La Vie en Rose













 朝食と昼食も兼ねたイレヴンジズの茶器を片付けがてら、くたびれた茶色い長袖シャツと作業用のズボンに身を包んだ彼が、いそいそとキッチンに入ってゆく。執筆に没頭しているふりを装い、おれは黙って横目で、それを見送った。
 やがて水音とともに、熱心にブラシをかける音。鼻歌と呼ぶにはあまりに本格的な歌声まで混じりはじめ、つい笑みが浮かぶ。深く、のびやかな声で歌っているのは、エディット・ピアフの「薔薇色の人生」。どうやら上機嫌のようだ。
 舞台に立つほかに、映画や演劇の評論の原稿を依頼されるようになって、近頃おれの生活はそれなりに多忙である。原稿の〆切が近づくにつれて、ただでさえ散らかりがちな部屋はいよいよ雑然となり、部屋のすみには埃がわだかまる。そうして、そんな生活に自分でもうんざりしはじめたころ、彼がブラウニーよろしくあらわれて、すみずみまできれいにしてくれる。掃除のときにわざわざ茶色いシャツを着るのは、そういう洒落のつもりらしい。
 ――補いあえているのであれば、上々ではないか。
 言い訳がましく、そんなことを思う。料理を彼にふるまうことを愉しみとしてはいるが、基本的に無精なおれと、料理の腕はあいかわらずからきしだが、掃除や整理整頓をほとんど趣味のように愛している彼。割れ鍋に綴じ蓋、うまくできていると言えるのかもしれない。しかしそのいっぽうで、彼に申し訳なく思う気持ちも少なからず抱えている。昔は自分で自分の面倒をみることができていたというのに、今ではすっかり彼に頼りきりだ。
 と、そのときである。
 ――グレート! ちゃんと仕事してるか?
 いきなり大声が頭の中に響き、思わずのびあがった。しかしキッチンからはあいかわらず、「薔薇色の人生」が聞こえてくる。器用なことをするものだ。歌声を遮りたくないので、おれも脳波通信を使って、彼に応える。
 ――いかんなあ、つい、手元がおろそかになっちまう。おまえさんの歌が、あまりにみごとなもんでね。
 水音がやみ、歌声も途切れた。両手をひらひらさせて水を切りながら、キッチンの入り口から、彼が顔を出す。小首をかしげ、いたずらっぽい笑みを溜めた表情が愛らしい。
 「そのくそいまいましい原稿、さっさと片づけてくれよ。とっくに〆切過ぎてるんだろ?」
 「……そうだなあ、かれこれ一週間」
 「おれは文章なんて書けないからよくわからんが、あんたくらい言葉が溢れてて、頭の回転が速いんなら、一瞬で終わらせることができるんじゃないのか?」
 「あいにく、そうとも限らんものさ。書いては消し、消しては書きで、樹海の中に迷い込んじまって」
 「だらだらやってるから、踏ん切りがつかないんだろ。おれが時間制限もうけてやるよ」
 壁の時計を見やり、部屋全体に視線を走らせて、彼はにやりとくちびるの片端を釣り上げる。そして右手の指を四本立て、
 「四時。それまでになら、部屋の掃除も終えられるし。どうだ?」
 「ふむ、上等。じゃあ三時までに吾輩が書き終えたら、今晩はおまえさんのおごりだ」
 「図々しいにもほどがあるぞ、グレート。せっかく制限甘くしてやったのに」
 とはいうものの、声音はあきらかに愉快そうだ。リビングを風のように横切り、目の前にやってきたかと思うと、乱暴にくちづけられた。頬骨が勢いよくぶつかりあってしまい、同時にあ痛た、と声をあげる。濡れた手の代わりに、手首で頬骨を押さえて、彼は大口を開けて笑った。
 「ブラウニーの機嫌をそこねると、後が怖いぜ。これ以上待たせやがったら、承知しないから覚悟しやがれ」
 「わかってるさ。手痛いお仕置きが待ってるんだろう?」
 夜に、と付け加えると、あでやかにほほえみ、ぶつかりあったばかりの頬骨の上にそっとくちびるを押し当ててくる。頬を擦り寄せたついでに、彼は膝の上に乗せたラップトップの画面を覗き込み、ほんとに真っ白じゃねえか、と呆れてみせた。
 「三時だって楽勝だ。あんたには四時までの猶予をやるから、どうぞごゆっくり」
 「時間は守る。すまん、アルベルト」
