Pour Ne Pas Vivre Seul













 今年のロンドンの桜は、いつもよりすこし遅いようだね。街を歩けばそんな声が幾度も耳をかすめたが、咲き始めたらなんのことはない。街路のあちこちがあっという間に春の色に染まり、気温もぐんぐん上がりはじめた。目移りしているうちに、季節はうつろってゆく。桜が終われば、この国の人びとが待ち望むのは薔薇だ。
 ――ちょうどきみが来るころに、見ごろになるかな。
 今宵のステージを終え、楽屋に戻ってみると、携帯電話にメッセージが入っていた。六月の中旬に五日間、ロンドンに滞在できそうだという。てみじかに返事を送り、ティー・バグの紅茶でひと息いれながら、おれは携帯電話の写真のフォルダの中から、前回の滞在の最後に彼が空港で撮った写真を出してみた。
 アーモンドよりも、桜よりも先に、おれの許に春を運んできた彼。溢れる想いと、控えめで愛らしいわがままをこめて、しつこくない程度に便りをよこしてくる彼。ぶれてぼやけた写真の中でほころぶ、薄いくちびるをそっと撫でた。その甘さとやわらかさをまざまざと思い出し、こちらも頬が緩む。
 わが薔薇と薔薇を観るには、どこがいいだろう。王立薔薇園の庭園もみごとだが、どうせならコッツウォルズまで足をのばして、コートン・コートなんてどうだろうか。ストラトフォード・アポン・エイヴォンに連れていったときに訪れたことがあるが、薔薇の季節は知らないはずだ。
 ――もう長らく、過ぎゆく四季を見送るだけの人生だとばかり思っていたのに。
 花も木々も、すべてが色鮮やかに、輝いてみえる。これが恋の高揚。独りではなく、愛する者と、まわりのすべての者とともに、生きているという実感。ふたたびそれを手にすることができようとは。……
 と、背後から声がした。
 「ほーんと、去年までとは別人みたい。幸せそうににこにこしちゃって」
 「ああまあ、そうだなあ」
 「あなたもよ、グレアム。いくらかわいいからって、年下の恋人の写真に脂下がりきった顔で見とれちゃって、いい年こいてまあ、妬けるったらありゃしない」
 「いやはやまったく……って、え、ええええええ、おい!」
 素っ頓狂な声を上げて振り向いたおれを、にやにや眺めていたのはテレーズ、このシアター・クラブでのおれの相棒である。最晩年のジャン=ルイ・バローからマイムを学んだ、筋金入りの舞台女優で、アドリブのセンスがずば抜けていい。週末に彼女と演る風刺寸劇は、いまやシアターの名物になっていた。
 あたふたするおれを後目に、彼女はおれの手元を大胆に覗き込んだ。勝手に画面を操作して、彼から送られてきた写真を見ている。例の空港で撮った写真はどれもぶれているが、うまい具合に紗がかかったようにみえて、彼の気品ある顔貌に古風な彩りを添えていた。
 「なんてきれいなの。まるでラファエル前派の絵から、抜け出てきたみたい。ドレスアップさせる甲斐もあるわね。洒落者のあなたとなら、釣り合いも取れるしお似合いよ」
 「なに言ってんだテレーズ、彼とおれは、そんな……」
 「とぼけちゃってまあ、これだから不良中年はたちが悪い」
 「不良中年はお互いさまだろう。それともなにかね、君は決定的な証拠でも握ってるってのか?」
 「まあ、そんなところかしら」
 ゴージャスなブルネットの巻き毛を指先でくるくるともてあそびながら、彼女は笑う。今は亡きフレンチ・ポップスのスーパースター、ダリダに似た凄みのある美女のくせに、中東系特有の高く張った鼻筋に皺が寄ると、かわいらしくすらある。そういえば、ダリダもエジプト出身だったか。
 「相談を受けたのよ、彼に。去年会ったとき」
 「去年? 彼は去年、ロンドンに来ていないと思うが」
 「あなたが気がつかなかっただけ。去年の三月だったかしら? あなたに頼まれて、私が客席から新しいネタの反応を確かめたことがあったでしょ。あのとき、こっそり来てたのよ、彼」
 「……なんだって」
