On the Beach(2)










 
 嵐でも、近づいてきているのだろうか。逆巻く風が、砂と海水を煽る。これではマッチの火など、ひとたまりもなく吹き消されてしまうだろう。
 ため息を漏らしたそのとき、かちりと聞き慣れた音が、傍らで耳を打った。
 「ほら、火。……」
 こんなときでも、決して、おれの手を離そうとしない。幸い、彼のジッポーはよく手入れされていて、雨風をものともせず、ちゃんと役目を果たす。頬を寄せて火を受けると、彼はジッポーをしまい、おれの煙草を火種に、自分の煙草を点した。
 染み入るような微笑みを向けられ、おれも自然と、目を細める。こんなときでも、おれを救おうとしてくれる。救いには程遠くとも、黙っておれの傍にいてくれる。強く、美しく、このうえなくやさしい、おれの守護天使。
 そんな彼を、おれは愛した。こころから。そして、彼もおれを愛してくれた。あいもかわらず飲んだくれ、しじゅう憂鬱に囚われている、陽気な道化の仮面を被った臆病者のおれを、あらんかぎりの愛情と敬意で包んでくれた。それだけで……十分、釣りの来る人生だったのではないか。そう思う。
 ならば何も、彼をみちづれにすることはなかったのだ。戦いから、宿命から逃れたかったのならば、ひとりで逃げればいい。仲間すら、芝居すら捨てて、手の内になにひとつ残るもののないおれが、これからすることはといえば、ただひとつ。そんなみじめな末路の伴をさせることは、なかったというのに。
 風が強いせいだろう、煙草はあっという間に灰になり、燃え尽きようとしている。取るものもとりあえず、部屋をあとにしたのだ。吸殻を入れるものなど、持っているはずもない。やむなく指を緩めると、吸殻は頼りなく足元に落ち、風に煽られ、ころころと渚めがけて、転がっていった。
 砕け散る海水の狭間に、視線が吸い寄せられてゆく。姿を消した吸殻とともに、おれの意識も、海中へと没してゆく。深い深い海の底に沈めば、このからだも、いつかは朽ちるだろうか。戦場に置き棄てられるよりも、土に埋められるよりも早く、この地上から消え去ることが出来るだろうか。分解されても、この身のかけらは、新たな生命を育むことなど出来はしない。後世に何ひとつ残さぬ、あとくされのない、ゆきどまりの存在。赤い血潮が繋ぐ、連環するいのちの営みからは、永久に隔てられてしまった。
 だからもう、他者と関わるのは、やめにしたほうがよいのだ。このまま黙って、消え去るのがいちばんいい。
 ……ふと、頭の上に柔らかな感触をおぼえ、水際から意識を引き戻された。
 降り注ぐ雨に濡れた頭を、彼がハンカチで拭ってくれている。そして、おもむろに首に巻いていたマフラーを解き、ふわりとおれにかけてくれた。
 「あんたの頭、ただでさえ寒々しく見えるから」
 そう言う彼の銀髪も、雨に濡れそぼり、青白いおもてを冷ややかにふちどっている。マフラーを広げ、招き入れると、哀しくなるほどやさしいひとひらの接吻が、頬に降ってきた。
 「……アルベルト」
 いとおしさを篭めて、その名を呼ぶ。たったそれだけのことで、彼は心底嬉しげに、清らかな笑顔を見せてくれる。おれの名を呼び、まなざしで、おれを抱きしめてくれる。
 その笑顔の、あまりの無心さに、胸が潰れそうになった。
 アルベルト、不憫な子。おれと恋したばっかりに、何故おまえまで、すべてを捨てて、こんな。……
 「……すまなかった。……」
 視線を合わせていることすら、傲慢なような気がして、視線を足元に落とした。
 項垂れたおれの頭が、そっと引き寄せられる。マフラーに包まれた空間の中で頬を寄せ、あるかなきかのぬくもりを、分かちあう。
 「謝るなよ。おれは、ちっとも後悔しちゃいない。憐れまれるくらい屈辱的なことはないって、あんたいつも言ってるだろう」
 「……」
 「あんたがゆくのなら、この世の果てまでついてゆく。あんたのいない世に取り残されるくらいならば、一緒に死を選ぶ。最初から、そう決めていたんだ」
 もう、取り残されるのはごめんだから。
 ああ、そうだったなと、喉奥で答えた。ひとりぼっちで取り残されること、それこそが、彼のもっとも恐れる事態だと、おれもよく承知している。
 互いの背を、静かに撫でさすった。いつも、憂鬱に沈み込んだときに、おれたちが互いにしてやれる、唯一のこと。しかし、今は互いのぬくもりも、頼りなく思える。冷たい風雨に晒され、身もこころも、凍てついていた。
 目の前には、灰色の北の海。おれたちを飲み込もうと、沈黙したまま、こちらを窺っている。徐々に波を高く、荒立てて、ひたひたとおれたちの足元へとにじり寄ってくる。
 「……なあ、アルベルト」
 「……ん?」
 「その、おかしなことを、言うようだが……」
 誰もいないはずの海に来て、大勢の観客にじっと見つめられている。そんな気分になることはないか?
