Maybe













 気がつけば、いつもそばにいる。
 そのことには結構早くに気がついた。あの太平洋の孤島から逃げ出してすぐ、B.G.の研究施設に閉じ込められているよりは、人並みな生活ができるようになったころのことだ。気が合うのはわかっていたから、それも当然だろうとしか思っていなかった。しかし、
 気がつけば、いつもそばで寝ている。
 そのことに気づいたのは、だいぶ経ってからだ。まだおれが日本にいて、張大人の店を手伝っていたころのことである。
 日本に来ると、彼はほぼ毎日のように飯店にやってきた。タダメシ目当てかと最初はからかったものだが、どうもそれだけではないらしい。食事の代わりに彼は裏方の仕事を手伝い、いつもは店の屋根裏部屋に寝泊まりしていたおれも、彼がいるときは一緒に研究所に帰る。電車とバスを乗り継いでゆうに二時間以上はかかる道のりを、例によって益体もないおしゃべりをしたり、黙って車窓を流れゆく景色を眺めたりして、ともに過ごした。なんとなく会話が途切れるのと、彼と隣り合うほうの肩にすこしばかりの重みを感じるのが、ほぼ同時。のんきな男だな、と苦笑しながらも、なにやら頼られているらしいことに、ささやかな誇らしさを感じたものだ。
 休日、リビングでくつろいでいるときも、いつの間にかそばにいる。やることは特急列車に揺られているときと同じだ。世間話をしたり、互いが今読んでいる本について、意見を交わしたり。彼の居眠りで、会話が途切れるのも同じだ。目覚めると彼は、ごくあたりまえに会話を再開し、おれも自然に、それに応える。自然とはいいながら、ひそやかな望みにも似たある思いが、確かに芽生えはじめていた。
 それがほぼ確信に変わったのは、ある晩若い連中とビールを飲んでいたときのことである。酒を飲むとつい居眠りしてしまうというジェットのことばに、ふと肩に凭れる、彼の頭の重みを思い出したのだ。
 「そういやハインリヒは、酒が入ってなくてもよく居眠りしてるよなあ」
 「ええ……そんなに?」
 眼を上げて、ジェットは首をかしげた。かしげついでに、テーブルの上のナチョスの皿に手をのばす。このあたりに多い米兵向けの店から、タコスの盛り合わせと一緒に注文したものの、おれはどちらも手をつける気にはなれない代物だった。
 「居眠りしてるって、たとえば?」
 「きみらと会話してたりする途中で、居眠りしたり」
 「んなわけないじゃん、話してるんだし。いつまでもだらだら話してるからじゃねーの? あんたらってさ、いっつもひとつの話題でずーーーっとだべってるよな。よく会話がもつと思うよ」
 「……ジェット、おまえさん、観た映画の話とか彼としないか?」
 「しないしない、だって趣味が合わねーもん、まるっきり」
 観ておもしろかった映画の話を興奮気味にするたびに、鼻で嗤われたと彼は憤慨する。なんの映画だ、と訊いたら、出てきた名前はジョン・ウェインの西部劇と、アメリカン・コミックの実写版。さもありなん。
 「そりゃあさ、あんたが今座ってるソファで、あいつが昼寝してるとこは見たことあるよ。でも、話してる途中で寝ちまうってすごい失礼じゃね? ジョー、おまえどう思う?」
 新しいビールを持ってきたジョーは、いきなり話を振られて困惑の笑みを浮かべる。そして、
 「そりゃあ失礼だと思うけど、……でもさ」
 「でも、なんだよ?」
 「ボクもフランソワーズと話してて、居眠りしちゃったことあるから、偉そうなこと言えないな」
 「あーあーもう、ごちそうさま!」
 鼻白んで、ジェットはナチョスをばりばりと頬張る。結局その後、若い二人がその日観に行った映画――米空軍のパイロットが主人公の映画だ。これまた、彼の好みとはまるでかけ離れたもの――の話をしはじめてしまったので、話はそこで打ち止めになった。
 しかし、それでさいわいというべきだったろう。数日遅れのガーディアン紙を広げたまま、内容はすこしも頭に入ってこなかった。整然と並ぶ活字の上を滑りながら、おれの眼が観ていたのは、今ここにはいない彼の眼であった。向かい合ってことばを交わすうちに、熱を帯びてうるみはじめる。ゆっくりと長い睫をまたたかせ、口にしていることばとは違う想いを、雄弁に訴えかけてくる。
 ――言うな、きみよ。
 その視線を受け止めながらも、心では顔を背けている。それを受け止める勇気は、おれにはない。
 ――ハインリヒ、言ってくれるな。
 願わくば、思い違いであってほしい。彼のひとみとは別に、脳裏には仲むつまじい、若い恋人たちの姿が浮かんでいる。うたたねする恋人に膝を貸し、小春日和の陽光に亜麻色の髪を輝かせる彼女は、まるで聖母マリアのよう。そんな愛をきみに注ぐ自信は、おれにはない。
 乱れた心をなだめ、忘れたふりをして、半年あまりを過ごした。そうしてほんとうに忘れかけたころ、ある晩遅くに研究所に戻ってみると、薄暗いリビングに彼がいた。うろたえてしまったのを気取られたくなくて、つい大袈裟に胸を押さえ、おおびっくりした、と声を張り上げてしまった。
