Indian Summer













 「そっちの袋を取ってくれないか、ジェロニモ。すまないねえ」
 ああ、それだ、そうそう、と彼の声がする。やや間を置いて、ありがとさん、とまた彼の声が言った。ジェロニモは黙って、彼の手伝いをしているのだろう。いつものことだ。
 ぱちん、ぱちんと、バラの枝を剪定する音と、土に肥料を混ぜているらしい音が、ここまで響いてくる。ギルモア邸の庭の手入れをするのは、いつも彼とジェロニモの役目だ。草花が好きな割に、フランソワーズはあまり手入れがうまくない。ジョーとピュンマは博士の仕事を手伝っていることが多いし、フランソワーズ以上に不器用なジェットは論外、張大人は店が忙しい。虫嫌いのおれはただの足手まといなので、必然的に庭仕事の担当は決まっていた。
 「おつかれさま。ケーキ買ってくるけど、リクエストは?」
 これはフランソワーズの声。狸寝入りをやめるべきかと耳をそばだてたが、あまりにタイミングよく出てゆくのも、気がひける。迷ううちに、おお、そいつは嬉しいねえ、と彼が言った。立ち上がり、腰を伸ばしているらしい声も聞こえてきた。
 「葉山のあの店かね? あすこの洋梨のタルトは、日本の水で淹れる紅茶にとびきり合うんだ」
 「グレートはいつもあれだものね。私も洋梨のタルトがいちばん好き。ジェロニモは、いつものガトー・ショコラ?」
 返事は聞こえない。けれどもたぶん、ジェロニモは頷いたのだろう。ジョーとジェットはショートケーキ、ピュンマはレモンスフレ、張大人と博士はサヴァラン、と、フランソワーズがメモを取っているらしい気配。出てゆこうか、と起き上がりかけたところで、ああそうそう、と彼女の声が聞こえた。
 「ハインリヒには、なにがいいかしら。まだ、リビングで寝てるけど」
 「ああ、彼はチーズタルト、じゃないか。木苺の入ったやつ。前にうまいって言ってたぞ」
 「そうだっけ? 忘れちゃった」
 ちょっとひやりとしながらも、ふたたびバラの枝を剪定する音と、裏のガレージからフランソワーズの車が走り去る音が聞こえてきて、ほっと胸をなで下ろした。チーズタルトを食べたのは去年、彼とふたりで朝から美術展のハシゴに出かけた帰り際のことだ。仲間とはち合わせるリスクはあったが、あの店のタルトの魅力には逆らえなかった。美術館の庭の片隅で、人目を避けて交わした接吻の余韻に浸りながら食べたチーズタルトの味を思い出し、後で同じ顔になってしまわぬように、ほんのすこし、気を引き締める。
 リビングの大きなガラス窓から、小春日和のあたたかな日差しが降り注いでいる。平穏な初冬の午後だった。あと一時間もしたら、お茶に美味しいお菓子も出てくる。上々じゃないか、と呟いて、もうすこし昼寝を愉しもうとクッションを引き寄せたとき、指先にやわらかな感触をおぼえた。
 胸の奥が、甘く疼く。なにに触れたのかは、わかっていた。それを引き寄せ、胸に抱いて顔を埋める。彼の匂いがした。ベージュの上質な、カシミヤのカーディガン。庭仕事をするので、脱いでソファの背に掛けておいたのだろう。
 ラグラン袖にへちま襟の同じカーディガンを、彼は二着持っていた。一着はロンドンの自宅、もう一着はここ日本のギルモア邸の自室に置いて、普段着にしている。ぼくにはむしろ、ロンドンで彼が着ている煉瓦色のほうがなじみがあった。春の宵、冬の朝、素肌に幾度着せかけてもらっただろう。
 とろけるような肌触りに、やさしいぬくもり。彼そのひとの腕の中に包み込まれるときのように、ぼくは陶然とする。額にそっと押し当てられる、すこし乾いた彼のくちびる。さびのある声が、ひくく囁く。わたしのいとしい、五月の薔薇のつぼみのきみ。今朝は冷えるから、これを着ておいで。蜂蜜をたっぷり入れた、ジンジャーティーを淹れてきてあげよう。からだがあたたまる。……
 と、そのときだ。
 「あ、ちょうどいい! こっちに放ってくれないか、ハインリヒ!」
 リビングの扉がいきなり、勢いよく開いた。ぎょっとして顔を上げると、入り口にジェットが立っていた。どういうつもりか、あと半月でクリスマスというこの時期に、ぺらぺらした半袖のTシャツ一枚という出で立ちである。おおかた、海辺の風をなめてかかって、上着を持たずにジョーやピュンマと出かけたのだろう。あいかわらず、考えの足りない男だ。
