T'es Beau, Tu Sais













 先刻、薬局で買い求めたまるい容器をテーブルの上に置くと、鏡の前に座らされた彼は眉間と鼻にしわを寄せ、口を思い切り曲げて、不快感をあらわにした。
 「なんだね、その顔は。毛虫かゴキブリでも見たような」
 「そいつらと同じくらい、ぞっとしねえな。勘弁してくれよ」
 戦場では誰よりも容赦がないというのに、日ごろは毛虫一匹で足がすくむ男なのだ。おかげでギルモア邸の花壇の手入れでも、張大人の飯店の厨房でも、助けになるどころか足手まといになる始末である。やれやれ、これだから都会育ちの良家の坊ちゃんは、と冷やかそうとして、お門違いの批判であることに気がついた。今問題なのは、毛虫ではない。ポマードだ。
 「だからって、その髪のまま出かけるつもりかね? スカラ座のソワレ、しかも平土間席だぞ! 正装するんだから、それに見合うように髪もセットして」
 「コヴェント・ガーデンやソーホーに行くときは、いつもこのままだ」
 「ダークスーツで済む場合は問題ない。しかしおまえさん、タキシードでは……」
 「あんたはいいよな、グレート。髪型で迷う必要なくて」
 「アルベルト!」
 返すことばのないおれに、してやったりとばかりに歯をむいて、彼はキヒヒと笑う。まったく、小癪というか殊勝というべきか、彼も口喧嘩の腕を上げたものだ。
 「ともかく、正装時に髪をセットするのは、大人の身だしなみだ。そんなことも判らんお子さまじゃあるまい?」
 「あたりまえだ。でも、おれのポリシーに反する」
 「ポリシー、ねえ……」
 また屁理屈をこね回すつもりだ。わざと眉根を寄せて、大袈裟に肩を竦めてみせると、彼は憤然とおれの前に顔を突き出してきた。大きな右手で前髪を掻きあげ、額をあらわにする。
 「まずなによりも第一に、おれにこの髪型は似合わない。絶望的に、な。慣れてない髪型なんて、しっくりこなくてこそばゆいだけだ」
 「……なるほど?」
 「それと、ポマードは大嫌いだ。べたべたして、臭いもきつくて、髪からなかなか落ちねえなんて、人間の使うもんかよ。そんなもんで整髪するなら、オリーブオイルでも塗りたくったほうが、なんぼかましだね!」
 「ほう、では今からオリーブオイルを買ってこようか? 一階のリストランテにかけあえば、貸してくれるかもしれん。実際古代ローマ人たちは、オリーブオイルで整髪していたというし……」
 ドアに向かおうとすると、血相を変えた彼に腕を引っ張られた。それみろ、やっぱり屁理屈じゃないかと、ことばにはせずにおれは苦笑する。しかし、屁理屈の奥にひそむものの輪郭を垣間見て、おのれを戒めた。真面目に彼の眼を、まっすぐに覗き込んだ。
 「三番目の理由をうかがおうか、アルベルト・ハインリヒ・エルンスト・マティアス・フォン=ベルリヒンゲン伯爵?」
 「……伯爵は余計だ。貴族制は、戦前に廃止になってる」
 「しかし、世が世ならおまえさんも、そう名乗っていたはずではないか? おまえさんに今、ポマードを断固拒否させているその人と同じように」
 拗ねた眼で、こちらを見上げる。この街を縦横無尽に走るトラムが、窓の下を走り去る音が響いた。ヨーロッパでも指折りの古い歴史を持つこの街のトラムは、同盟国をしばしば訪れていた彼の父親にも、おなじみのものだったはずだ。
 彼の父親の写真を、一緒に幾度か見たことがある。敵と対峙するときの彼とよく似た佇まいで、ニュルンベルク裁判の被告席から、傲然と裁判官を睨んでいた。銀髪をきっちりとポマードで固め、あろうことかナチスの軍服に身を包んだその男は、初公判直後にみずから命を絶った。その知らせを受け取ったとき、哀しみよりもはるかに強く、憎しみを感じたと、彼は言う。その感情は時を経て和らぐどころか、決して癒えぬ傷を彼の心に刻みつけた。
 父親にまつわるものを、彼は蛇蝎のように嫌った。全体主義を思わせるものすべてを蔑み、ナチスが登場する映画は決して観ず、ワーグナーが流れてくれば、即座にラジオのスイッチを切った。まだB.G.の基地にいたころ、些細なことで口論となったジェットにナチス野郎となじられ、頬桁がゆがむほど殴りつけたこともある。年々父親の面影を強く宿すようになった自分の容姿すら、彼は長い間受け容れられずにいた。身なりに対する彼の無頓着さが、父親にすこしでも似ることを避けるためだと知ったとき、彼の負った十字架の重さをあらためて突きつけられ、暗然としたものだ。
 押し黙る彼の頭を、そっと胸に抱き、髪を撫でた。撫でるたびに、つややかな銀無垢の髪は光を弾き、まばゆく輝く。その美しさに今さらながら心打たれながら、長い前髪を掻き分けて、秀でた白い額をあらわにした。
 「アルベルト、きみの気持ちを、すべてわかっているとはとうてい言えない。けれども、おれも同じものを抱えているのは確かだ」
 「……」
