Pedestal










 その夜も、例によって例のごとく、彼と飲んでいた。
 場所は、彼の行きつけのバーのひとつ。自宅にも酒瓶が並んでいて、心和やかに酔えるものの、たまには気分を変えてみるのもいいもんだと、彼は茶目っ気たっぷりに微笑む。たまにはどころか、いつもなんだろう。街のどこかに、愉しく酔っ払える場所を幾つも、いつでも抱えているんだろうと、反論したくなって……なんとか、堪える。何故だかその晩はしきりと、おれが飼っているらしい「やっかみ虫」が、腹の中でぶつぶつと不平を唱えていた。
 仄明るい照明の中から、バーの主人がぬっと姿をあらわす。常連客であり、才気に飛んだお喋りの名手である彼に、無言のうちに敬意を示す。控えめな目礼に、おれの恋人はかるく右手を上げて、気持ちのよい柔らかな笑みを浮かべた。
 「しばらくだね、ファーガス。景気はどうだ?」
 「まあ、ぼちぼちってところですね。それはそうと旦那、今日はお珍しいですな。お連れさんがおいでとは」
 ああ、まあねと彼は語尾を濁した。姿勢の悪いおれの背を、しゃんとしろ、とでも諭すように、ぽんと叩く。ぼんやりと、彼に見とれていたおれは、慌てて姿勢を正し、曲がっていたジャケットの襟を直した。
 「友人だよ。ま、いろいろ世話になっていてね。ハインリヒ、こちらはファーガス。この店のあるじだよ」
 カウンター越しに、かるいお辞儀だけを交換する。はたから見れば、胸を反らした彼がカウンターの傍から一歩も引かず、主人とおれの間に立ちはだかっているのは、いささか奇妙な光景だろう。しかしそれも、おれが握手をしたがらないことへの、さりげない配慮。自分が泥をかぶり、道化になり、懐の内にある者を守る。いつもの彼の、方法だ。
 カウンターではなく、壁際のテーブル席につきながら、おれは問うた。
 「古いつきあいなのか?」
 「いや、そうでもないな。三年くらい前から、通いはじめた。おまえさんを連れてくるのは、はじめてだったかな?」
 「……ああ」
 ふむ、と頷きながら、彼はテーブルの木目を視線でなぞっている。それから、組んだ手の向こうで、擦れた笑みをちらりと片頬に浮かべた。
 安心しろ。
 以前のおれを知っている店は、どこももうとうの昔に、経営者が変わっちまっている。ここでのおれは、あくまで陽気な上客。付け払いなんてケチなことも、しちゃあいないさ。
 「……昔はそりゃあ、たちの悪い泥酔ルンペンだったがね」
 くつくつと笑いながら、運ばれてきたふたつのグラスに、みずから酒を注ぐ。グラスの縁を触れ合わせる瞬間、彼は視線だけで、おれにくちづけてくれた。
 向かい合い、あらためて、目の前の男をしげしげと眺める。仕立てのよい、深緑の三つ揃えに身を包み、胸元のポケットには、出がけにおれが押し込んだ、淡いピンクのチーフ。こんな色合わせを選ぶとは、おまえさんも随分、腕が上がったものだと、彼は褒めてくれた。そっと、耳の後ろの髪を撫でてくれた。筋張っているけれども、たとえようもなく繊細な指先で。
 いい男だ。
 今更ながらに、そう思う。決して美男ではない、年齢よりもやや老けた、幾筋もの皺の刻まれた顔。よく動く大きな眼。皮肉もジョークも、その口から飛び出せば、すべてまろやかな輝きを帯びる。他者にはとてつもなく優しく、おのれには刃のように厳しい、おとなの男。おれが、身を焦がすほどに恋慕い、崇敬する、そのひと。
 あんたのように、なりたいよ。
 あんまりに焦がれすぎて、崇めすぎて、ついおれは、彼に嫉妬する。彼のようになりたいのに、目標とする地点はあまりに遠く、その道のりは険しい。その魅力を、惜しげもなく万人に披露する彼に、彼と接する者全てに、嫉妬する。おれだけのもので、あってほしいのに。掴まえて、抱きしめて、くちづけて、おれだけのものにしていたいのに、彼はするりとおれの縛めを解いて、逃げていってしまう。おれの知らないところで、彼が幾千幾万の人間に魅力を振りまいているかと思うと、嫉妬で狂いそうになる。
 そう、こんな簡単なことですら、出来ないのだ。
 「……こら、どうしたんだ、アルベルト」
 たしなめ気味に、彼の押し殺した声が響く。すっかり酔っ払ったおれは、酒の力に後押しされて、彼の手を握り締めていた。友人同士の握手とは、とうてい見えぬさまで。
 「呼んだな、おれのほんとの名前を」
 たちの悪い笑みを浮かべて、おれはにやにやと彼を見上げる。もっと、その名でおれを呼んでくれ。一歩部屋の外へ出れば、仲間たちの前ですら、呼んではくれぬその名で呼んで。おれを、抱きしめてよ。くちづけてよ。おれを誰よりも愛していると、互いに身もこころも捧げあう仲だと、皆の前で示して見せて。
 「飲みすぎだぞ、どうしたっていうんだ」
 「どうもこうも、しちゃいねえよ。あんたみたいに、なりたいだけだ」
 「……どういう意味だ?」
 「あんたみたいに、飲んだくれたら……あんたみたいに、なれるかな」
 彼の顔が、哀しげに歪むのが見えた。なんてことを言うのだろう、おれは。酒の席での発言にしたって、あんまりに無神経だ。なのに、おれの意思とは無関係に、舌が動く。ひとを傷つけることばを、平気で吐く。おれは……あまりに子どもだ。彼には不釣合いすぎる。
 悲しさと情けなさで、胸が潰れそうだ。あんたが、好きなのに。ただ、それだけなのに。
 空になっていたグラスに、酒を注ぎ足す。ボトルを奪おうとした彼の手を、乱暴に振り払った。その拍子に、彼のグラスが宙に舞い、床の上で無残に砕ける。隣のテーブルの若いカップルが、露骨に嫌な顔をして身を引いた。
 「アルベルト、よせ!」
 「……命令するなよ。子ども扱いは、反吐が出そうだ」
 「おれに絡むのは、別にかまわない。だが、店の物を壊すのは勘弁してくれ」
 「店に出入り禁止になるのが、そんなに怖いか? なら、家から一歩も出られなくしてやろうか」
 そうすれば、あんたはおれと一緒にいてくれる? ずっと、ぎゅっと抱きしめてくれる? その笑顔を、おれだけに見せてくれる?
 「……キスしてくれたら、おとなしくしてやる」
 「何だって?」
 ぎょっとした顔で、彼が凍りつく。それを尻目に、おれはありったけの酒を、一気に呷った。
 「ああ、こら、よせ!」
 慌てて伸びてくる手を、ぐいと掴んで、引き寄せる。飲み下した酒の熱さを注ぎ込むかのように、おれは彼の顎を乱暴に捕らえて、くちづけていた。