 「グレート、ひさしぶり。変わりないようだな」
 どうだ、つきあわねえかと、おれにしかみせない笑顔を向けてくる。すこし距離を置くべきかと考えていたのも忘れて、吸い寄せられるように、向かいに腰掛けてしまった。テーブルの上には空港の免税店で買ってきたとおぼしき、カティ・サークのボトルと殻付きピーナツ。グラスは二つ、彼の手の中のものと、使われた形跡のないもの。おれを待っていたのだということは、火をみるよりもあきらかだった。
 向かいに座ったはずなのに、キッチンから水を持ってきた彼は、おれの隣に腰掛けた。近況や昔話、会話を重ねるごとに杯も重ね、そして彼とおれの距離は、どんどん近くなる。いつの間にか膝どころか、からだの側面がぴったりと接していても、酒精にすっかり腑抜けにされたおれは、流れに身を任せるままでいた。そういえば、と彼が低い声で、囁くまでは。
 「春先だったかな、あれは。ジェットから電話があってね、脳の検査をしたほうがいいんじゃないかって言うんだ。あいつはほら、身が軽いぶん、装甲があまり強くないだろ。だからメンテナンスのときは、必ず精密検査するんだと」
 「……らしいな」
 「前回あいつが来たとき、おれがよく話の途中で居眠りするってっ話したんだって?」
 事実なので、そうだと返事をした。まさかこんな形で、話題になっていた者から直接、蒸し返されるとは思ってもみなかったが。
 大きな手をこすりあわせ、ピーナツの殻くずを払いながら、彼はおかしそうに笑った。ばかだなああいつは、余計な心配をしすぎなんだよ。脳の精密検査くらい、おれだって欠かさずしている。会話の途中で居眠りする奴らが全員ボケてたら、世界中の脳神経科病棟はとっくの昔に定員オーバーだろう、と。
 不意にふわりと、羽毛のように軽やかに、彼の銀髪が頬を撫でる。肩に頭を預けてきた彼は、もちろん眠ってはいなかった。おれの腕にそっと右の手を添えて、頬を肩に押しつけてくる。すでに引きかけていた酔いが、一気に醒めてゆくのがわかった。
 「好きなんだグレート、こうするのが。あんたと一緒に、……一緒にいるのが心地よくて、すごく好きなんだ」
 「……」
 「酔ってるんだ、おれ。あんたと話してる途中で居眠りしちまうのも、酔ってるからってことにしてくれないか、頼む」
 「別に、酒が入ってないときも、かね」
 「酒が、入ってないときも」
 なにに、とは問わなかった。それきり彼は押し黙り、おれもことばを返さなかった。親友にしては、あまりに近しく触れている彼の手を、ふりほどくこともしなかった。肩に頬を押しつけたまま、おだやかな寝息をたてはじめてしまった彼の眠りを乱さぬよう、鼓動すら抑えたいと思った。
 すでに極上のジンよりも冴えてしまったおれの脳に、彼のことばはひどく清澄に響いてとどまり、するどい氷の結晶となっていた。触れれば折れてしまいそうな切っ先を、彼の静かな吐息がまろやかに溶かしてゆく。おれ自身も、溶けてしまいそうだ。溶けて彼のくちびるにしたたり、飲み干されてしまえばいいのに。ことばを介せず、下世話な肉欲にまみれることもなく、ひとつになれれば、どんなにか楽だろう。
 ――おれも好きだ、ハインリヒ。きみとこうして、一緒にいるのが。
 たぶん、おそらく、もしかして……きっと。彼のことばと口にせぬままのおれの答えが、呪文のようにぐるぐると、巡りゆく。これは真実の恋、けれども今はこのままでいたい。これ以上ことばにしてしまうよりも、互いに気づかぬふりを装いながら、誰よりもそばにいる心地よさに、身を浸していたい。
 ――そう、“まことの恋が、平穏無事に進んだためしはない”のだよ。
 肩と半身にここちよい重みと体温を感じながら、眠る彼に、そっと頬を寄せる。やわらかな銀髪は、ほのかな杜松のかおりがした。



   了



付記:
 まだつきあう前の74、たぶん80年代の話です。張大人の店は原作どおり新宿、ギルモア邸は三浦半島のどこかにあると想定しています。最寄り駅は横須賀中央あたりなので、ジェットあたりが好きそうな「米兵向けの店」がたくさんあるし、人種いろいろなゼロゼロナンバーズがうろうろしていても、それほど目立たないという訳です。
 74はこんな感じで、つきあうまでに数十年をもだもだと過ごしてほしいです。お互い相思相愛だとわかってはいても、過去の痛手から一歩踏み出す勇気が持てず、「ちょっとスキンシップの過剰な親友」という関係で、なんとか想いをごまかしている。でもたまにぼろを出して(たいがいハインのほう。グレートさんはさすがにそういうぼろは出さない)、いたたまれない気持ちに苛まれたり。今回はそういう、胸を焦がしながらも親友同士に踏みとどまるふたりを書いてみたくて、こうなりました。



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