 そういえば、とおれも記憶をたぐる。去年の三月、確かに彼が遊びに来る予定があった。直前に電話があって、ルート変更でイギリスには行かないことになったと言わなかったか。思えばそれが、一年に渡る彼の“不在”のはじまりで、おれたちの関係が大きく変化するきっかけになったのだ。
 「来てたのか、あのとき……」
 「立ち見席に紛れて、隠れてたわ。声をかけたら、びっくりしてた。真っ先に懇願されたわ。あなたには、絶対に内緒にしてほしいって」
 「で、今まで黙ってたのか。律儀だね、君も」
 「口の堅さは折り紙付きよ。伊達に、世界最悪の独裁国家のひとつに生まれ育った訳じゃないもの」
 ふふ、と含み笑う。一瞬、みどりの瞳の奥に底なしの翳がさし、おれはどきりとしたが、次の瞬間にはもう跡形もなく消えていた。
 巻き毛をいじりながら、テレーズは狡猾な笑みを頬に溜めて、ウィンクした。なんだか身に覚えのある表情だ。そう、おれたちはどこか似ている。長年相棒を続けているからというだけではなく、もとから似ていたから、互いに引きつけあったのかもしれない。
 「続きが聞きたいなら、一杯おごってくれなくちゃ。ここ数週間ご無沙汰だったから、もう禁断症状寸前」
 「やれやれ。角のパブでいいかね?」
 これでは人質を取られているようなものである。大袈裟に肩を竦めたおれに、彼女は喉を反らし、愉快そうに笑ってみせた。






 彼女、テレーズ・ダクワルについて、おれが知っているのはわずかなことのみだ。
 年は四十代なかば。シリア北部出身のフランス国籍、何代も前からの、敬虔なカトリック信徒だということ。年老いた父母と、いずれもインテリ揃いの弟三人はパリにおり、国には二度と戻れぬ身であるということ。祖国の独裁政権に目をつけられたのが理由だということは、容易に察しがついた。数年前からはじまった祖国の戦乱が激しさを増す今、彼女は定期的に、難民収容施設に慰問に出かけている。この春も、復活祭シーズンにあわせて彼女はフランスとベルギー、オランダを慰問して回っており、今日がひさしぶりの一緒の舞台だった。
 そして、彼女について知っていることで、重要なことはもうひとつ。酒好きで、どうしようもなく酒乱の気があるということだ。仕事のためのセッションも兼ねて、彼女とはしばしばパブに行くが、酒で一度は身を滅ぼしたおれが危ういと思うほどである。まさかこのおれが、自分以外の酔っぱらいの介抱をする羽目になるとは。おかしな世の中になったものである。
 「それにしても、よく憶ていたな」
 「え?」
 「君が彼と会ったのは、ほんの二、三回じゃなかったか?」
 「ああ、アルベルト、ね。あなたのかわいい王子さま」
 すでに好物のテキーラを五杯干し、上機嫌の彼女は、シャンソンでも歌うように言う。おれは頬杖をついた掌の中でため息をつき、小さな驚きをやり過ごした。彼を彼女にはじめて引き合わせたのは五年ほど前のこと、そのときは、通名として使っているセカンドネームのほうで紹介したはずだ。しかし彼は、彼女にファーストネームのほうを名乗っていたということか。その理由はおぼろげながら、察しがついた。
 「そりゃ、憶えてるわよ。あなたに友だちなんて紹介されたのははじめてだったし、それにあの子の容姿、特徴的だからね。眉間には縦皺が寄ってるし、セーターは毛玉だらけ。ジタン臭いし、おまけにひどい猫背」
 「なるほど。確かにあの姿勢の悪いのは、おれたちには余計に気になるな」
 「でも、きれいだった。あんな仏頂面なのにね。ださい格好してるのに、なんて気高い子だろうって思ったわ。それで余計に、記憶に残ってたの。次に会ったときも、ほんの一瞬だったけど、すぐ思い出したわ」
 「……」
 「それだけじゃないわ。彼、視線が合うなりすごい眼で睨んだのよ、あたしのこと。あんまり凄まじいもんだから、すぐにわかっちゃった。あなたに夢中なんだってね。でも、よりによってあたしのこと勘違いしてヤキモチ焼くなんて、傑作だわ。どうみたって違うでしょ」
