Tea Leaf Prophecy













 呼び出し音が途切れ、彼の名を呼ぼうとしたそのとき、聞こえてきたのは思いもよらぬ声。一瞬どうしてよいのかわからず、受話器を耳に当てたまま固まってしまった。
 「もしもし? どちらさま?」
 「……フランソワーズ?」
 「あら、もしかしてハインリヒ? おひさしぶり! 元気にしてた?」
 ああ、まあと生返事を返しながら、壁のカレンダーを慌てて確認した。ここ数日の職場での混乱のせいで、すっかり忘れていた。彼のところには昨日から、フランソワーズとジョーが遊びに来ているのだ。
 「でも、昨日の午後から長距離に出てるんじゃなかったの? グレートから、そう聞いたけど」
 「東欧の大雨で、道路が封鎖されちまってな。急遽休みになったんだ。代わりに明日からイタリアだ」
 「あー、それじゃあやっぱりこっちには来られないわね。せっかくグレートに、コッツウォルズを案内してもらうのに、残念!」
 コッツウォルズなら、もう幾度彼と訪れたことだろう。ガイドの真似事ができるほどに、知り尽くしている。今回、彼らと同行できないのは、むしろ幸運かもしれない。どこかを訪れて、そこでかつて彼に囁かれたことばや、コテージで過ごした夜のことを思い出して、勝手に挙動不審になっている姿を見られてはかなわない。
 ジョーと話す? と訊かれて返事をする前に、受話器から聞こえる声が変わった。気を引き締めながら適当に近況を話し、すでに知っている彼らの予定を聞くうちに、やはりのけ者にされたような気持ちがわいてきてしまう。自分の身勝手さ加減に舌打ちしたい気分で、乱れた心をなだめるために必死にメモ用紙に格子を描き、市松模様に塗りつぶした。
 「……で、グレートに用事なんだろう?」
 「ああ、まあ……そうだ」
 「ちょうどキッチンから戻ってきたから、替わるよ。グレート、ハインリヒから!」
 彼の名前が出るたびに、心臓が跳ね上がる。ずっと前から、仲間たちが口にする彼の名に耳をそばだてがちではあったが、今日はとりわけひどい。つい十日ほど前、肌も融けあうような二晩をともに過ごしたというのに、朝っぱらからまた甘えようという魂胆がよくなかったのか。
 「どうした、ハインリヒ?」
 さびのある、彼の声に胸の奥が甘く疼く。けれども同時に、落胆せずにいられなかった。やっぱりその名で呼ぶのか。市松模様の上にぐじゃぐじゃと線を描きなぐって、ぼくは必要もないのに、声を押し殺した。
 「まずいんだ、紅茶が」
 「え?」
 「だから、まずいんだよ、紅茶が! あんたが教えてくれたとおりに淹れたのに」
 電話の横に置いたマグカップに視線を落とすと、表面には薄く、膜が張りはじめていた。ひと口啜ったが、やはりまずい。味にまるみがなくて、ロンドンで彼が淹れてくれるときとは、まるで違う飲み物のようだ。
 ふむ、と彼が唸った。ふたりきりのときとは、声の調子が違う。これは仲間たちと一緒のときの、お気楽な道化の仮面をかぶった声。そしてぼくは、この声でべらべらと引用だらけの長広舌をふるわれるのが、あまり好きではない。
 「お湯はちゃんと沸騰させたか? おまえさんは短気だから、まさか生煮えのお湯で淹れたんじゃなかろうなあ? 茶葉を入れすぎたってことはないか?」
 「ない。ちゃんと全部、あんたの言うとおりにした」
 「ブラウン・ベティちゃんを使っておるか?」
 「あたりまえだ。この前割れないように持って帰るのに、苦労したんだぞ」
 「うまい紅茶を淹れるには、ブラウン・ベティちゃんのご機嫌を損ねんようにすることが肝要であるぞ。きちんとあたためたか? ティー・コゼも着せておるかね? 淑女を気遣うのが紳士のつとめ、おまえさんはそのあたりがい・さ・さ・か・心許ないが……」
 「だから、全部あんたのやってるようにしたって言ってるだろう!」
 焦れてつい、声が大きくなる。一瞬の沈黙の後、すまない、というか細い声が聞こえてきて、ますます自分に舌打ちしたい気分になった。 
 ふたりきりのときは、彼もぼくも、ほかの仲間には決して見せない顔になる。けれども今は、彼のすぐそばにフランソワーズとジョーがいるのだ。なのに思慮深く、ときに沈痛ですらある彼の本当の声を聴きたいだなんて、わがままもいいところである。その上彼に気を遣わせるなんて、最低だ。
 ――あんたの言うとおりだ、グレート。
 呆れるほど、ぼくは子どもだ。いつも身勝手に彼を振り回し、困らせてばかりいる。昔はそのことに気付く余裕もなかったが、今はさすがに、彼の気持ちくらいは汲み取れる。