 問いかけの意図がつかめなかったのだろう、彼はほんのすこし、眉根を寄せる。それには構わず、おれはことばを継いだ。
 「おれが役者だからなのかもしれない、……いやたぶん、そのせいなんだろうな。確かに、どこにも観客はいないし、いるはずもない。なのに、目の前の海から向けられる、幾千幾万の視線に絡め取られ、がんじがらめにされている。そんな気分に、よくなったのさ」
 言っておくが、アルコールの仕業じゃないぞ。そう釘をさしたおれを、目の端で見やって、彼はくすりと笑う。まるで、街なかを歩きながら世間話でもしているように。
 ほんものの死とは、たぶん日常の片隅に、息を潜めて転がっているのだろう。おれたちが向かうはずだった、ニュースで連日のように流されるあの場所の映像を、思い浮かべる。先ほどまで立ち話をしていた人間が、空から飛んできた銃弾に、胸を貫かれている。突然の爆発に、四肢を粉々に吹き飛ばされている。そんなものだ、死の訪れというものは。
 だから、おれたちもごく自然に、歩いてゆく。無言でこちらを窺う、死に満ちた場所へ。
 「その頃のおれはまだ、酒びたりではなかったし、酔っ払った状態で、海を見に来たことはない。自分で自分を立て直す気力が、その頃は……あったんだ」
 かつて、遠い昔。スポットライトを浴びている最中だというのに、頭の中が真っ白になる瞬間があった。自分の表現したいものが、何なのか……自分がどこに向かっているのか、見えなくなってしまう。セリフも忘れて、その場に棒立ちになってしまう。
 目の前に広がるのは、茫漠とした砂漠か、それとも死んだ魚の群れか。おれの思うところなど分かるはずもない観客たちは、取り残されて、ただ戸惑うばかりだ。実は取り残されているのは彼らではなく、おれだということに、気づくこともなく。
 そりゃ、マネージャーに怒鳴りつけられたさ。お前みたいな根性なしは、金輪際舞台に上げてやらねえぞと、恫喝されたこともあった。楽屋から叩き出されて、酒を飲む金もなく、部屋のベッドに帰る気にもなれん。そんなとき、よく海を見に行ったのさ。……歩いてね。
 ぽつぽつと、語りながら、おれたちは渚へと、ゆっくりと歩みはじめている。彼は抗いもせず、おれを押しとどめようともしない。ただ、染みとおるような相槌をうちながら、おれとともに歩んでいる。もうあと数歩で、海水がつま先に触れるだろう。
 「歩いて? ロンドンからか?」
 「ああ、ロンドンから、何日も歩いて、ね。まだ我輩も、若かったからな」
 どこでもいい、歩いて歩いて、もう一歩も先へ進めないという頃に、ようやく海にたどり着く。それからぼんやり、海をしばらく眺めて、……そうして、思い知るのさ。おのれが、役者以外の何者でもないことを。
 「海はただ沈黙して、冷ややかにおれを見ているだけだ。生身の観客みたいに、野次を飛ばしたり、励ましの拍手を送ってくれたりはしない。だから、ひとりで取り残されていることに、変わりはない。むしろ、完全な孤独よりも、救いの手も差し伸べられずに、注視を浴びていることのほうが、辛いだろう?」
 ……ああ、グレート。最後まで愚かな男だ、お前は。一体何のために、こんなことを喋り続けているのだろう。もう、引き返せない。お前のことばは空回りするのみ、何のちからも持ってはいない。こんな益体もないことを喋るよりも、……もっと大事なことが、あるのではないか? 
 「ひとりぼっちで取り残されることに、いよいよ耐えられなくなったとき……捨ててきた舞台で、演じるはずだった役のセリフが、口から零れ出るんだ。すると、海からの視線はひるんで、一瞬、ほんの一瞬、おれを解放する」
 「……」
 「その隙に乗じて、おれは動き出す。相手役が目の前にいるかのように、身振りを交えて演じてみる。そうすれば、しめたものさ。演じきる頃には、おれは憂鬱の淵から、這い出している。また、明日から生きてゆこうと、演じてゆこうと、そう思えるようになる。おれを見ていてくれる者がいるのであれば、その視線がある限り、……」
 生きてゆこう、と。
 歩みを止めたとき、凪いだ青のまなざしに迎えられた。
 「でも、……今は?」
 「……今か」
 苦く笑って、おれは彼を見やる。既におれたちは、膝まで海水に浸かっていた。
 なにも言わずに、ここまでついてきてくれた、いとしい恋人。彼をみちづれに、お前は本当に、死ぬ気なのか? ここに、お前を見ていてくれる者がいるのではないか?