 カウンター越しに、バーテンがよこしたテキーラを、大事そうに啜る。そして無言でスコッチのグラスの底を睨んでいたおれを、肘でこづいた。
 「だからグレアム、あなたの態度に、疑問を持ったのよ。こんなに一途に想われて、しかも長いつきあいみたいなのに、あなたが気付いてないはずはない。なのにあなたときたら知らんぷり。それでいて、傍にいるのは許してるもんだから、彼、もうどうしようもなくなってた。三月のあなたのステージを、彼がどんな眼をして観てたか、わかる? あまりに残酷よ」
 「おいおいテレーズ、君はおれがゲイかバイかって前提で話してるのか?」
 「あら違うの? あたしははなから、そうだとばっかり」
 けろりと言い放つ。酔っぱらっているのは彼女のほうだというのに、おれはすっかり、彼女のペースに乗せられていた。
 「美意識の高い、才能のある男はゲイかバイ。この業界の常識でしょ? それにあたしと気の合う男は、たいていそっち。だから嗅覚あるのよ」
 「お言葉だが、生まれてこのかた、男とつきあったおぼえはないぜ」
 「つきあったことがないだけで、寝たことはあるくせに。何度も」
 「……テレーズ、君の生まれた国では、そういう話はタブーなんじゃ」
 言い終える前に、おれは慌ててことばを呑んだ。祖国のことは、避けるべき話題であった。彼女が祖国について多くを語らぬ理由は、察していたつもりだというのに。
 しかし、彼女はしたたかだった。おれなどが、気に病む必要はないほどに。
 「タブーだから、なに? あなたって意外と頭が固いわよね、グレアム。ステレオタイプの幻想に取り憑かれてて、ときどき百歳の年寄りと話してる気分になるわ」 
 「……」
 「言っとくけど、ムスリムだろうとキリスト教徒だろうと、アラブだろうとペルシャだろうと、中東の人間は案外、セックスについてあけすけに話すの。同性だけの場に限られるけどね。隣近所のおばさんたちと、うちの母がえぐい話でげらげら笑ってるのを、子どものころからさんざん聞いて育ったわ。それこそかよわい殿方が聞いたら、卒倒するような話題ばっかり」
 「……なるほど」
 勉強になるな、と言うと、テレーズはふんと鼻で笑って、またテキーラとライムのお代わりを要求した。顔馴染みのバーテンが、おれに気遣わしげな視線を送ってよこす。おれは黙って頷き、気にかけてはいることを示しておいた。今は彼女に、このまま喋らせておくことも必要だと思ったからだ。彼女は彼とおれの話にかこつけて、なにか別の感情を吐き出したがっているのではないか。
 「まあ、という訳で、去年の三月の話よ。あなたのステージが終わったとき、あたしのほうから彼にもう一度、声をかけたの。グレアムのこと、好きでたまらないんでしょ、ってね」
 「……」
 「最初は眼を剥いて睨んだわ、彼。でも、すぐに崩れて、泣き出しそうになったから、慌てて連れ出して、一時間後にまた会いましょうって言ったの。あたしはあなたにコメントする必要があったし、あの子もすこし、クールダウンしたほうがいいでしょ。で、その晩、シティで飲んだのよ。二時間だけね」
 「彼は、君にどんな話を?」
 「素直なもんだったわよ。あっさり認めて、自分の今の気持ちを、簡潔に話してみせた。長年あなたを想い続けて、親友のままでいようって心に決めていたのに、それじゃ我慢できなくなったって。どうしたらいいのかわからないから、なにかいい案を授けてくれ、ってね」
 「……」
 「だから、言ってやったの。一年くらい、ほっぽらかしといたらって。グレアムはこれまで色恋の相手なんてよりどりみどり、自分から誰かに焦がれるなんて思いはしたことがないに決まってる。いつも傍にいてくれる人の大切さもわからない薄情ものには、ちょっと思い知らせてやりなさい、って」
 「やれやれ、辛辣なことだ」
 「でも、当たってた訳でしょ」
