めざめ










 
 ひどい喉の渇きと胸苦しさをおぼえて、目が覚めた。
 闇のただなかで両眼を見開いたが、意識はまだ、夢とうつつの境をさまよっている。自分がどこにいるのかすら、おぼつかなかった。やがて、全身をぐっしょりと濡らす汗の冷たさに、おれはすこしずつ、現実へと引き戻される。エンジンの振動も、遠く聞こえる砲撃の音もなく、すべては夜半の静けさのなかに沈み込んでいた。
 ――ひさしぶりだな。
 汗を拭い、深く息をついて、暗い天井を仰いだ。
 酒を飲んだのは、何日ぶりだったろう。戦いに出れば酒を断つ、それは自分で決めたことではなく、そもそもおれが戦いに出るようになったころ、周りに酒など存在しなかったせいだ。あの陰鬱な場所から逃げ出して以来、ひとつの戦いが終わり、生きて帰ってきたその晩だけ、おれは浴びるほどに酒を飲むことにしていた。仲間たちは気のいい奴らばかりで、快く無茶な酒宴につきあってくれる。彼らはおれの過去を知っているから、きっと無茶をしすぎないよう、眼を光らせてくれているのだろう。
 夢の断片が、ねばつく不安感を残している。しかし同時に、ほのかな懐かしさと親しさが、胸の奥に漂っていた。まったく、あの夢を見るのもひさしぶりのことだ。はじめのうち、戦いを終えた後の酒宴にはつきものだったのだが、このところはすっかり遠ざかっていた。それはつまり、おれがとりあえずは人間らしい生活を取り戻し、なおかつこの身の上を受け容れて、戦いの日々にも慣れたということなのだろう。喜ばしいことだと、おれは考えることにしていた。取り返しのつかぬことを、いつまでもくよくよ悩んだところで、どうにもなるまい。
 なのになぜ、今頃になって、またあの夢を見たのだろう。
 寝床の上に起きあがって、サイドボードの上の水のコップを取り上げた。これが迎え酒であったならという思いを、慌てて押しやりながら、飲み干した。しかし足りるはずもなく、灼けつくような喉の渇きはいや増すばかりだ。
 ――こんなときは、あれしかない。
 ほんの小さな子どものころ、明け方近くにドアの向こうから漏れる光に、目を覚ますことがあった。ドアを細く開けてみると、そこにあるのは泥酔の果てに、ぐらぐらと揺れる父の背中と、肩越しにそっと、レモネードを差し出す母の姿。縁の欠けたマグカップから、ほのぼのと湯気がたちのぼるさまを、今も克明に思い出すことができる。遠い記憶のなかで、それは唯一といってよいほどの、夫婦らしい静かな情がこもった父と母の後ろ姿だった。
 ――そう、あのレモネードだ。
 レモネードを飲もう。そう思ったとき、おれはすでに裸足で廊下に出て、階下のキッチンへと向かっていた。
 外は雨らしい。しとしとと陰気な水音がする。
 おれはそっと、耳を塞いだ。雨は好きではなかった。雨音を聞くと、いやでも昔のことを思い出す。いつのまにやら酒とクスリに溺れ、仕事も友人たちも、裸足でおれの許から逃げ出した。寝に帰る場所も失って、昔の顔なじみのパブにしけこんでは、意地汚くツケ払いを承諾させた。二本の足で体重を支えることすら放棄して、酒瓶を抱えたまま泥水のなかに頭から突っ込む。身を起こすこともできず、ただ降り注ぐ雨にうたれる痛烈さは、体験した者でなければわかるまい。
 ――そんなときこそ、レモネードだ。
 冷蔵庫の中身をまさぐりながら、ただおれは、レモネードのことばかりを考えていた。冷たいのではなく、あったかいレモネードだ。搾りたてのレモンの果汁を湯で割って、はちみつを溶かしたあのレモネードだ。あれをただ一杯、飲みさえすば、宿酔いのよどんだ脳みそも、固形物を受け付けなくなった胃袋も、しゃんとする。酔い覚ましのレモネードも置かないパブなんざ、湯水のように金を貸しまくって、あとでおっかない取立て屋を送り込んでくる高利貸しと同じだってんだ、こんちくしょうめ。……
 「おととい来やがれ、この一文なし!」
 頬を打たれて、おれは尻餅をついた。はずみで仰向けに寝転がると、背中にごつごつと硬いものが、幾つも当たった。起きあがってみると、製氷皿がひっくりかえり、氷が床の上に散乱している。頬を打ったのは、どうやらこいつか。
 「こんちくしょうめ。……」
 レモンは見あたらない。しばし呆けたように、おれはその場にへたり込んでいた。
 雨音がする。小さな雨粒が地面に落ち、弾けるたびに、頭蓋の奥で反響してめまいがした。猛烈な吐き気が襲ってきて、なすすべもなく、その場に胃の中のものをすべてぶちまけてしまう。眼を閉じてみれば、おれがいるのはギルモア邸のキッチンではなく、氷雨のそぼ降るロンドンの路地裏であった。着ているものも、いつのまにか寝間着ではなく、くたびれたツイードの背広に変わっている。肌着までずっくりと水を吸い、体温が容赦なく奪われてゆく。よろけながらも立ち上がってみると、通りの両端にはずらりとパブの看板が並んでいた。
 片っ端からドアを叩き、おれは叫んでいた。酒はいらない、レモネードを一杯だけ、飲ませてくれと。細く開いたドアの向こうからのぞくのは、決まってどこかで見知った顔であった。劇場のオーナー。芸能プロダクションの重役たち。かつての劇団の仲間。小屋の裏口で、出待ちをしていた娘たち。パトロン、裏方、評論家、新聞記者、おれが踏み台にしていった、幾人もの女たち。……
 「お呼びじゃないね。足腰も立たなくなった奴なんざ、役者と呼ぶにも値しないよ」