 離れ際に、左手がするりと、おれの頬を撫でる。薬指にはめた指輪の硬い感触が、頬の上を滑りながら、その存在を主張してきた。






 そして結局、原稿を仕上げることができたのは刻限ぎりぎり、四時まであと十五分に迫ったころであった。
 誤字脱字をチェックし、原稿をメール添付で送り届けて、おれは長々とため息をついた。ラップトップを閉じて見上げた先には、とっくの昔に掃除を終えた彼がいる。ソファベッドに腰掛け、イレヴンジズの残りのアーモンド入りロックケーキをつまんでいたのだが、今は寝そべり、眠ってしまっている。ケーブル編みのセーターの胸の上で、読みさしの本が伏せられ、規則正しく上下していた。
 今日最後の陽光が窓から差し込み、ベランダに置いた薔薇やリラの鉢植えの影を、壁にうつしている。音もなく揺れる影の下、彼の銀髪と白いおもてが、あかあかとした茜いろに染まっていた。美しい光景に心奪われ、しばしゆっくり愉しませてもらおうかと、煙草に手をのばす。しかし、一本くわえてマッチを擦ったその瞬間、遠い記憶がまざまざとよみがえって、おれは息を呑んでいた。
 手の中の火が、瞬く間にあたり一面に飛び火する。気がつけばおれは、忘れもしない、数十年前の焼け野が原に佇んでいた。戦車や戦闘機の残骸がもうもうと黒煙と炎を噴き上げる中に、右膝から下を失い、脇腹に大穴のあいた彼が倒れている。右脚のミサイル発射口が誤作動を起こし、身動きが取れなくなったところで、砲火を浴びたのだ。
 青白く、表情の乏しい顔は硝煙で黒く汚れ、みずからの破片に切り裂かれて、内部組織を露出させていた。髪もなかば焼け焦げ、破損した右の眼球が飛び出している。近づく足音に意識を取り戻したのだろう、かろうじて傷ついていない左の瞼をもたげ、彼はこちらを見上げた。
 ――……007か。
 ――……ああ。
 ――ほかの、連中は?
 ――003は無傷だ。005は自力で歩ける。軽傷さ、おまえさんに比べれば、だがな。
 時折耳障りな音をたてて、脇腹の傷口から火花が散る。彼が傷を負ったのと同じ箇所に、おれはじりじりと炙られるような痛みを、確かに感じていた。003を庇って負傷した005の背中には、人工血液が滲んでいたはずだ。しかし彼の腹部に、それらしいものは見当たらない。同じサイボーグだというのに、こんなにもわれわれの仕様は個別に異なるのか。互いに共感を持たせないための、科学者の策略だと勘ぐるのは、考えすぎだろうか。
 さあ、帰るぞ。そう言って抱き上げようとすると、彼は右手でおれの胸を押しやり、顔をそむけた。
 ――よせ、007。
 ――なぜ? 早く治療を受けないと、おまえさん死ぬぞ。
 弱々しい眼でおれを睨み、望むところだ、と低く呟く。脇腹の傷から、また火花がはぜた。 
 ――死ぬ……ね。機能停止、そう言ったほうが、適切だとは思わないか、007。
 ――……。
 ――なあ、あんたに慈悲の心ってもんがあるならば、放っといてくれないか。もう、眠らせてくれ。
 ――馬鹿な。
 ――簡単なことだ、004は機能停止して、誘爆の危険性があったので、回収せずに置いてきたと言えばいい。あんたのお得意のその弁舌で、いくらでも言い逃れできるだろう。
 ――……。
 ――後生だ。こんな、機械の化け物にされて、……壊れても壊れても、直されちまう。もう生きていたくない。
 ああ、とおれは声を呑んだ。彼の絶望をあらためて思い知り、それもむべなるかな、と思った。
 しかしすぐに、猛烈な怒りが腹の底からわいてきて、おれは立ち上がった。鈍い表情のまま、彼はこちらを見上げる。眇めたその眼に、おれは彼のお株を奪う、皮肉な笑みを送ってやった。
 ――そうやって安っぽいセンチメンタリズムに浸るのが、おまえさんの趣味かね、004。この世でもっとも不幸なのは自分だ、傷だらけになって、こんなにもがき苦しんでいる。そう大声で喚きながら、さしのべられる手を片っ端からはねのけて回って、不幸な自分に酔いしれるのがお好みか? まったく、七面倒くさい男だ。003も005も、おまえさんほどには苦しんでいないと?
 ――……なんだと?
