No More “I Love You’s”









 「……なあ、まだなのか?」
 「うむ……」
 暇をもてあまし気味の退屈そうな声音に、生返事で応える。ことばを口にする代わりに、十本の指を、タイプライターの上でせわしなく動かした。
 タイピングの音が、小気味よく部屋の中に響いた。その音だけが、湿り気を含まずに、軽快にはねる。振り向かなくとも、彼がソファの上で、いまいましげに眉をひそめたのが分かった。彼もまた、カーテンやテーブルクロス、その辺に転がったままのクッションと同じく、湿気を含んでいるらしい。もっとも、彼を腐らせているものの正体は……湿気ではなく、欲求不満、かもしれないが。
 窓の外に、ちらりと視線を走らせる。朝から続く雨模様で、これでは部屋の掃除も、たまっている洗濯も、片付けられそうにない。買い物に出るのも、億劫だ。とすれば、彼がしたいことはただひとつ。「構ってもらうこと」、それに尽きる。
 せっかくの休日、しかもふた月に一度の逢瀬なのだから、こちらとしても、存分に彼に構ってやりたい。しかし、突然舞い込んだエッセイの仕事の締め切りが、今日の夕方だというのだから、困ったものだ。舞台仲間のつてを頼って、おれを捕まえたという女性編集者は、申し訳ないがそれが最終のデッドラインだと、泣きそうな顔で訴えた。仲間の顔を潰す訳にはゆかないし、それに……あんな泣き顔を、おれの好みのロセッティ風の美女に見せられては、無碍に断っては男がすたる、というものである。
 かくして、我輩は恋人に背を向け、タイプライターに「浮気」している。機嫌をそこねつつある彼を、後でどうやって宥めたらいいか、気にかけながら。何も言い訳はしていないが、聡い彼のことだ、そんな背景はとっくの昔に感づいているに違いない。
 引っ張り出した原稿にざっと目を通し、朱筆を加えながら、おれは背後に声をかけた。
 「退屈で、うんざりするときは、雨だれの音を数えるといいぞ」
 「またそんな、無責任なこと言いやがって……」
 むくりと、寝転がっていたソファの上から、起きあがる気配。床の上に転がっていたクッションを拾い上げ、それに軽く八つ当たりしながら、彼は窓へと歩み寄ってきた。
 口では何を言っていようと、結局のところ、素直にこちらの言うとおりにしてしまうのが、彼の可愛らしいところだ。もっとも、そんなことをにやついて指摘しようものなら、口をへの字に曲げて、そっぽを向かれることだろう。それでも……きっと、紅をひと捌けしたように、白い頬がほんのりと上気しているに違いない。恥じらいと、隠しようのない喜びを滲ませて。
 そっぽを向いたまま、彼は小さく呟くだろうか。言うとおりにするのは、それがあんたのことばだからだ、と。それとも、無理矢理おれに抱きついて、駄々をこね始めるだろうか。無駄な抵抗をこころみる彼の相手をするのも、なかなかに愉しいとおれが思っていることを、彼は知っているか、どうか。
 それとも……。
 果たして、彼が採ったのは、三番目の選択肢だった。
 八つ当たりしていたクッションを、申し訳なさそうに抱きしめる。まるで、それが誰かの代わりであるかのように。そして、熱心に推敲を繰り返しているかに見えるおれの傍らに立ち、そうっと触れてくる、花びらの感触。やわらかく、舞い落ちる羽毛のように、おれの毛のない頭に、無言のうちに愛を示してくれる。
 あんたの、邪魔はしないよ。雨だれを数えて、待っているから。
 そのことばすら、音声にされたものではない。黙って視線を上げると、ふわりと微笑んで、頬を寄せてくる。物足りなさを隠しきれず、すこしばかり項垂れている頭を、ぽんぽんと叩いてやった。
 ソファの上に戻り、ふたたびからだを横たえた気配を感じ取りながら、おれは新しい紙をタイプライターに挟み込んだ。そのまま、脳みその片隅をかすめた思考の尻尾を逃さぬうちに、キイを打つ。胸のうちで、溢れゆく思いが昇華される。すぐ後ろの、手を伸ばせば届くところにいる者に導かれ、支えられ、奔流となってかたちをなしてゆく。
 愛している。ことばに出せば、その告白の重みは、薄れてしまう。ことばにせずに、見交わす目と目で、その思いを伝えられれば。指先が互いに触れていなくとも、ただ傍らに、気配を感じられるほどのところにいるだけで、伝えられれば。エーテル体になって、互いの魂を、そっと包み込む。そうして……愛は、すみずみにゆき渡る。誰かをいとおしむ気持ちが、すべての理の道筋を、つくってゆく。
 もはや、「愛している」などと、陳腐に囁く必要もない。ただ、そこにいれば。
 満ち足りるものなのだ。





 
 時間を忘れて作業に没頭し、ついに最後のピリオドを打ち終わり、盛大な吐息とともに視線を上げる。いつの間にか部屋の中は暮色に満ち、夕陽が雲を茜に染めていた。
 雨がやんだことすら、気がつかなかったようだ。ソファの背もたれの陰からは、雨だれの代わりに安らかな寝息が聞こえる。立ち上がり、覗き込んでみると、彼はクッションを抱えて頬っぺたに押しつけたまま、すやすやと眠り込んでいた。
 無理もない。あまりに長い間待たせすぎたし、雨だれの音など数えていたのでは、眠り込んでしまうのは当然だろう。長い前髪を掻き上げて、白く秀でた額をあらわにしても、気づく様子もない。伏せられた、タンポポの綿毛そっくりな睫も、ぴくりとも動かない。
 素直で可愛らしい、おれの眠り姫。姫君などと呼んだら、彼は怒ってみせるだろう。あんたに恋していても、おれはれっきとした男だと。あんたが一番、よく知っているだろうと、おれの手を掴み上げて、喉仏にあてがってみせるだろうか。
 眠っているのを幸いに、おれはつい、声に出してみた。
 「眠り姫を起こすのに必要なのは、……たったひとつの方法だけだったな」
 静かに、頬を寄せる。目を閉じてしまうのが惜しくて、薄く瞼を開けたまま、おれは彼のくちびるに、そっとくちづけた。
 その途端。タンポポの綿毛が、早変わりの舞台装置のように、ぱっと持ちあがった。
 目にもとまらぬ早業で、おれの背に回った両腕に、渾身の力がこもる。慌てふためくおれを尻目に、すぐそこにある青いまなざしが、ようやっと満足げに微笑んだ。
 「……寝ちまうはずないだろ、ずっと待ってたんだから……」
 しのびやかに、潜り込んでくる熱い舌を、夢中で受け止める。こんなに熱いくせに、眠っていなかったはずはないだろうとは思うが、ことばには出さずにおく。つまらぬ揚げ足取りで、彼の機嫌をそこねるくらいなら、軽口を飲み込んだほうがずっと賢明だ。
 そう、ことばなど、いざとなれば陳腐なものだから。そこにゆきつくまでは必要でも、ゆきついて、その場所のここちよさを知ってしまえば、どんなことばも要らない。ただ、視線だけで、吐息だけで、思いだけで、互いを満たすことができる。
 無言で、抱擁を交わす。瞼を閉じるその瞬間、役目を終えたタイプライターのシルエットが、夕闇にゆっくりと、溶けていった。




   了



(完売したコピー本『Fog and Rain』より、再録。)




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