 ふむ、ともう一度、彼が唸った。続いて、鼓膜に低く、ほとんど囁くように響いてきた彼の声に、ぼくは思わず、背筋を伸ばした。
 「奇妙だな。こっちとそっちで、それほど水質が変わるとは思えんし……“アルベルト”、おまえさん、茶葉はなにを使った?」
 「……アールグレイ」
 「この前持って帰ったあれか。あれはキームンだから、もしかしたら軟水のほうが合うのかもしれんが……ミルクを入れても、飲めんかね?」
 「ミルクは入れてない。ストレートで飲みたかったんだ」
 「そうか。それにしても妙だな」
 おしゃべりに夢中な若いふたりの声が、とぎれとぎれに聞こえる。突然トーンの変わった彼の喋りに、彼らが気付いている様子はない。ぼくは受話器を、耳にきつく押し当てた。彼の息遣いのわずかな気配すら、逃したくはなかった。
 息を詰めたのが、たぶん伝わったのだろう。680マイル先の海の向こうで、彼がほほえむのが、はっきりとわかった。いつもならこまやかな指先で、ぼくの髪を優雅に梳いて、撫でてくれる。そのとき髪の先から胸の奥に、じかに伝わるここちよさを再生しながら、ぼくはときめいて小さなため息をつく。
 「次に会うときに、吾輩がとびきりおいしい紅茶を淹れてしんぜよう。それでいいかね?」
 「……ん」
 「今日の紅茶は、とりあえずミルクを入れてみたまえ。それでもだめならラム酒も。次に淹れるときは、もうちょっと長くお湯を沸騰させたほうが、いいかもしれない」
 「……わかった。そうしてみる」
 じゃあ、と電話を切りかけた彼の名を、慌てて呼んで引き戻した。稚拙なわがままをここまで許してくれるのならば、これも受け容れてくれるだろうか。
 「Je t'aime...mon coeur」
 一瞬の間ののちに、またやわらかなほほえみの気配。今回は微苦笑が混じる。承知の上だ。呆れられているのは、とうの昔に知っている。
 けれども、構わない。そのひとことが今、恋人のくちびるからこぼれるのを、聴くことが叶うのであれば。
 「Moi aussi...Je t'aime, mon chéri」
 彼が電話を切り、聞こえてくるのがトーンの音だけになっても、しばらく受話器を握りしめたままでいた。
 彼もぼくも、互いの言語よりフランス語のほうが得意だ。英語で会話していても、途中からフランス語になることは、めずらしくはなかった。もちろん仲間の前、ことにフランソワーズとピュンマの前でそうすることはできるだけ避けてはいたけれども、今日は聴きたかったのだ。彼があのとびきり美しい発音のフランス語で、いつもと変わらず、ぼくに愛を囁いてくれるのを。
 ――ばれただろうなあ、フランソワーズには。
 もっとも、彼女がジョーとのおしゃべりにばかり気を取られていなければ、の話だが。……彼女がぼく以上に、恋人に夢中であることを祈ってほくそえむ。いい気になって彼の忠告も忘れ、つい紅茶を飲み干してしまった。
 「くそ、なんてまずいんだ、まったく……!」
 マグの底に残った茶葉のかけらを、思わず口を曲げて睨みつけた。今朝の紅茶がまずい理由を、紅茶占い師ならどう読み解くだろう。ぼくの見立てはこうだ。
 「決まってるだろう。あんたがここにいない、だからこんなにまずいんだ」
 若い恋人たちの仲睦まじさを、あてられてかなわないとちゃかす資格は、どうやら今のぼくにはないのかもしれない。



   了




付記:
 74では欠かせないネタ、紅茶の話です。グレートさんに影響されて、ベルリンの自宅でも紅茶を淹れるようになったものの、グレートさんほど上手くは淹れられなくて落胆するハインというのは前から妄想していたのですが、ちょうどそこに「Hideaway」のみの字さまから、「紅茶が美味しいんじゃなくて、グレートさんが淹れたから美味しいって気づけばいい」というコメントを私信でいただきまして。なので、この作品は勝手ながら、みの字さまに献呈させていただきます。紅茶ネタは、地味に続く予定。
 紅茶を飲まれる方ならご存じと思いますが、「ブラウン・ベティ」は、かの国産の茶色い丸形ティーポットです。なんの変哲もない、素朴な陶器のポットで、私も持っていますが、確かに美味しい紅茶が淹れられます。いつもはWittardとかDilmahの紅茶を飲んでましたが、最近中之島でDallmayrの茶葉を買ってきました。英国産のティーポットで、ドイツブレンドの茶葉。74紅茶という訳です。笑



ブラウザの「戻る」で、お戻りください。