Rain Dogs









 「……アルベルト」
 「……ん?」
 「困ったことになった」
 「何が……? これ以上、困ったことになりようがあるのか、おれたち」
 いやいや、この程度ならまだ序の口だと言いかけて、口をつぐんだ。ほんもののどん底は、こんなものじゃない。まあ、確かに……鼻の曲がりそうな悪臭がいつまでも纏わりついてくるのは、気持ちいいものじゃないが。
 足元が危なっかしい。けつまずきそうになった彼をやっとのことで支えたが、重みに引っ張られて危なく共倒れになるところだった。道の脇には濁った狭い水路、もう一度、さっきと同じ目に遭うのだけは御免蒙りたい。
 今晩は、彼も相当に酔いが回っている。珍しいことに、おれより酔っ払っているようだ。こういうときこそ、おれがしっかりしなければ……とは思うのだが、いや、それにしても……よりによって、こんなときに、こんな失態を演じることになろうとは。
 黙っているわけにはゆかないので、おれはとうとう、白状した。
 「財布、落としたらしい」
 「……何だって」
 呂律こそしっかりしているが、どこか気の抜けた声。おれを見る目も、敵と対峙するときの凄みどころか、いつもの涼やかさもどこへやら、とろんと霞がかかっている。そのまなざしは、どこか閨で熱に浮かされているさまにも似て……と、いかんいかん。こんなときに、何を考えているんだ、我輩は。
 とにかく彼にはもはや、事態をどうにかしようという気力はないようだ。いつもほどではないものの、おれもぼんやりしていることに変わりはない。それもそのはず、我々は泥酔している上に、頭からつま先まで汚水まみれなのだ。財布を落としたのもどうやら先刻、世にも華麗な弧を描いてドブに転落したときのことらしい。まったくあの瞬間ときたら、観客がいなかったのが、惜しいくらいだ。
 「あんた……こんなときにも冗談言えるとは、……さすがだなあ。酔っ払いにも、年季が入ってる」
 汚水をかぶっても銀色の輝きを失わない髪を、ぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、彼が言う。その髪に、枯葉の切れっ端がぺたりと張り付いている。指を伸ばして、それを取り除いてやると、照れくさそうにへへ、と笑った。
 酔っ払ってドブにはまるという惨状を経ても、彼は不思議なくらいに絵になっていた。まったく、同じ酔っ払いでもこうも見てくれが違うとは、やはり品格の差がなせる業なのだろう。今このとき、そんな美しい男を恋人に持つことを、誇るべきなのか、それともわが身のみっともなさを恥じるべきなのか。
 鏡に映すまでもなくしょぼくれた肩を落として、おれは長い溜息をついた。
 「……すまんが、いくらおれでも、こんなときに冗談を言えるほど、余裕のある生き方はしてないものでな」
 「……」
 しばしの沈黙。しかし双方とも、足だけは覚束ない調子ながら、歩み続けている。どこへ向かっているのだろうという、至極まっとうな疑問が、このときになってようやくおれの頭に浮かんできた。
 先ほどの酒場の支払いは、お遊びで我々がよくやる賭けの負けがこんでいた彼が持って、その結果所持金は限りなくゼロに近いはずだ。あとは、クレジットカードだが……こんな夜更け、しかもこんな異国の田舎町で、クレジットカードを受け付ける場所があるかなど、考えるまでもない。
 まったく、出来心とはいえ、ふたりきりで初めて旅に出てこのざまとは、我ながらあきれ返る。せめて、ここがロンドンか、ベルリンだったら、何とかなろうものを……。
 もうひとつ、おれが長い溜息をつくと、組んだ右肩の少し上から、くつくつと笑う声が降ってきた。
 「どうした……酔いが回りすぎて、いかれちまったか。おまえさんは、笑い上戸というより、どっちかっていうと泣き上戸だったんじゃないのか?」
 彼の方へ首を曲げようとしたそのとき、右の手がずいと伸びてきて、おれの首根っこを掴んで乱暴に引き寄せた。奇妙な抱擁のかたちが出来上がり、慌てふためいたおれの毛のない頭に、くすぐったい感触が幾度も触れる。
 「こら、何やってんだ、こんなときに」
 「あんたのその格好、凄くいい。惚れ直しちまう」
 「……おまえさん、目までいかれたか?」
 「人がせっかく誉めてんのに、素直に喜んだらどうだ? 酔っ払って、ドブに落っこちたよれよれの姿が素敵な男なんて、そういないだろ。グレート、あんた、ほんとに……いい男だ」
 禿頭に降る、キスの雨。とろんとした目元をほんのり染めてむしゃぶりついてくるさまはひどく可愛くて、思わず頬が緩んでしまうが、こいつはかなりまずい。外ではスキンシップを我慢する彼だというのに、すっかりタガが外れてしまっている。幸い、通りに我々以外の人影はないが……ここで抱いてくれ、なんて叫ばれたら、一大事だ。
 頬っぺたを擦り付け、尚もくちびるを押し付けようとする彼を、やっとのことで取り押さえた。不満そうにくちびるを尖らせた表情が、これまたおそろしく可愛らしい。
 泥のついたくちびるを軽く拭ってやると、その指先にやんわりと噛み付かれた。
 「ドブの味がしないか?」
 「……する」
 「だろう? 続きは宿に帰って、シャワーを浴びてからだ」
 「でも、どうやって帰るつもりさ。金がないなら、タクシーも拾えないし、第一ここがどこだか、あんた分かってるのか?」
 「……」
 それはまあ、確かだ。おまけに、どうやら我々は宿のある町の中心部とは反対の方向に、ずいぶん歩いてきてしまったらしい。街灯はまばらだし、何より行き交う車すらないっていうのは……一体どうしたことか。それに、宿の名前は……何だったか……。
 すっかり酔っているのか、それとも冷静な部分が残っているのか。おれの狼狽を愉しむように、にやりと笑った彼の顔が、近づいてくる。そして、思いのほかやさしく、頬にくちびるが押し当てられた。
 「金なんて、なくたっていいさ。屋根も要らない。あんたが傍にいれば」
 「……」
 「今晩は、このままその辺で、転がって過ごさないか?」
 「おまえさんに、野宿の趣味があるとは初耳だが……」
 「誰かさんの影響かもな。あんたは慣れてるだろ? 公園のベンチの上とか、ゴミ箱の陰とか」
 くすくす笑う声。言われて、ぐうの音も出ない。
 「あんたのしてきたこと、おれも知りたいから」
 そのまま、仰向けに倒れる彼に引っ張られて、おれも地面に倒れこんだ。どこも酷くぶつけることなく、地面に横たわることが出来たのは、引力のなすがまま、ぐにゃりと倒れたせいか……それとも彼が、抱きとめてくれたせいか。
 あんたがしてきたように、これから生きていけば、あんたみたいにおれもなれるかな。
 吐息とともにつぶやいた彼の頭に手を伸ばし、髪を撫でてやる。……ろくな生きかたじゃないぞ。おまえさんは、おまえさんの生き方をするべきだ。そのままで、おまえさんは充分、魅力的なんだから。
 返事の代わりに、そっと寄せられる頬。仔犬のように、鼻を擦り付けてくる。甘えかかるときに見せてくれる、そんな幼い仕草がたまらなくいとおしい。
 いつの間にやら、小糠雨が降りだしていた。頬に降りかかる、絹糸のような感触がやさしい。
 「きもちいい……シャワー浴びる必要、なくなったな」
 コートの合わせ目から、するりと彼の指が滑り込んでくる。そして、雨と同じくらいやさしく、おれの胸を撫でた。
 



   了





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