 「……今は、もう……だめだな」
 そうではない。
 アルベルト、おまえがここにいる。おまえを愛している。そう言ってやらねば、いけないのではないか? だから、今一度、生きてゆこうと。この手がどれほど血塗られようと、罪を重ねようと、この世の果てまでともに生きて、歩いてゆこうと。
 「もう……だめだ。何もかも……」
 愛している。おまえだけを、永遠に。
 そこだけ、雲間から冬の陽がさしたように、彼が微笑み……
 そして、今生で交わす、最後のくちづけを。
 おれたちはしっかりと手を握り合ったまま、また歩みはじめた。ただ、前へ向かって歩を進める足を、腕を、塩の水が濡らしてゆく。打ち寄せるさざなみは、やがて近寄るものを沖へと引きずる、強引な渦へと変わる。
 幾千幾万のまなざしが、おれたちをじっと見ている。今まさに、海の底へと沈んでゆこうとするおれたちを、冷ややかにじっと見ている。安らぎも、救いも、そこにはない。波の音すら、風雨や海水の冷たさすら、死に絶えてしまった。
 あるのはただ、絶望的な沈黙だけだ。
 海面が盛り上がり、迫ってきた高い波が思いもよらぬ力で、おれたちを引きずってゆこうとした。バランスを崩し、次の瞬間、身を刺すような凍る風が、じかに肌を刺した。ふたりで纏っていたマフラーが、風に煽られて飛ばされたのだ。
 あ、と、彼がちいさな叫び声を上げる。捕らえようと、手を伸ばすが、マフラーは強い風に空高く翻った。そして、呆然と見送るおれたちの、数瞬後の運命をなぞるかのように……あっという間に手の届かぬところへ飛ばされ、波間に吸い込まれていった。
 その途端だった。モノクロームの沈黙が、いきなり色と温度を帯びた現実に転じたのは。
 逆巻く風と、波の音が蘇る。あまりの寒さに、背筋にぞくりと電流が走り、おれはその場に棒立ちになった。わずかなぬくもりを頼ろうにも、ずっと取り合っていたはずの手は、今の出来事で解かれてしまっていた。海水に浸された掌に感じるのはただ、骨の髄まで凍らせるような冷たさだけだ。
 「……アルベルト」
 やはり、身動きの取れなくなった彼は、まだマフラーの消えた方向を、見つめている。のろのろと、こちらを振り向いた彼のひとみの中には、これまで見せたことのない、激しい恐怖の色が、ありありと浮かんでいた。
 蒼ざめたくちびるが、ぶるぶると震えはじめる。双眸にうつるおれの姿は、よくは確認できない。けれどもきっと、そっくり同じ表情を浮かべていたに違いない。
 「……グレート!!」
 彼が叫んで、手を差し伸べるのと、おれがその手を取り、きびすを返すのが、ほとんど同時だった。
 もんどりうって、海の中にまろび倒れる。海水をしたたかに飲んで、一瞬、意識が遠くなった。仰のいた互いを何とか助け起こし、無我夢中でもがく。走る。戦いのさなかにも、これほどの苦痛と恐怖を感じることはなかった。すぐそこに見えている浜辺が、……なんと遠いことか。
 我に返ったとき、おれたちは砂まみれになって、四肢を浜の上に投げ出していた。
 荒い呼吸が整うのを待たずに、互いの腕を引き寄せ、狂ったようにくちづけを交わした。そうすることで、互いの乱れた呼吸を、生きている証拠を確かめるように。
 冷えきった互いの手を、必死で擦りあう。……ああ、こんなにもあたたかい。ここに確かに、ぬくもりはあるではないか。互いをあたためるに足りぬなどと、考えていたおれは大馬鹿者だ。欲張りすぎていたのだ、注がれる無償の愛に、甘えきって。
 きつく抱き合うと、確かに互いの心臓は、脈打っていた。生きているのだ。生きて、ここにいるのだ。
 「マフラー……飛ばされちまった」
 「……」
 「あんたからの、贈り物だったのに。気に入ってたのに」
 「……また、新しいのを買いにゆこう」
 生きていさえすれば、何でもできる。
 雨と海水に濡れ、砂にまみれた彼の髪に、そっと指をくぐらせた。あらわれた白い額に、おのれの額をつきあわせる。視界がぼやける一瞬前、彼の両目から、透明な涙が溢れ出すのを、はっきりと見た。
