さえ、重労働だ。確かな力の篭められた彼の腕の中で、おれの頭はわずかに揺れただけだった。
 マシュマロのように柔らかくて、ほんのりと温かい頬っぺたの感触が、額に触れてくる。かさつき、冷え切ったおれの肌とはまるで違う、みずみずしくやさしい感触。その感触とぬくもりこそ、彼が生きているという証。生命の炎を一生懸命に燃やし、全身全霊で注いでくれる、無償の愛の証。
 愛する彼を置いて、おれは死のうとしていたのだ。ほんの少しでも、死を願ったおのれが恥ずかしくなった。
 「……すまない、アルベルト」
 「謝るなよ。まだ立ち直れないあんたから、そんなこと言われたって、こっちが苦しいだけだ」
 それに……おれが、こうしたいんだから。
 困ったように眉尻を下げ、おれに笑いかけてくれる。恥じらいを隠したいときの、ちょっぴりばつの悪そうな笑顔。けれども今は、その笑顔がひどく頼もしいものに見えてならない。それでつい、不覚にも涙が溢れた。
 ぼんやりと滲んだ視界の中から、ももいろのくちびるが目尻にそっと、近づいてくるのが見えた。零れる涙を、くちづけで拭ってくれる。幾度零れても、丹念に舐め取ってくれる。
 「大丈夫……大丈夫だから」
 おれを掻き抱いて、彼は黙々と、作業を続けた。視線が合うと、染み入るような微笑みを返してくれる。まるで、赤子に産湯をつかわせる母親のように。あるいは、十字架上で無残な死を遂げた息子の亡骸を抱える、聖母マリアのように。……いや、そのたとえは、両方ともあまりに不適切だな。おれは赤ん坊のように無垢でもなければ、イエスのように偉くもない。ただの、薄汚れた酔っ払いだ。
 そんなおれでも、おまえさんは愛してくれるのか? 







  
 毛布の隙間から滑り込んできた彼のからだは、何も纏ってはいなかった。
 無言のまま、冷え切ったおれのからだを抱き寄せる。冷たいはずの右腕も、シャワーの熱を帯びて、あたたかい。
 「どうせならもっと、あたたかいからだの人間のほうが、良かったのにな」
 苦笑しながらも、おれの肩に回された腕を、彼は解こうとはしない。何も身につけぬまま、毛布を顎の上まで引き上げる。そして、みずからの体温で、衰弱して冷え切ったおれを、必死にあたためてくれた。
 おれの頭をしっかりと抱きかかえ、胸に押し当ててくれる。規則正しく、いじらしい心臓の鼓動が、すぐ近くで聞こえた。彼の鼓動に、自分の鼓動が寄り添ってゆく。融けあってゆく。
 毛布に覆われた闇の中でも、彼の裸身はおぼろに白く、浮かび上がって見えた。滑らかで平らな胸、その上にぽっちりとまるく、薄紅色のふたつの突起が息づいている。大理石の彫像を思わせる裸身の中で、あたたかな色を帯びた、数少ない場所。それが単なる飾りであることも忘れ、おれはその突起を、口に含んでいた。
 「……グレート……」
 くすりと微笑んで、彼はおれを一層強く、けれどもふんわりと包んでくれる。額に、柔らかなキスの感触。彼の乳臭い匂いのせいか、赤子に戻ったような心持になってくる。乳など出るはずもないのに、おれは可愛らしい突起を、必死で吸った。
 「ねえ、グレート……」
 何だか、妙な気分だよ。あんたのおふくろさんになったみたいだ。
 控えめだった突起は、徐々にこりこりと弾力を帯びてきていた。なのに、おれの脇腹に密着している彼のつぼみは、反応を見せてはいない。おれ自身のそれも項垂れたまま、何の変化も起きてはいなかった。飲みすぎた晩、たまにこうしてからだを繋げることなく、穏やかな素肌の触れ合いをする。けれども、これまでのそんな触れ合いともまた違う、奇妙に安らかな心地よさが、そこにはあった。
 「今夜のおれは、あんたのおふくろさんだ」
 おかしそうに笑って、彼は呟く。変だな、おれたち。男同士でセックスするのだって、充分おかしいのに……おれは、あんたのおふくろさんになった気分でいるなんて。それが、何だか嬉しいだなんて。
 「……おかしくて、結構さ」
 ようやく体温を取り戻した腕を伸ばし、おれは彼の髪に触れ、そっと撫でた。人でなくなったあのときから、おれたちは世の規範から、はぐれてしまった。ならば……今更はみ出したところで、何ということもなかろう。
 神は、自ら助くる者を助く。神の恩寵から見棄てられているのならば、みずから恩寵の代わりになるものを探すしかない。
 「おれにとってはアルベルト、おまえさんこそ、恩寵だよ」
 互いを支え、互いを救い……それが、おれたちの愛のかたちだ。地味ではあるかもしれないが、それでいい。
 「立ち直ってくれたな、グレート」
 満足そうに笑みを浮かべて、彼が呟く。頬を寄せ、互いのひとみの中に互いがいることを確認してから、目を閉じる。安らかな夜のしじまの中に、おれたちはゆっくりと、漂流していった。



 
  了




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