 「寝ぼけてんのかよ。おーい、聞いてる? それこっちによこしてくれ!」
 「……それ?」
 「カーディガンだよ、カーディガン! それグレートのだろ? さっき花壇のとこで頼んだら、貸してくれるっていうから」
 すっかり冷えちまったと、ジェットは剥き出しの両腕をさすっている。手の中の、カーディガンに視線を落とした。ほんもののカシミアだけが持つ、しなやかな感触。これをこの若造に貸すだって? しかも投げてよこしてくれ、だと?
 「あっ、なにしやがんだよもう!」
 さっさとカーディガンに袖を通し、おれはまたソファに寝転がった。足音も騒々しく、ジェットが枕元にやってきたので、致し方なく肩越しに眼の端から睨んでやった。
 「なんであんたが着るんだよ! 日がな一日あったかいリビングでグータラしてんだから、寒くもなんともないだろ!!」
 「ガタガタうるせぇな。おれは冷え性なんだよ、低血圧だからな。寒いから今着た、それだけのことだ」
 「なにが冷え性に低血圧だよ、サイボーグのくせに! それにあんたセーター着てんのに、なんでカーディガンまで必要なんだよ! おれのほうが先に、グレートに了解取ったのに……って、聞いてんのかよおい、ハインリヒ!」
 へちま襟を立てて、おれは頭まですっぽり、カーディガンをかぶった。だいぶゆったりしたつくりになっているから、多少の無茶は心配ない。いずれにせよ、上質なものを投げてよこせなんて平気で言う、季節に合わせた服装すら選べない小僧に着せるよりは、ましだろう。服だって着る人間を選ぶものだ。
 「ったくもう、くっそ意地悪いよなああんたって!!」
 捨てぜりふを吐いて、ジェットの足音が遠ざかってゆく。あきらめて、自室に上着を取りに行ったのだろう。若いのだから、最初から労を惜しまなけりゃいいんだと、おれは胸の中で呟く。それに。
 ――渡したりするものか、おれのものなのに。
 頬を擦り寄せ、彼の残り香を思い切り吸い込む。たちの悪い笑みが浮かんでしまうのが、抑えられない。
 入れ替わりに、よく知った足音が入ってくる。覗き込む気配に、おれはたちの悪い笑顔のまま、カーディガンの襟から顔をのぞかせた。
 「おやまあ、なんでおまえさんがそれを着てる? 吾輩は、ジェットに貸したはずだが」
 「あんたも人が悪いぞ、グレート。聞いてたんだろ」
 「まったく……アルベルト、おまえさんまたあの坊やを泣かせたな。喧嘩の仲裁は、もうごめんだぞ」
 「心配ご無用、泣かせちゃいないさ。あれしきのことで、めげるヤツでもないだろう?」
 まあ、そうだろうなあと、愉快そうにくしゃりと鼻にしわを寄せる。彼のこの表情が大好きだ。
 「喧嘩して飛び出すなんて、もうあんな馬鹿なことはしないよ。あんたに余計な心配、かけたかないし」
 誰も入ってこないのを確認して、手を差し伸べる。やれやれ、と苦笑しながらも、やさしい恋人は小さな抱擁と、接吻をくれる。胸の奥が、じんと痺れる。もっとほしくなってしまうのを懸命に堪えていると、彼の手がカシミアみたいにしなやかに、ぼくの手を包んでくれた。



   了



付記:
 サイト再起動してから、たぶんはじめて日本を舞台にした話です。ようやくフランソワーズ以外のメンバーが、ぼちぼち出てきました。ジェットはたぶんうちではいつもこんな感じで、グレートさんにかかわることになると、ハインに冷たくあしらわれています。グレートさんになついているだけに、理不尽に感じてちょっとした口論に。たいていハインのほうが筋が通ってません。笑 戦友としてはお互い信頼しているけれど、それとこれとはまた別の話。
 ギルモア邸は、三浦半島の先端のどこかにあることにしてあります。地形が入り組んでいて、海からの接近が難しいのと、東京との距離感がちょうどいい感じなので。なのでゼロゼロナンバーズは湘南あたりには、しょっちゅう顔出してるはず。外国人多い土地なので、それほど目立たないってのも利点です。74のふたりは、暇さえあれば東京の博物館・美術館に出かけてます。基本インドア派で、休日に身体動かすなんてほとんど考えないハインも、グレートさんとはいそいそお出かけします。上野と六本木はお気に入りスポット。ドイツパンとか買うお店も決まってそう。



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