 ――ほう、怒る元気がおありとは、結構結構。
 もったいぶって、おれは右手を挙げてみせた。見せてやろうじゃないか、この自己憐憫に囚われたプライドの高い臆病者に、真の化け物のなんたるかを。
 ――004、おまえさん、002や003から聞いたことはないか? 変身機能が暴走すると、おれがどうなるのか。
 ――……。
 ――おお、こいつは愚問だったな。みな困り果てているぞ、おまえさんがあまりにとっつきづらくて、話もできんとな。ちょっとぐらい、愛想ってもんをみせたらどうかね。朋輩同士、コミュニケーションが取れぬようでは、この先思いやられる。
 ――この先なんざ、望んじゃいねえ。
 そう吐き捨てた彼の表情が、次の瞬間凍りついたのが、はっきりとわかった。
 防護服の袖口から、襟元から、どろりとおれは流れ出していた。変身と同時に、自身を構築するすべての数値を、一気に無に帰したのだ。人の姿を維持しきれなくなったおれは、くすんだ肌色の、ぶよぶよとした半固形物になって、地面にわだかまる。呆然と注がれる彼の視線に、異形の、真の姿をたっぷり十数秒晒してから、人の姿に戻ってみせた。
 ――さて、余興は終わりだ。いい加減帰るとしよう。もっとも、この不定形の化け物に連れられて帰るのは御免被る、というのでなければの話だが。
 おどけた笑みを見せても、彼は暗い眼を茫洋と、こちらに向けたままだった。反応がないのをいいことに抱き上げたが、もはや抵抗しなかった。安全装置が作動したのだろう、腹の傷口の火花は、すでに止んでいる。歩調にあわせて揺れながら、彼は力なく、おれの肩に額を凭せかけていた。
 ――少々、言い過ぎた。許してくれたまえ。吾輩はちと、興奮すると辛辣に過ぎるところがあってな。気に障ることを言われたと思ったら、これからは遠慮なく、指摘して……
 ――いや、おれのほうこそ、……すまなかった。
 思いもよらぬことばがこぼれ、おれは驚いて胸元に視線を注いだ。
 俯いた彼の表情を、確かめることはできない。しかしほそぼそとした息づかいの奥に、いつもの張りつめた表情とは別のものを感じ、おれは破顔した。彼にもっと、語りかけたいと思った。もしかしたら、朋輩たちに彼が心を開くきっかけを、掴むことができるのではないか。  
 ――なあ、004。おまえさんとて、あの大戦を生き延びた世代だろう? ならばいのちのありがたみってもんも、承知しているはずだ。あるものはありがたく、手元に置いておけ。それだけは、確信持って言えるよ。
 ――……。
 ――実はな、ここに連れてこられるまで、吾輩は廃人も同然でね。酒とクスリで心身ともにぼろぼろ、いつ野垂れ死んでも、おかしかなかったんだ。でも今は、頭も気持ちもしゃんとしているし、飛んだり跳ねたりして息切れすることもない。九死に一生を得たとすら思ったものさ。自分がこんな……化け物になっちまったと、知るまではね。
 ――……。
 ――だがな、実際おれは、新しいいのちを得たんだ。自分が死んだことにすら気づかず、ロンドンの路地裏をさまよい続けるよりは、化け物にされても生き続けるほうが、いくらかましだ。そう思うことにした。生きていさえすればもしかしたら、舞台に戻れる日が来るかもしれない。
 ――舞台?
 ――ああ、おれは役者でね。これでもちったあ、名が知れていたんだがな。
 こちらをしばしじっと見上げ、彼はそうか、それでか、と呟く。その意味を問わぬまま、おれは焼け野が原を歩き続けた。
 歩くうちに、胸元をわずかに引っ張られるような感触をおぼえた。そっと下を窺うと、彼の左手がおれの防護服を握りしめていた。そのまましばらく沈黙が続き、また彼の声が、胸元で響いた。
 ――007、頼みがある。
 ――ほう、なにかね。
 ――歌を、……歌ってくれないか。
 ――歌?
 ――音楽が、ほしいんだ。役者ならあんた、歌えるだろう?
 ――無茶なことを仰せだねえ。役者にも、音痴はいる。
 ――でも、あんたはそうじゃない。声でわかる。
 ――……。
 ――お願いだ、歌ってくれ。
 語尾がふるえ、おれの防護服を握りしめる手に、より力が籠もる。はじめて眼にする彼の怯えた様子に、おれは奇妙なほどに、安堵をおぼえた。
 ――なにか、お望みの歌は?
 ――「薔薇色の人生」。
 ――エディット・ピアフの?