 「おれだっていまだに、おふくろを虐待した親父を許しちゃいない。父親に対する感情を解決できないままにしているのは、きみと同じだよ」
 憂いを帯びたひとみが、心許なげに揺れる。額に、瞼にくちびるで触れ、おれは慎重にことばを選びながら、続けた。
 「考えてみりゃ、不思議なもんだと思わんかね。偶然寄せ集められ、サイボーグ手術に耐えて生き残ったただけの我々なのに、父親に複雑な感情を抱いている者が、こんなに多いだなんて。しかし、父親の顔すら知らないジェットやジョーに比べりゃ、恨む相手を知っているおれたちは、まだ幸せだぞ」
 「……そうかも、しれないな」
 「父上は父上、きみはきみだ。父上の罪を、きみがいつまでも背負うことはない。きみ自身であれ、いついかなるときも。鏡の中に父上の面影を探すのではなく、きみ自身の美に……誇りを持ちたまえ」
 わたしのいとしい、五月の薔薇のつぼみのきみよ。いつものようにそう呼びかけると、ようやくほほえんでくれた。
 霧吹きで彼の髪を湿らせ、必要最小限のポマードだけを、掌に取った。本来の髪のくせを生かし、やわらかく流して、オールバックの髪型をつくってやる。固めないのか、と問う彼に、こうすれば洗い流すのに苦労しないだろう、と返した。こういった身だしなみの基本と技法は、まず父親から教わるものだ。大戦以前からウィーンとベルリンに分かれて住まい、十五で父親と死に別れた彼に、教わる暇などなかったに違いない。
 ――それに。
 鏡を正視できず、伏せられた長い睫の下でさまよう彼の視線をうかがいながら、おれは思う。あの古びた報道写真の中のナチス将校とは違う顔を持っていることを、彼に知ってほしい。
 「どうだね。よく似合ってるじゃないか」
 最初はこわごわと、すぐに食い入るように正面に向けられた眼に、鏡の中からウィンクを送る。首を竦めて、彼は照れくさそうにほほえんだ。
 「……思ったほど、冷たい印象じゃないな」
 「自分で思うより、おまえさんはやさしい顔立ちをしているよ。寝顔なんてそりゃあもう、愛くるしいもんだぞ」
 うろたえて、彼は首筋をほんわりと染める。あらわになった額にふたたびそっとくちづけを捧げ、ついでにタイも結んでやった。立たせて最終チェックをし、その輝きに、素直に嘆息する。
 「さすが、みごとなもんだ。アルベルト」
 「……」
 「今宵の平土間で注目を浴びるのは、どこの上流のご婦人でも女優でもなく、おまえさんだろうよ」
 しかし、あまり磨きすぎるのも、考えものかもしれない。酒飲みの能なし役者風情と連れだって歩くには、すでに彼は美しすぎる。
 ホテルを出ると、こぬか雨が降っていた。ドゥオーモの前を足早に通り抜け、スカラ座へと続くガッレリアの中へと入る。左右に並ぶ高級ブランド店のウィンドゥを眺めていた人びとの視線が、こちらへ吸い寄せられるのがわかる。しかし、行き交う彼らの表情がどうにも奇妙だ。不審に思って、左を歩く彼を見上げたおれは、立ち止まってたっぷり三秒間、口を開けっぱなしにしてしまった。
 「これ、なにやってんだね、おまえさんは!」
 「……悪いかよ」
 不平がましい眼で、こちらを見やる。彼ときたら、右手で額を隠しているではないか。
 「みっともないからやめたまえ。みな不審がってるぞ」
 「額がスースーして落ち着かねえんだよ。出して歩いたことなんて、ないもんだから」
 裸で歩いてるみたいだと、ひそひそと言う。堪えきれずに笑い出してしまったおれを、彼はますます不平がましい眼で睨む。
 「知ってるだろう、目立つのは好きじゃない。グレート、あんたひとりに見つめてもらえさえすれば、おれは満ち足りるのに」
 公の場で示すことのできる、ありったけの情愛をこめて、彼の背をぽんと叩いた。耳元にくちびるを寄せて、ひくく囁く。
 「これ以上、かわいらしいことを言ってくれるな、わが薔薇よ。今ここで、きみを抱きしめたくなってしまうではないか」
 「……グレート……」
 「まずはオペラだ。極上の芸術で心を満たそう。それからきみのほんとうの美を、ふたりきりの場所でたっぷり……堪能させておくれ」
 額から下ろされた右手の指先が、そろりとおれの左手を探る。抱擁の代わりにコートの陰で一瞬だけ、きつく手を握りあい、おれたちは先を急いだ。



   了



付記:
 またもやいろいろ捏造してしまいましたが、秋のイタリア出張の宿題です。今回の壁紙は、そのとき撮った写真を加工したもの。ほんもののガッレリアです。
 グレートさんの父親がDVアル中労働者(しかも妻子を捨てて出奔後野垂れ死に)、ハインの父親がナチスの軍人という設定は、昔のサイトからずっと続けて使っていますが、ハインのことは今回はじめて詳しく書き込んだかな。楽才はロシア貴族の母上譲り、一筋縄ではいかない性格は父上譲りです。容姿は両方かな。男の子って、年取るごとに父親に似てくるもんですし。



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