Life Lesson









 「合格点だな。優、いや、秀を差し上げようか」
 いきなり、そう言ったおれの意図を、彼はすっかり承知していたようだ。きっと、自信もあったのだろう。長い前髪の下からおれを見やって、にやっと笑った。
 「今日はずいぶんと、気前がいいんだな。いつもさんざんケチをつけた挙句、及第点すらなかなかくれないくせに。何かいいことでも、あったのか?」
 「何を仰せになるか。おまえさんがこの部屋にいること、それにまさる幸せは、我輩の人生に存在しないのだが」
 「……また、そんなことを」
 ティーカップの底に視線を落とし、彼は照れくさそうに微笑む。それでも、照れくささの陰に輝くような喜びが見え隠れするのは、誤魔化しようがない。
 「いやいや、今日はまったくもって、素晴らしいよ。文句のつけようがない」
 ちょっとした誇らしさとともに、おれは目の前、ソファに腰掛けてアールグレイをすする、彼の姿を眺めていた。
 赤葡萄酒そっくりの、緋色の無地のコットンシャツ。グラデーションのついた、深い緑のスカーフが、開いた襟の間からのぞいている。同色のパンツに、ややかすれた色合いのコーデュロイの黒のジャケット。よく似合っている。殊に、シャツの緋色が彼の透きとおるような白い肌に、よく映えていた。緋色と深緑の取り合わせは、デューラーやホルバインの絵画を髣髴とさせ、それらがまさか蚤の市の戦利品だとは、とうてい思わせぬ品位を醸し出していた。もちろん、着る者の度量のなせる技でもある。
 ブランド品は、使わぬこと。そして、黒ばかり着ないこと。それが、この「レッスン」の条件だった。
 世の人がどれほど賛同してくれるかどうかは分からぬが、身につけるものについて言えば、黒は逃げの色であるというのが、我輩の持論である。自分のセンスに自信が持てないから、とりあえず冠婚葬祭すべてに通用し、無難そうに見える黒を、誰もが選びがちだ。しかし、実は黒は、誰にも似合うという色ではないのである。確信を持って、黒を着こなせる人間は、そうはいない。
 そして、あきらかに彼は、確信の持てぬ黒愛用者のひとりであった。






 ある日、いつも黒だのベージュだのばかり着ている彼に、おれは文句をつけた。そんな格好をして、せっかくの人生、雑踏に埋もれるつもりか? と。
 訝しげに眉を寄せ、いつものごとく不機嫌そうに、埋もれちゃ悪いかと答えた彼の気持ちは、分からないでもない。それに、実のところ、黒が似合わない訳でもない。しかし、おれは自分の主張を取り下げなかった。おまえさんは、もっと自分らしい格好をするべきだ。無個性に走るほど、つまらん人間でもあるまい? ……まあ、アロハだのタイ・ダイTシャツだのを着て、あのアメリカの小僧っ子と張り合えとは、言わんがね。
 一瞬、あの摩訶不思議な色彩感覚の持ち主であるアメリカ青年がいかにも好みそうな、ド派手なアロハやグレートフル・デッドのタイ・ダイTシャツを、居心地悪そうに着た彼の姿を想像してしまい、すんでのところで吹き出しそうになった。……いや、彼のことだ、いくらなんでも、そんな間違いを犯すことはないと思うが……。
 いささか、言い過ぎたかとも思った。しかし、そのひとことに、彼はあきらかに反応を見せた。もしかしたら、彼一流の、負けず嫌いのせいだったのかもしれない。
 それ以来、彼の服装をチェックすることが、顔を合わせる度のしきたりになった。基本的に、彼のなりを一瞥し、ひとこと何かを言うだけである。それも、具体的な提案ではなく、「もうちょっと、遊んでみろ」とか、「服じゃなくて、それを着たときの自分の顔を見てみろ」とか、抽象的な内容にとどめた。
 最初のうちは戸惑っていた彼も、じきにコツをつかんだのか、それなりに「自分らしさ」を追及しはじめたのが、見て取れた。まったく、まともな鏡すら持っていなかったというのだから、あきれてしまう。恋人に贈った最初の贈り物が、大きな姿見という男は、世の中にそうはいるまい。品数にも、色彩にも乏しいクローゼットの中身が、この姿見を使うことで、どう変わってゆくのか……そんなことをひそかに考えながら、一緒に壁に釘を打ったものだ。
 そして、次第に、いい感じにこなれてゆく彼を見ながら、おれが無骨な原石を、極上の宝石に磨き上げる楽しみを感じていなかったといえば、それは真っ赤な嘘になる。かつて、おれを磨いてくれたひとも、そんな風におれを見ていたのかと思うと……なんとも、複雑な気分だ。もっとも、おれは磨いたところで、今光るのはこの頭ぐらいで、彼の放つ輝きには、遠く及ばないだろうが。






 さて、見事及第したところで、彼にこのレッスンの種明かしを、しておこうか。
 真正面から見据えたおれに、彼は、何? と微笑んだ。
 「知っているか? アルベルト」
 「……何を?」
 「自分に似合うものを探すというのは、自分を愛するためのレッスンでもあるのだよ」
 まずは、自分を好きになれ。あるがままの自分を、受け容れろ。おまえさんが、いつまでも自分を醜いと思っているのは……おまえさんを愛する、我輩への侮辱になるってことを、憶えておいてくれ。
 消え入りそうな声が、つぶやいた。……すまない。
 立ち上がって、彼の背後に立つと、俯いた彼の肩を、ぽんぽんと叩いてやった。
 「謝ることはあるまい。おまえさんがそこにいるだけで、おれは」
 幸せだ。満ち足りる。
 彼がおれに言ってくれたことばをなぞっていたことに、ふと気がついた。彼も気付いているらしいことは、おれを見つめる含みのある笑顔で、明らかだ。
 ももいろのくちびるが、控えめにすぼめられて上を向く。レッスン及第への御褒美のキスを、そっと落としてやった。
 「さてと、そろそろ出かけるか」
 「……どこへ?」
 いぶかしげに、彼が眉を寄せる。その目の前へ、おれは貴婦人をエスコートする騎士の気分で、恭しく手を差し伸べた。
 「美しいものを、部屋の中に据えたままにしておくことはあるまい」
 万人の前で、誇るがいい、おのれの輝きを。そなたの誇りは、我が誇りとなろう。
 大仰な身振りとことばに、恋人はこそばゆそうに苦笑しながらも、おれの手を取って、立ち上がった。
 

   了




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