On a Rainy Day...









 目覚めたとき、隣にいるはずの彼の姿は、そこにはなかった。
 昨日の晩は、互いの背中に手を回し、やさしく撫でながら、おやすみのキスを交わした。長旅の疲れも手伝って、彼がおれの腕の中で、安らかな寝息をたてはじめるまでに、そう時間はかからなかった。柔らかな銀糸の髪を撫で、伏せられた、タンポポの綿毛のような彼の長い睫を眺めながら、おれもいつしか、深い眠りに落ちていったものだ。
 ふと、視線を泳がせて、サイドボードの上にメモが置いてあるのに気がつく。取り上げてみると、彼の整然とした筆跡で、ちょっと散歩に行ってくる、と書かれてあった。
 どこといって、変わった様子は見られない。今までも、こんなことはあった。なのに、今日に限ってこんなに不安になるのは何故なのか。彼がいないというだけで、何故こんなに心が乱れるのだろう。
 ベッドからむくりと起き上がると、おれは手早く外出の用意をして、壁のコートを手にとった。窓の外を見やると、細かな霧雨が降っているようだ。トランクの中に傘も入ってはいるが、この雨では、あまり役に立つまい。差して歩いたところで、すべてのものがじきに湿気を吸い、じっとりと重たくなる。
 こんな天気の中、どこへ行ったのだろうと考えるまでもない。海だ。ここへ、おれたちは海を見に来たのだから。この憂鬱な、灰色の季節に。






 季節はずれの海を見に来る酔狂な観光客など、他にいないのだろう。ただでさえ、あまり人の来そうにない場所を選んだのだ。海に至る道も、朝だというのに閑散としていて、この町が世間から取り残された場所だということを、思い知らされる。
 浜辺はただただ広く、塩分を含んだ水のほかには、何もない。鉛色の冬の海が、やや荒っぽく浜辺に打ち寄せ、白い泡になって砕けてゆく。無数の生命を、そのなかに宿したまま。
 それにしても、一体何故、こんな季節に海を見たいなどと言い出したのだろう。せっかくの休暇を過ごすのならば、冬でも青く、みずみずしい地中海に行った方が、いくらか気分も紛れるのではないか。そう提案したおれに、彼は首を横に振った。
 いっそのこと、いかにも荒々しい、冬の冷たい海を見たい。そのほうが、おれたちには似合いだ、と。
 そのことばに、どうした訳か、おれは言い知れぬ不安をかきたてられた。まるで、彼が風に溶けて、消えてしまうのではないかと恐れた、あのときのように。
 「まさかな……」
 目の前にだだっ広く拡がる、鉛色の海を眺めながら、自分を宥めるように、つぶやいてみる。しかし、不安はテーブルクロスの上に零れたワインの染みのように、じわじわとおれの内面を侵食する。無視できなくなる。叫びたくなる。
 「どこへ行った……アルベルト!!」
 理性が働くよりも先に、おれは駆け出していた。






 時折、おれは自分たちがサイボーグであるという事実を、忘れている瞬間がある。例えば、今この瞬間が、そうだった。
 さんざん海中での戦闘も経験してきたし、何より彼が、おのれの宿命を一時ですら、忘れるはずがない。なのに、そのときおれを支配していた思いは、ただひとつだった。急がなければ、彼が消えてしまう。永遠に、手の届かないところへ行ってしまう。一刻も早く、見つけなければ、取り返しのつかないことになる。……
 恐ろしかった。絶望的だった。砂に脚を取られて、もんどりうって倒れる。吐き気を覚えるのは、胸を強打したためだけではあるまい。頭の中で繰りかえし、叫ぶ声が聞こえる。早く、早く、早く、早く。彼を見つけなければ、おまえの未来はない……!!
 彼のいない世界で、一体どうやって生きてゆけというのだ。何故、おれを置いてゆく。時の楔から解き放たれたいというのなら、おれも一緒に連れて行ってくれ。仮にもおまえは、死神と呼ばれる男だ。おれの命のひとつやふたつ、道連れにしてもよかろう?
 砂浜を無茶苦茶に走り回っているうちに、おれはふと、前方に何かが打ち捨てられているのに、気がついた。
 その色に見覚えがあり、夢中で走り寄る。腐食した舟杭に引っ掛けられていたのは、あきらかに彼が着ていたコートだった。
 はやる気持ちを抑えられず、周囲に視線を走らせる。と、波間に何かが浮かび、そして、消えた。
 息を殺して、それが消えた辺りを凝視する。すると、またしばらくして、同じものが少し離れた辺りに、すいと姿を現した。
 考えるよりも先に、からだが動いていた。
 「アルベルト!!」
 叫びながら、コートを脱ぎ捨て、躊躇うことなくおれは海の中に、身を投じた。波間に見え隠れする、彼の姿に向かって、夢中で突進する。けれども、水の力に遮られ、思うように脚が動かない。まるで世の中のすべてが、彼のもとへと行こうとするおれを、妨げるように。
 一瞬が、永遠に思える。彼の傍へたどり着けるまでに、力尽きてしまいそうだ。
 波に脚を取られて、おれはぶざまにひっくり返った。大きく泳いだ腕を、確かな力がしっかりと捕らえる。波が去った後、目の前にあったのは、まぎれもない彼の姿だった。

 「グレート」
 「……」
 「……あんた、泣いてるのか?」
 片手で目を覆いながら、おれは無言で頷く。涙が流れていたのは、砂浜を走っていたときからだ。いつも、彼のことを泣き虫だとからかう割には、おれは涙の本質について、理解していなかったとみえる。自分の意志とは関係なく、壊れた蛇口から溢れる水のように、涙が流れることもあり得るのだ。
 やっとのことで、おれは問いを絞り出した。
 「……何、してたんだ」
 「なんとなく、泳ぎたくなっただけさ」
 馬鹿だよな、おれも。服着たまま飛び込んじまった。寒くて仕方がないや。……
 馬鹿な奴だ。口ではそう返しながらも、まだ、涙が止まらない。彼が、おれの傍にいることに。無事に、腕の中に戻って来てくれたことに。
 ……すまない。あんたに、心配かけちまったな。
 濡れた両腕が、そっとおれを掻き抱く。潮の味のするやわらかなくちびるが、おれの口を封じ、とめどなく流れ落ちる涙を拭った。いつも、腕の中で泣く彼に、おれがしてやるように。
 本当に甘えているのは、おれの方なのかもしれない。くちづけを求める彼、縋りつく彼、腕の中で、双眸を涙にうるませる彼のぬくもりに、支えられているのはおれの方だ。彼がいなくては、もう一瞬たりとも生きていられない。甘えているのは、おれの方だ。
 「大丈夫。おれは、どこへも行かない。ここにいるから」
 彼の敏さを、こんなとき、有難く思う。何も言わずとも、彼には伝わっている。おれはもう一度、無言で、頷いた。
 打ち寄せる波に膝を洗わせたまま、海水と雨に、じっとりと濡れたからだを抱く。返された抱擁の力強さに、おれは心底、安堵していた。










ブラウザの「戻る」で、お戻りください。