 得意げな笑顔に、渋々おれは頷く。もはや隠し立てする意味はない。むしろ彼女には、感謝すべきだろう。こんな強引なきっかけでもなければ、臆病なおれたちは、互いの想いを受け容れる決心すらつかなかった。
 とはいえ。
 「で、どうなの? うまくいってる?」
 「写真見たんだろう? 今さらおれの口からも語らせる気かよ」
 「一緒に暮らす予定はないの?」
 「それは……どうだろうか」
 答えながら、あらためて考える。おれは舞台を捨てるつもりはないし、彼は今のトルコ人の会社が、結構気に入っているようだ。おそらく当面はこのまま、たまの逢瀬を愉しむ関係に落ち着くだろう。今すぐに、互いを伴侶と呼んでも構わないくらいだが、もうしばらくは、久方ぶりの恋の高揚に酔っていたい。
 黙っていると、テレーズが急に、くずおれるようにカウンターに突っ伏した。
 一瞬、急性中毒かとひやりとしたが、そうでないことはすぐにわかった。ブルネットの巻き毛の隙間から、嗚咽が漏れてきたのだ。泣きながら、彼女は同じことを繰り返し繰り返し、呟いている。手を放しちゃだめ。絶対にだめ。あたしと同じあやまちを犯しちゃ、絶対にだめ。お願いだから、あの子をしあわせにしてあげて。……
 「テレーズ、わかった。わかったから……お願いだよ、泣きやんでくれ」
 タクシー呼びますか、というバーテンの声にかぶりを振って、おれはテレーズの背を、さすり続けた。






 「で、どうしたんだ、その後?」
 「どうしたもこうしたも、家まで送って帰ったよ。同じ路線の、二駅手前だからな。何度送って帰ったか、もう忘れたくらいだ」
 「送り狼になったことは?」
 「あるわけないじゃないか」
 「誓って?」
 「誓って」
 おまえさんの右手に、と添えると、彼は革の手袋に包まれた右手をピストルの形にして、指先をおれの胸に押しつけた。
 「嘘ついたら、無理心中してやる。猶予はなしだぜ」
 バン、と言ってくすくす笑うが、それが本音なのは、凄艶さすら漂う表情をみるまでもない。彼の愛に絡め取られ、溺れることに、おれはすでに甘美さを感じてしまっている。もはや離れられない。それでいいのだと、互いに納得していた。
 胸から膝へと伝い降りてきた右手を取り、そっと指を絡めると、彼は頬をすり寄せてきた。ストラトフォード・アポン・エイヴォンからロンドンへと向かう列車の中、同性同士のひそやかな交歓に眼を留めるものなど、誰もいない。
 「でも、仮にあんたが送り狼になったとしても、叩き出されるのがオチだったんじゃないかな」
 「……おまえさんにも話したのか、彼女」
 ちょっとね、と囁いて、彼は遠い眼をする。そしてしばしの沈黙ののち、噛みしめるように言う。
 「合点がいったよ。初対面のときから感じてたんだ。彼女はおれと似ている。あんたにも似ている。おれたちは同じ匂いがする、って」
 なるほどね、とおれは返した。彼がわざわざファーストネームを彼女に名乗った理由は、やはり予想どおりだったようだ。
 「だからさ、彼女には、しあわせになってもらいたいな」
 「彼女もおまえさんには、しあわせになってほしいとさ。釘を刺されたよ。おまえさんを大事にしないと、承知しないってね」
 「おれはもう大丈夫。あんたといれば、ずっとしあわせだもの」
 「……ずいぶんとまあ、自信満々じゃないか」
 「そりゃあまあ、信じてるから?」
 あまりにまっすぐなまなざしとことばに、気恥ずかしくなって車窓の外に眼をそらした。茹で蛸みたいになってるぜ、と囁く彼の愉快そうな声が、耳朶をくすぐる。愛に溺れながらも、おれはまた、あの晩のことに思いを馳せていた。
 パブでさんざん吐いて、すでに酔いは醒めているはずだが、帰路もテレーズはずっと、押し黙ったままだった。ようやく口を開いたのは、終電も近い地下鉄を降りて、彼女の家に向けて歩きはじめてからのことだ。
 ――さっきはごめんなさい。取り乱したりして、……。
 ――気にすんな。それより、明日の舞台に響かないようにしてくれよ。しばらくは、出づっぱりだろう?