 生きているのだ、おれたちは。生きていなければ、こんなことは叶わない。
 「グレート、あんた……生きてるよな? 大丈夫だよな?」
 「ああ、大丈夫だ。生きている」
 「お願いだから、お願いだから、もう、こんな……」
 馬鹿な真似は、よしてくれ。……おれが、傍にいるから。
 縋りつくように、包み込むようにおれを抱くからだを、しっかりと受け止める。大の男がふたり、嗚咽を隠そうともせずにずぶ濡れのまま抱き合う姿は、どんなにか滑稽だろう。しかし、ここにはおれたちふたりの他、誰もいない。こうなることを予測して、おれはこの場所を、選んだのかもしれない。
 「……約束する、アルベルト。もう、こんなことはしない」
 「ほんとに?」
 「ああ、本当だ。おまえさんがいるのに……死んだりすることは、ないよ」
 怖い思いをさせてしまって……本当に、すまなかった。
 「……よかった」
 涙を堪えようと頬を歪めたまま、彼はおれに微笑みかけた。砂にまみれ、涙と鼻水に汚れた笑顔が、こんなにも美しい。こんなにも、神々しい。
 そっと砂を払い、頬を撫でてやると、彼は泣き笑いのまま照れくさそうに口の端を曲げて、おれの首筋に鼻を擦りつけた。いとおしさに胸が締めつけられ、また涙が、溢れてきた。互いに鼻をすすりながら、すこし笑う。
 「宿を、取ろうか」
 「……うん」
 「こんな格好のままじゃ、ロンドンに帰れないし、それに……」
 「……それに?」
 「出陣前の、壮行会もせにゃならん」
 ふふ、と、彼が笑う。しっかりと抱き合ったまま、よろよろと立ち上がった。
 海にきっぱりと背を向けて、歩き出す。町へ向かって、人の息吹のある方角へ。互いが振り向かぬよう、背に腕を回したが、その必要もあるまい。あいかわらず、冷たい雨と風が頬を打ってはいるが、ここにぬくもりがある。寒ければ遠慮なく、互いのぬくもりを与えあえばよい。
 「ジョーたちには、ちょっと立て込んでいて、出発が遅れたとでも言えばいいさ。それを許してくれないほど、了見の狭い連中ではなかろう」
 「そうだな。あそこは状況もひどいだろうから、しっかり休んでおかないと。出遅れたぶんは、取り戻せるだろう?」
 「請けあうよ。誰あろう、おまえさんが相方だからな」
 「そのくせ舞台じゃ、相方は必要ないのか?」
 「今は、ひとりのほうが、気楽なのさ。自分でテーマを選んで、好きなように動ける」
 「……じゃあ、そのうち相方が、ほしくなることもある?」
 「ま、そのときは、そのときさ。相方の女優がきれいでも、妬かんでくれよ」
 「あんたには妬かないよ。その女優には、カエルになるまじないでも、かけてやる」
 「おいおい、勘弁してくれ!」
 朗らかな笑い声が響く。その声の、笑顔の懐かしさに、また目頭が、じわりと熱くなる。
 戦いから戻ったら、まず劇場のマネージャーに、頭を下げに行こう。赦しを乞うためなら、何だって出来そうだ。また、あの板の上に上ることが出来るのであれば……何だってする。結局のところ、おれは芝居から逃れられはしないのだ。まだ生きているのだと、生き続けてもよいのだと、信じるために。おれは人間なのだと、確かめるために。
 そして、彼がいれば。まだ、おれは生きてゆける。
 ようやく昂ぶりが収まったのか、しばしの沈黙が訪れる。そして、互いのぬくもりに、あまやかな安らぎをおぼえるほどになった頃、……おれの肩に凭れかかり、彼がふたたび、くちびるを開いた。
 「宿の場所、ちょっと我侭を言わせてもらってもいいか?」
 「何なりと」
 「……海の、見えないところに部屋を取ってくれ」
 見つめあい、静かに微笑みあう。かるくくちびるを重ねてから、黙って頷いた。
 「了解」
 今一度、互いをしっかりと、腕の中に抱く。戦いのさなかも、憂鬱の冬の嵐のなかでも、決して離れぬように。
 生きてゆくために。新たな未来へと、ともに時を繋げるために。



   了




2003年12月発行74アンソロ、『Prosit!』に提出。





ブラウザの「戻る」で、お戻りください。