Natural Beauty













 遅い朝、午前中最後のニュースを終えたTVから、おざなりな天気予報が流れはじめる。一応聞いておくかとTVの前のソファベッドに腰かけると、すかさず紅茶のマグが差し出されてきた。
 「ありがとう、アルベルト」
 振り返り、ほほえみかけるが、笑みがすこしばかり角にひっかかってしまう。彼は気にもせず、笑みを返して自分もマグの紅茶を啜った。料理はあいかわらず、まるで上達しないが、紅茶だけは妙に美味いものを淹れられるようになった。朝食はおれが作り、紅茶は彼が淹れる。その役割分担が定着して、すでに久しい。
 今日のロンドンの天気は晴れのち曇、時々雨。最高気温は23℃、パリも同じ。マルセイユは晴れときどき曇、最高気温は25℃。モナコは快晴、最高気温は……
 「33℃だと! ざまあみやがれ、焦げちまえ!」
 彼が快哉を上げる。快哉というよりは、呪詛の声というべきか。さすがに品がないので、半分だけ振り向いて眼の端から咎める視線を送った。
 「アルベルト、たかだか33℃で、焦げる人間はおらんと思うが?」
 「おれは焦げるよ。聞きたくもないね、33℃だなんて!」
 「やれやれ、日本には住めんな、おまえさんは。この前フランソワーズがぼやいてたぞ、連日35℃だってね。夏だけパリに逃げたいけれど、店が軒並み閉まっちまうから、それもできないとさ」
 「彼女には同情するよ、心からな。ヴァカンス旅行なんかに行く奴は、呪われちまえばいいんだ」
 「おいおい、ヴァカンスはおまえさんの親の仇か? ひがみに聞こえるからやめたまえ」
 「ひがみだろうとなんだろうと、ヴァカンスでリゾートなんて、おれは嫌いだね。コート・ダジュールだのマルタくんだりまで行って、結局どこ行っても人で溢れてるんだぜ? ありえないね!」
 絡むねえ、と苦笑すると、彼は絡むさ、とひねた笑みを浮かべた。そう、いつものことだ。毒舌はおれたちふたりの習い性。権力と金をもてあそぶ連中を、ひとしきりくさしては腹黒い酒やお茶を飲む。はじめて出逢ったころからもう数十年、飽きもせずに続けていられるのは、もう相性としか言いようがないだろう。
 「しかし、別におまえさんのふところから、連中の旅費が出る訳じゃあないぜ」
 「おれが払わなくても、出費も労力も無駄だってことだよ。大枚はたいて、ビーチで人の頭しか見えねえとか、暑さでへばって冷房のきいたホテルで寝てるだけ? 自然を感じに行くんじゃないのか? あほらしくて笑っちまうね! 全員怠惰と強欲の罪で、地獄に落ちろってんだ」
 「こりゃまた手厳しい。七つの大罪のうち、二つもか」
 本棚の下段におさまっている、ブリューゲルの版画集の背表紙を見やって、おれは苦笑した。七つの大罪は怠惰に強欲、傲慢、嫉妬、憤怒、暴食、それに色欲。無駄なヴァカンスを過ごさなくとも、おれたちも色欲の罪で地獄行きだろうか。なにしろブリューゲルは、おれたちが逢瀬のたびにしていることも、あからさまに描いて咎めているではないか。……
 罪悪まみれの混沌の世界に紛れていると、彼が視界を横切った。気にせずにいようと思っていたのに、身をかがめ、TVのリモコンを手に取るその姿を、つい注視してしまう。注視せずにはいられない格好なのだ。
 「グレート、チャンネル変えていいか?」
 「ああまあ、好きに変えてくれ」
 あてずっぽうに番号を押し、あらわれた放送局では、折しも旅行番組の真っ最中だ。画面いっぱいにあらわれた南イタリアの大皿料理に、彼は感嘆の声を上げる。色欲が暴食にとらわれておるぞ、と、愚にもつかないことを考えて、おれは頭をぐるぐると撫でた。
 目の前のこの光景は滑稽なのか、それとも破廉恥というべきなのか。ただし、破廉恥と呼ぶには彼の振る舞いはあまりに自然だ。毒舌ならばいくらも交わせるが、妙に訊きづらい。もう互いのことは、すみからすみまで知り尽くしているというのに。