 ――そうね。でも、おかげで会いたかった人に、会えたから。
 ――……?
 ――大学時代の、恩師の姪よ。この戦乱で、彼女もブリュッセルに逃げてきてたんだけど。
 静かな声音で、簡潔に平板に、彼女は語った。ダマスカス大学の芸術学部の教授だった、恩師のことを。男社会、ムスリム中心の中東で、キリスト教徒の女性の身で業績ひとつを頼りに、教授の地位にのぼった人物であったこと。しかしそれと引き替えに婚期を逃し、子どもを産まなかった彼女に対する世間の眼は厳しく、男の教授連から妬まれていたこと。フランス留学の道も彼女が開いてくれたが、そのころ彼女が北米の学術誌に投稿した演劇論が、政府を暗に批判しているとみなされ、要注意人物リストに名を挙げられていたこと。
 けれども彼女のことばの端々から、想いは溢れていた。その想いをおれが察することを、彼女は望んでいた。だからなんの説明もなく、いきなり真相に触れた。
 ――あたしはそれ以来、祖国に帰ってない。両親や弟たちはその後呼び寄せたけど、先生のことも……強引にでも、呼び寄せればよかった。手を放してしまったのよ。先生もあたしを、手放した。道を究めるまで、国には帰るなって言われたわ。
 ――……。
 ――でも、そうすべきじゃなかった。別れるべきじゃなかったのよ。手を放してしまったことで、あたしはこの世でもっとも尊敬し、愛してやまぬひとを……永久に失ってしまったんだから。
 戦乱がはじまって、すぐのことであったという。すでに退職を間近に控えた身であったというのに、彼女は秘密警察に連行され、問答無用で投獄された。獄中で心臓発作を起こして急死したという知らせを、秘書をつとめていた姪が受け取ったのは、それから三ヶ月後のことであったという。ただし、彼女がいつ亡くなったのかは伏せられたままだった。心臓発作が本当の死因であるのかすら、さだかではない。
 玄関のドアを開けて、お茶でも飲んでく? と彼女は言った。あまりのことに、おれはまだ呆然と、ことばが出て来ない。なんということもない、といった調子で、テレーズは肩を竦めて笑顔を作った。その様子は確かに、おれ自身や彼に似ていたかもしれない。どんな慰めのことばも届かぬほどの、深い絶望を知る者の虚無。
 ――グレアム、心配しないで。明日のステージに、絶対に穴は空けないから。それが先生との約束。あなただって、愛するひととの約束は、絶対に破れないでしょ。
 ――……。
 ――送ってくれてありがとう。おやすみなさい。帰り道、気をつけてね。
 その後、結局おれは終電を逃し、ナイト・バスにすら乗らず、自宅まで歩いて帰った。どこをどう歩いて帰ったのか、実はあまりよく憶えていない。帰宅してすぐ、スコッチのグラスを二個取り出して、献杯をしながら、明け方まで痛飲した。翌日のステージに穴を空けそうになったのは、むしろおれのほうだ。
 ロンドンに到着し、軽く飲んでから帰ろう、ということになって、いつものピカデリー界隈にやってきた。マチネーとソワレの合間で、ひとときの静けさに包まれたシアター・クラブの前を通り過ぎ、馴染みのパブのいくつかを覗いているうちに、彼が突然、壁に身を隠した。
 「どうした、アルベルト?」
 「あすこ、見てみろよ」
 顎をしゃくった方角には、このあたりには珍しい、チェーン店のコーヒーショップがある。そのガラス張りのウィンドゥに面したカウンターに、テレーズがいた。屈託のない笑顔だ。
