Hazel










 あ、まずいと思ったときは、もう遅かった。
 左目だけに、おぼえのある痛みが走る。慌ててまばたきしたが、それは出てゆくどころか、もっと奥まで入り込んでしまったらしい。見る間に視界が滲み、色彩が流れる。目を覆って、おれはバスルームに駆け込んだ。
 鏡の前に立ち、瞼を指先で押し広げる。それだけで、異物感に神経が悲鳴を上げた。痛みをこらえつつ、蛇口をひねって掌に水を取り、その中でまばたきしてみる。涙の溢れていない右目で、もう一度鏡の中を必死で探るが、あいにくおれの毛髪の色は淡すぎて、どこに紛れ込んだのか、まるで見当がつかない。痛みの元をたどれば、下の方にあるらしいということは分かるのだが、その気配すら確認できなかった。
 「あっ、つぅ……」
 眼球をほんのすこし、動かしただけで、また激痛が走った。こんなとき、この特殊な身の上は、不便きわまりない。眼科に走ってゆくことなど出来はしないし、医者でなくとも誰かがちょっと覗き込んで、よくよく観察すれば、おれのひとみの中にカメラの照準のような、奇妙な模様が入っているのがすぐ分かってしまう。目が隠れるほどに、前髪を伸ばしているのは、このひとみを見られたくないせいでもあるのだ。決して彼が言うように、『美しいまなざしを、出し惜しみしている』訳でも、『清らかな泉を、浮世に曝すのを恐れている』のでもない。
 「どうした、アルベルト。どこか具合でも?」
 背後から声がかかり、そっと、指先が肩口に触れた。
 静謐な指先。ふわりと漂う、いつものコロンの匂い。じっとりと背筋を濡らしていた冷や汗が、すうっと引いてゆくのが感じられた。たったそれだけのことで、安寧をもたらしてくれる。このうえなくやさしい、おれの恋人。
 膝をついてしまったおれを、大きく見開かれた彼のひとみが、心配そうに見下ろしている。ゆっくりと、おれの目線まで下がってくるそのひとみを眺めながら、彼は逆さ睫に苦しめられたことはないのだろうかと、ふと思った。こんなに大きな目を、長い睫をしているというのに。
 「すまん、グレート。ちょっと……見てくれないか」
 「逆さ睫か? だいぶ、辛そうだな」
 どれ、上を向いてごらん。顎にもう一方の手がかかる。片方の手で、おれの肩を撫で擦りながら、涙が溢れ続ける左目の縁を、そっと探る。また、激痛が走って、おれはくちびるの端をぐいと曲げた。
 痛いだろうが、もうちょっと、我慢するんだぞ。いい子だから。
 指先が、ちょっと顎を引いて、と指示を出す。促されるままに顎を引くと、彼の顔が、もっと近くに寄ってきた。こっくりとまろやかな、彼のひとみの色に、包まれる。まるで、接吻を交わす、そのときのように。
 どきりと、胸の奥で心臓が跳ね上がった。
 虜になる、というのは、きっとこんな瞬間のことを言うのだろう。あんなに激しかった痛みすら忘れて、視線を奪われる。もうずいぶんと長い間、彼とふたりきりで暮らしているのに、ちっとも慣れることはない。毎日、毎日、小さな発見をしながら、おれは彼に恋をする。虜にされる。
 こんなに真剣なまなざしで、おれを見てくれるの? ただひとり、おれだけを見ていてくれる? ……ずっと?
 難しげに寄せられていた目の前の眉が、ふっと緩んだ。
 「お、見えたぞ。ここなら……大丈夫。今、取ってやるからな」
 はしばみ色が、目の前いっぱいに広がり、引いてゆく。名残惜しさに、彼を引き寄せようとしたそのとき、近寄ってきたものは……彼のくちびる?
 ずきりと、からだの芯が疼く。一瞬、何が起こったのか分からずに、おれは両目をしばたいた。
 左目を刺していた鋭い痛みは、きれいに消えている。視界を霞ませていた涙をぬぐったとき、すました顔で、おれを見つめる彼の視線に、迎えられた。
 「……何、したんだ?」
 「いや、おまえさんの目を、ちょいとね」
 舌先を、ちらりとくちびるの間から、覗かせる。
 「舐めたのか?」
 あっけにとられて、口をぽかんと開けるおれを見やって、彼は声を立てずに笑った。それから指先で何かを摘み上げ、差し出してみせる。
 「ごらん。長い睫をしているな、おまえさんは」
 おまえさんともあろう者が、睫一本で、あんなに痛がるとはね。なかなか、見ものだったさ。
 くつくつと笑って、いつものように、余裕綽々の彼。指先で摘んだ、小憎らしいおれの一部に、そっと接吻する。そして、頬に零れていた涙を、同じ指先で拭ってくれる。触れられて、また心臓が小さく胸の中で飛び跳ねた。
 「一体、どこでおぼえたんだ?」
 「さあてね。習得するなんてもんじゃ、ないのさ」
 にやにやと、意地悪く笑う。年上の、おれよりずっと人生経験の豊富な、おとなの男の笑み。おれが余韻に身を焦がしているのも、すっかり承知だ。
 グレート。あんたは、ずるい。
 いつだって、あんたはおれを翻弄する。くちびるを重ねるよりも、闇の中でひそやかに触れ合うよりもじかに、あんたを感じた、あの瞬間。余韻が……冷めない。ちりちりと、熱が胸を焦がす。全身に、伝導する。
 ねえ、グレート。おれは、あんたに勝てないのかな? 翻弄されて、白旗を掲げているのは、いつだっておれの方だ。不意討ちも、駆け引きも、真似るには百年早い。まっすぐに、ぶつかることしか出来ないのだ。
 そう、たとえば、こんな風に。
 首根っこを乱暴に捕らえられてもなお、彼はすました顔でにやついていた。
 「おいおい、礼も言わずに、どうするつもりだ」
 「分かってるくせに。……あんたにも」
 してあげる。
 おれがあんたに敵うのは、あんたを想う、この気持ちだけ。あんたがくれるのと同じだけ、それよりもっと、あんたに愛を捧げるよ。
 「どんな味がした? おれの目は」
 「……リキュールゼリーの味、かな。ちょいと、ジンの風味のする」
 「じゃあ、あんたの目は、ヘーゼルナッツケーキの味がする? それとも、シングルモルトの味?」
 「試してみるかね?」
 瞼を閉じようともせず、彼はまだ、笑みを浮かべている。ちょっとは照れてほしいのに、そんなおれの気持ちも、すべて知り尽くしているようだ。
 そんなあんたの粘膜に触れれば、おれも、あんたのようになれるだろうか。それとも、……あんたも、見せてくれる? 誰にも見せない秘密を、ただひとり、おれだけに。
 躊躇いがちに、舌先を伸ばす。ちろりと触れたその瞬間、おれは思わず笑みを浮かべた。そこに、ヘーゼルナッツケーキの味でもなく、ましてやシングルモルトの味でもなく、うろたえて頬に朱を散らした、彼を見出して。


 
 了




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