 「その、アルベルト……朝食はベッドで食べたから、訊かずにいたんだが……」
 「ん?」
 「おまえさん、ヴァカンスに行けない代わりに、その格好のままって訳じゃなかろうな?」
 素直なプラチナブロンドをさらりと揺らして、彼はこちらに向きなおる。素っ裸だ。それを恥じる様子など、毛筋ほどもない。
 つい赤面するおれににっと歯を見せ、わざわざ目の前にやってきて、腰に手を当て仁王立ちになる。生身のころ病弱だった彼は、さほど体格がよい訳ではないのだが、上背だけはあるせいか、背筋を正すと妙に威圧感があった。首を竦めたおれを、例の人の悪い笑みを浮かべて見下ろしている。こちらの狼狽を、愉しんでいるらしい。
 「間抜けどものくそヴァカンスと、一緒にしてくれるな。これは、文化だ。エフ・カー・カー」
 「……へ?」
 「エフ・カー・カー、略さずにいえばフライケルパークルトゥーア。英語にすると、フリー・ボディ・カルチャー、かな。知らないか?」
 「いや……」
 「衣服から肉体を解放して、自然とのふれあいを愉しむこと。まあ要するに、ヌーディズムだな。いまだにドイツじゃさかんだし、不純な目的でやる連中もいるけど、“東”ではとりわけ、流行ってたのさ。あくまで文化として、ね」
 勢いよく身を投げ出し、彼はソファベッドのあいている空間に寝転がった。そしてわざわざ頭をずり上げ、おれの膝を枕にして、にっこりほほえむ。砂粒ほどの打算もなく、彼はあるがままに振る舞って、おれの心を一瞬にして奪ってのける。そのくせおのれのまばゆいばかりの美に、彼はまるで無自覚なままだった。
 「……おまえさんが、まさかそのエフ・カー・カーとやらの愛好者とは、とうてい思えんのだが……」
 「そりゃそうだ。生身のころは、愚の骨頂だと思ってた。露出狂どもが自分の行為を正当化するために、もっともらしい理屈をつけただけだって」
 「なるほど、おまえさんらしい」
 「でも、このからだにされて、とりあえずはふつうの生活に戻ってすぐ、湖や川のほとりをトラックで走っててね、ふと思ったんだ。今、この夏の盛りの日差しや、新緑のかぐわしさ、水の冷たさを、じかに肌で感じてみたい。裸になって、海や湖に飛び込んだり、草の中を転げまわることができたら、どんなに気持ちがいいだろうか……ってね」
 「……」
 「人間ってやつはまったく、強欲だ。いつだって、ないものねだりばかりするんだからな」
 残酷な現実はことばにしないまま、彼は鋼の右手を、ひらひらと振ってほほえんでみせる。だからおれも、その現実には触れずにその手を取り、硬い指先と甲にくちづけを捧げた。
 不自由なことは、いくらもあった。何十年も変わらぬ外見、彼ほどではなくとも、他人の前で不用意にからだを晒すことができない仲間はいる。おれはおれで、なにかの拍子に不定形の化け物に変身してしまうのではないかと、いつも心のどこかで恐れていた。重要な部品は定期的に交換しなければならず、ほんのわずかな体調不良も、死につながるかもしれない。深海でも、宇宙空間でも生きられるとはいえ、結局のところおれたちは人から遠く離れて置き捨てられた、あまりに不確かな存在にすぎないのだ。
 けれども、せめて信じたい。こんなからだでも、われらも森羅万象の一部なのだと。その証拠に、春が来れば花に胸をときめかせ、きらめく夏の陽光に眼をすがめ、過ぎゆく秋を舌で惜しみ、凍てつく冬には手を擦り合わせる。これは科学の力で再現されたまがいものではない、生まれながらの感覚だ。どれほど人から離れようと、まだわれわれが自然の落とし子である、なによりの証ではないか。
 ――だから、きみを愛することができる。
 ほほえみかけると、こちらを見上げる青灰色のひとみが揺れ、彼もほほえむ。無心な笑顔に背中を押されて、ずっと考えていたことを、口にする勇気がわいた。