 ――ああ、頼む。
 やれやれ、とため息をつきかけて堪え、代わりに彼にはわからぬように、わずかに苦笑を浮かべる。手の込んだ皮肉でもなんでもなく、きっと彼の、好きな歌なのだろう。そうでなければこんなときに、聞きたいと懇願するはずはない。
 ひとつ咳払いをし、キーを落として、場違いな「薔薇色の人生」を歌った。何度も何度も繰り返し、ゆっくりと歌った。歩き続けるうちに、ようやく黒煙と炎は遠ざかり、乾いた音をたてて、風が吹きすぎてゆく。歌が幾度めにさしかかったとき、ふと胸元に視線を落とすと、彼は泣いていた。歯を食いしばり、おれの防護服を握りしめて、声を殺して流す涙に気づかぬふりを装い、おれは歌い続けた。
 彼の楽才を知るよりも、ピアフについて熱く語りあうようになるよりもずっと前の、遠い昔の出来事。あれからどれほどの歳月が流れたことだろう。なのにこうして、昨日の出来事のように思い出すことができる。硝煙の臭いばかりではなく、あのとき感じたやり場のない怒りや、ほのかな安寧までも、克明に。
 そしてあれから、幾度彼の背中に問うたことだろう。恋人も音楽もすべてを失い、ただ死のみを望んでいたおまえを連れて帰ったのは、果たして正しかったのだろうかと。素直なほほえみを浮かべるようになった彼が、「薔薇色の人生」を口ずさんでも、その歌声をおれひとりに捧げてくれるのだとわかっていても、胸の中でひそかに問わずにはいられない。
 おまえは今、おれといて、ほんとうにしあわせなのかと。





 
 「……熱ッ!」
 指先にするどい痛みをおぼえて、おれは慌てて、手を激しく振った。燃えつきかけたマッチの軸が、床に落ちる。靴で踏み消し、おれは呆然と床を見つめた。マッチを灯し、それが軸を燃やし尽くすまでのわずか数秒のうちに、なんと深い追憶に沈み込んでいたことか。
 おれの声に、彼は眠りから覚めたようだった。しばらくは眼をしばたかせ、ぼんやりとおれの様子と床に落ちたマッチの燃えさしを見比べていたが、ソファベッドの上にゆっくりと身を起こし、おれと向かい合った。
 「原稿は、終わったようだな」
 「……ああ」
 「おれが寝てる間に、あんた、また……ろくでもないこと考えてたろ」
 彼の座っている場所からは、おれの表情は陰になって、よくは見えないだろう。それをいいことに生返事を返して、笑みにもならない笑みを彼に向けた。立ち上がり、歩み寄ってきた彼が、傍らに膝をつく。一度、ゆっくりと瞬きしてこちらを見つめた彼のまなざしは、おれの情けない泣き顔をはっきりと捉えたはずだ。
 杜松の香りが、鼻孔をくすぐる。あのときと同じように、彼は素直な銀髪に包まれた頭を、そっとおれの肩口に凭せかけてきた。
 「あててみせようか? ずっと昔のこと、思い出してたんだろう。たとえば、B.G.の基地にいたころのこと、とか」
 「……」
 「あんたがぼくに、『薔薇色の人生』歌ってくれたときのこと?」
 「……よく、わかったな」
 「あんたってさ、放っとくとすぐ余計なこと考えて、迷路に迷い込んじまうから。……」
 ちゃんと手を握って、つかまえとかないと。そう囁いて大きな左手が、おれの右手を包み込む。その手に左手を重ねると、互いの薬指にはめた指輪が触れあい、小さな音をたてた。さらにその上に、鈍色の彼の右手が重なる。決して離さない、そう言わんとするかのように。
 「グレート。あんたがこの世に生きていてくれる限り、ぼくはいつだってしあわせなんだ。あんたが愛を囁いてくれるだけで、胸が高鳴る。遠い昔の悲しいことも、なにもかも忘れられる」
 「……アルベルト」
 「きっとあのとき、ぼくはもう知ってたんだ。あんたこそが、『薔薇色の人生』を分かちあう、ただひとりのひとだと。あんたに恋するずっと前から、きっと知ってた」
 愛してるよ。この世の終わりの、その先もずっと。あんたに救われたこのいのち、死ぬときは……一緒だ。
 夕闇が迫る中、かたく手を取りあったまま、頬を寄せる。遠い日の戦場の情景が、遠ざかる。彼とふたりで生きる今このときに、しっかりと繋ぎ止められたことを感じて、おれはようやく安堵のため息をこぼした。



   了



付記:
 やたらと長くなりました。出逢ったばかりのころの回想です。最後のハインの告白の内容は、「薔薇色の人生」の歌詞に重ねました。本来この歌は失った恋を歌ったもの、彼にしてみれば、本当はヒルダさんとの思い出の曲だったはずです。しかしこの出来事を経て、グレートさんに心を開き、惹かれてゆくきっかけの曲になった、ということにしておきます。
 贖罪意識が強すぎて、自分を責めてばかりだったハインと、気遣いの人でありながら自分には冷たく厳しいグレートさん。錆びた鉄骨みたいだったハインをグレートさんが癒すことからはじまったのに、いつしか自己愛の足りていないグレートさんを、ハインが支えるようになるっていうのが、74ではないかと思います。鬱持ちカップルの相互介護、まあそれもいいんじゃないでしょうか。



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