 その傍らに、ゆるやかに波打つ金褐色の髪を肩に垂らした、若い女性が座っていた。テレーズと同じく、大ぶりの金の十字架のペンダントを首から下げている。鼻筋の通った陰影の濃い顔立ちも、アイラインを強調したメイクも、テレーズと同じ。祖国を同じくする者だということは、誰の眼からみてもあきらかだった。
 「恩師の姪……じゃないかな、あの娘」
 「だな」
 「ブリュッセルから、わざわざ彼女の舞台を観に来た。そんなとこかな」
 「冴えてるじゃないか」
 「誰だって察しがつくだろ、それくらい」
 しばし通りの向こうの様子を見つめているうちに、ふとある唄が、脳裏をよぎった。ダリダの唄だ。
 独りで生きないために、犬を飼う者もいる。
 薔薇を育てる者もいる。信仰に生きる者もいる。
 誰かを愛する者もいる。独りで生きてはいないという幻想を抱くために。
 あなたと生きていてもわたしは独り、あなたも独り。
 それでも、独りで生きないために、……
 ――たとえ幻想だとしても、いいじゃないか。
 絶望にうちひしがれる者に、幸いあれ。幻想を抱いてなにが悪い。誰かを想う気持ちが生きる糧になるのであれば、それでいい。それが死者ではなく、今この世に生きる者であれば、なおのこといい。
 彼の肩をぽんと叩き、おれは促した。そろそろ行こうや、と。
 「出歯亀するなんざ、趣味が悪い。おれたちはおれたちで、……しあわせを見つけにゆかないか」
 悪くない、と囁いて、彼はにっと笑う。頭の中では、ダリダが歌い続けている。そしてはじめて気がついた。まるでおれたちや、彼女たちのためにあるような唄だったということを。
 独りで生きないために
 娘たちは娘たちを愛し、
 少年たちは少年たちと結婚する。
 ――少年と呼ばれるには、だいぶトウがたちすぎているが。
 親しげに身を寄せてきた彼の手を、人目を気にせずしっかりと握った。暮れゆく空の色をうつし、ブルーグレイのひとみが揺れる。少々気が変わった。外で飲むよりは、ふたりでいたい。
 ――君に幸あれ。
 手を握りあったまま、きびすを返した。まるで祝福を告げるかのように、消えていた街灯がいっせいに瞬き、道を照らした。



   了



付記:
 グレートさんと、シアター・クラブの同僚女優の話。実は書くのに8年くらいかかってます。笑 序盤から中盤にかけては、だいぶ前に書いてあったものをベースに、ところどころ手を入れました。新しく書き足したのは、序盤と終盤。時事ネタが混ざっていたので、多少緊迫度が増したかも。テレ―ズさんは気に入っているので、これからもちょくちょく出てくるかも。
 序盤、ハインがラファエル前派の絵にたとえられる描写がありますが、ロセッティとかシメオン・ソロモンあたりを想像していただければ、ありがたいです。ロセッティの描く女性たちは皆さんごつすぎて、どうも私には女性にみえないんですよね。あきらかに男性モデルをもとに描いていたミケランジェロの女性像よりもむしろ、首とか顎なんてごついかも。なのに素晴らしい美形揃い。という訳で、ハインにはうってつけかと。うちのハインは、標準的なドイツ人男性より華奢なイメージですが。



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