 「そりゃあここでなら、きみは気兼ねなくからだを晒すことができるだろうが……それで気が済むのかね? ここはくすんだ都会の片隅、自然なんて、感じられんだろう」
 「それは、まあ……」
 「旅に、出ようか」
 そう言うと、彼は大きく眼を見開いて、頭を浮かせた。
 「……グレート?」
 「もちろん、今すぐにじゃない。ヴァカンスの季節が終わって、誰もいなくなったころを狙うのさ。ギリシャのコス島とか、どうだろうか。クレタもいいぞ。大きな島だから、きみが裸になって泳げるような入り江くらい、いくらもある」
 「……」
 「きみのこの手も、おれのからだだって、この地球上にある物質でつくられているんだ。間抜けな露出狂どもと同じように、おれたちも自然の一部であることを、感じにゆかないか。ハネムーンには最高だろう?」
 見る間にひとみがうるみ、彼の右手に、力が籠もる。泣かせたくはなかったので、なだらかな曲線を描く白い腹部に、左手を滑らせた。臍のくぼみをそっと指先でくすぐると、彼は声をあげて笑い、身をよじった。
 「ハネムーン? 今ハネムーンて言ったよな、グレート!」
 「言った言った、ついでに指輪も買おうか?」
 「籍も入れちまおう、そしたらおれも、ファミリー・ネームをごまかさなくていいし」
 「……そうすると、パスポートにも反映されて、イワンにばれるが?」
 一瞬真顔に戻って、彼は沈黙する。少々きまり悪げな笑みを溜めて、さしのべてきた両腕にとらえられ、おれは彼と並んで、窮屈なソファベッドに身を横たえた。
 「……じゃあ、籍を入れるのは我慢する。でも、指輪はほしいな。みんなといるときは、はずさなくちゃいけないけど」
 「それくらいなら、我慢できるだろう?」
 「ああ、我慢するさ。あんたがおれのものだって証を、それ以外のときにいつも見ていられるなら……」
 熱いくちづけを交わしながら、彼は器用に腕をのばし、ソファベッドの背を倒す。したいか、と問うと、したいね、すごく、と耳元に囁き返してきて、思わず背筋がぶるりと震えた。
 「昨晩のあれでは……足りなかったかね?」
 「なに言ってやがる。火をつけたのはあんたじゃないか、グレート。それに……前に言っただろう。あんたとなら、いくらだってできるって」
 鋼の右手が、シャツの裾をまさぐる。剥き出しにしたおれの脇腹にくちびるを押し当て、やんわりと食みながら、彼はおれの腰を跨いだ。
 「どう誘惑してほしい? あんたのお気に召すまま、だ」
 「……アルベルト」
 「今日のおれは、あんただけのラヴ・ドールだ。あんたの望むことなら、どんな恥知らずな、淫らなことだって……」
 目眩がするようなことを囁いて、凄艶にほほえむ。けれども少々、背伸びをしすぎているようだ。まだやわらかいままの果実の先をおれの指がかすめただけで、するどく息を呑んで、へたり込んでしまった。
 「アルベルト……すこし、落ち着け。性急に快楽を求めてばかりじゃあ、つまらんぞ」
 「……ん……」
 「きみはきみのまま、あるがままで、いちばん美しいのだから」
 すこし幼い、いつもの表情に戻った彼の頬が、ゆっくりと、あでやかに上気する。こめかみにそっとくちづけると、甘く鼻を鳴らして、頬を擦り寄せてきた。
 「やさしく、して……グレート」



   了




付記:
 とりあえず、裏じゃなくて表に置きます。ハインが終始素っ裸ですが。笑 そーいや昔、ある湖のほとりのユースホステルで一緒の部屋になったドイツ人の女性カップルは、エフ・カー・カー愛好者だったようです。部屋に入ったら、いきなり素っ裸でたまげました。しかもその晩いたしていた……。私は置物扱いだったようです。ちなみに日本ではなく、中東某国でのことです。
 そのうち、恥知らずなこともしちゃう74を、裏で書きたいものです。



ブラウザの「戻る」で、お戻りください。