 
 気がついたとき、おれは道端にだらしなく、四つん這いになっていた。
 背中を、静かに擦る手の感触。食道の辺りが、引き攣れるように痛い。かすむ目をこすると、地べたには饐えた悪臭を撒き散らす吐瀉物が、塵にまみれていた。
 うしろめたくて、彼の目を見られない。俯いたまま、なんとか口を開く。彼の視線が、じっとこちらに注がれているのを、痛いほどに感じながら。
 「……店の勘定は?」
 「気にするな。だが、もうあそこには行けないな。カマ堀り野郎は地獄に堕ちやがれ、だとさ」
 「……すまない……」
 それだけ言うのが、やっとだった。あまりの情けなさに、この場から、この世から、消えてしまいたくなった。
 泣き出してしまうおれを、彼はそっと、抱きしめてくれる。いつもしてくれるように、髪を撫でてくれる。背中を撫でてくれる。そんな彼のやさしさに、おれはいつだって、甘えきっている。迷惑ばかりかけて、彼の足を引っ張っている。やっぱり、おれは彼にそぐわないのか。身の程知らずの恋に、ひとりで踊り狂っているだけなのだろうか。
 「グレート……」
 「何だ」
 「おれのこと、嫌にならないか?」
 嫌になったら、いっそのこと、棄ててくれ。あんたに重荷を負わせるおれは、大馬鹿野郎だ。あんたに恋する資格なんて、最初からなかったんだ。
 また、哀しげに目が曇る。彼にこんな目をさせるなんて、やっぱりおれは、どうしようもない愚か者だ。もう、死んでしまいたい。彼を悲しませるくらいなら、彼を愛する資格もないなら、死んでしまったほうが、どれほどましか。
 そのとき、頭を撫でてくれていた手が顎にかかり、ぐいと上に持ち上げられた。
 「アルベルト……忘れてはいないか? 大事なことを」
 おまえさんは、いつだって、いい子だよ。身もこころも、ほんとうにきれいな、いい子だよ。そんなおまえさんに、おれが……心底虜になっている、ということを。
 ぼんやりとした目のままで、おれは彼を見つめる。反応が鈍かったせいなのか、彼はかるく咳払いをして、今度は恭しくおれの右手を取って、跪いてみせた。
 「子ども扱いが、お気に召さぬと仰せならば、このように」
 そっと、彼のくちびるが、手の甲に押し当てられる。温かくてくすぐったい、忘れがたい愛のしるし。ぺたりと座り込んだままの、反吐を口の端から垂らしたままのおれに、まるで貴婦人に対するような礼を尽くして、彼は頭を垂れた。
 「グレート、ぼくのこと、……愛してる?」
 「そなたが、我輩にまだ情けをかけると仰せならば」
 頭を垂れながらも、その肩は小刻みに上下している。どうやら、笑いを堪えているらしい。
 おかしくなって、おれは思わず、小さく吹き出してしまった。ちらりと、薄い眉の下からおれを見やる彼の目も、笑っている。
 「そんなの、ずるいぞ。言わせるつもりか? 今晩さんざん、態度で示したのに……」
 「おや、無作法に振舞えば、思いが伝わるとは、限りませぬぞ」
 おどけてはいても、こちらが取り乱していても、釘を刺すのは決して忘れない。彼らしいやり方に、頬が緩む。
 「すまない、グレート。もっとおれも、おとなになるよ」
 「いや、おまえさんは、そのままでいいのさ。それに、一朝一夕で人間、変われるもんじゃあない」
 「でも、努力する」
 だから……キスして。
 困ったように微笑みながらも、彼のくちびるが、近づいてくる。反吐のこびりついた口の端を、そっと拭ってくれる。
 「……癩者へのくちづけ?」
 「敬愛の証し、だよ」
 しっとりと、包まれる感触に陶然となる。耳元で、溜息のように囁かれた殺し文句に、からだが芯からじんわりと痺れた。




  了







ブラウザの「戻る」で、お戻りください。