 「セリフも覚えられなくなった奴を、舞台に立たせる座長がいるか?」
 「ふーん、その赤黒くむくんだ顔で、リチャードV世をやるって? おめでたいこと」
 「オリヴィエ卿の後継者はおまえだと思っていたのに、期待はずれだったな。おれの眼鏡違いだったかね」
 「どの面下げて戻ってきたのさ。あんたみたいなのを、人間失格って言うんだよ!」
 誰もが口々に罵声を浴びせ、ぴしゃりとドアを閉めた。すがろうが、泣きわめこうが、容赦がなかった。そのたびに、おれは声を嗄らして、怒鳴り返す。たった一杯のレモネードくらい、恵んでくれたらどうなんだ。おまえら血も涙もないのか。ツケ払いにしてくれるんなら、明日にでも払ってやれるとも。そう、酒なんざ金輪際やめる。酒さえやめれば、今すぐにでも舞台に立って、大ホールを大入り満員にしてやるともさ!
 女たちが髪を振り乱し、あざわらう。その後を追おうとすると、ぬかるみに足を取られ、おれは派手に転倒した。けたたましい笑い声がする。しかし、その声に罵声をもって返すことも、立ち上がることすら、できなかった。からだがいうことをきかない。眼がまわる。意識もとぎれとぎれだ。視界が滲むのは雨のせいなのか、それとも自分の情けなさに、涙が出てきたせいか。ああ、……なんで、こんなことになったんだ。
 そして、どれほどたった頃だろう。哀しげな眼が、仰向けに転がったおれの顔を、じっと覗き込んでいるのに気付いたのは。
 よく知った眼だった。誰よりも。
 うめき声が、くちびるから漏れた。彼女はおれに、レモネードを差し出してくる。必死でそれを受けとろうとするが、手は鉛のように重く、そこまで届かない。萎えた足は動かず、寒さに歯の根があわない。それでも必死に腕をばたつかせ、おれは声にならぬ叫びをあげていた。……おふくろ!
 母は哀しげな眼のまま、じっとおれを見つめている。酒乱の父に身も心もずたずたにされ、見苦しい酒飲みを誰よりも嫌悪していた女性だった。彼女が苦しむ姿を見て育ってきたはずなのに、なぜおれは酒に溺れたのだろう。なぜ彼女に、こんなに哀しい眼をさせてしまったのだろう。
 「許してくれよぅ……おふくろォ。もう酒はやめる。やめるから、お願いだから、許してくれよぉ……」
 起きあがり、にじり寄って、その手を掴んだ。そのそばから、母は崩壊していった。もろもろと指の間からこぼれてゆく彼女をかき集め、かき抱き、おれは必死に叫び続ける。お願いだから許してくれ。叶うことならば、もう一度生み直してくれ。次に生まれてくるときこそ、もう二度と、こんな過ちは犯さない。たいそうな夢など持たず、まっとうに身の丈にあった人生を歩むのだ。そうすれば、姿かたちを自在に変える化け物にされることもない。戦いに出る必要もない。だから、後生だから、おれをもう一度生み直してくれ。おふくろ……!!
 「グレート!」
 頬桁をしたたかに殴られて、おれはもんどり打った。
 地面に叩きつけられる、と思った瞬間、硬い腕に抱き留められる。そのまま引きずられて歩くうちに、雨の音が遠ざかり、ドアの閉まる音とともに途切れた。眼を見開くと、そこにいるのは小さく縮んでしまった年老いた母ではなく、頬をこわばらせた戦友が、仁王立ちになっていた。
 「錯乱するんなら、家のなかでやってくれないか。おれまでびしょ濡れだ」
 「……ハインリヒ」
 「あんたを着替えさせてやるほど、おれは親切じゃねえよ。自分でやってくれ」
 そう言いながらも、彼はバスタオルをおれにかぶせ、乱暴に拭いてくれる。ぐずぐずと手を動かしていると、洗いざらしの寝間着を押しつけられた。広げてみると、サイズがだいぶ大きい。彼のものなのだろう。礼を言おうと顔を上げると、キッチンへと入ってゆく後ろ姿が見えた。しかたなしに、おれはリビングのすみで服を着替え、ソファに身を埋めた。
 また、雨の音がする。しかしもう、耳を塞ぐ必要はなかった。代わりに殴られた頬が腫れあがり、じんじんと音をたてて痛む。その痛みこそ、おれがロンドンの路地裏を徘徊する亡霊ではなく、今ここに生きていることの証左であった。
 キッチンから足音がして、彼が戻ってきた。その手には、マグカップがふたつ、握られている。それを認めた途端、また眼の奥が、じわりと熱くなった。差し出されたマグカップからたちのぼる湯気が、涙に滲んで流れた。
 「飲めよ、グレート」
 なんで分かったんだ。そう問うと、彼はほのかに微笑んで、言った。いつもあんたが言ってるじゃないか、酔い覚ましには、あったかいレモネードが一番効くんだって。
 「いい気になって、おれも飲み過ぎちまった。あんたにも飲ませすぎたって、あの後フランソワーズに叱られた」
 「……」
 「すまなかった。許してくれ」
 嗚咽をこらえられなくなったおれの背中を、大きくぶ厚い彼の掌が、そっと撫でる。マグカップを握りしめ、おれは泣き続けた。母に甘えるように。



   了





*「Vertical」の藤空子さまへ。474ヒットのキリリクです。いただいたお題は、「GBに捕まる直前、ひとりぼっちのグレートさん」。もうちょっと違うバージョンもあったので、余裕があれば書いてみたいです。独白スタイルではなく、第三者視点に変えるべきだったかと、ちと悩みました。



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