Save that, to die, I leave my love alone













 われわれの願いとはうらはらに、この世界はますます混迷を深め、狭量に、醜悪になってゆく。
 寒さに凍え、飢えに苦しむ人びとのことなど忘れ果て、誰も彼もが浮かれる年の暮れ。TVをつければ他人をこきおろすことがユーモアだと勘違いしている芸人どもや、肌を露出すれば多少の音痴も許されると思いこんでいる歌手たちばかりが溢れている。きたならしい難民を叩き出せと、どこかの馬鹿が叫べば、凶悪なテロリストをぶちのめすための武器とカネをよこせと、別の馬鹿が口角泡を飛ばす。「あなたが望めば戦争は終わる」? お花畑の夢物語を歌うのも、たいがいにしたまえ。世界は憎しみに溢れ、滅びへと向かっている。時計の針が、一秒を刻むごとに。
 こんなことには全くうんざりしたから、安らかな死がほしい。
 ――まさにそのとおりだ、敬愛してやまぬわが先達よ。
 堪えきれずに封を切ってしまったとっておきのブランデーは、いつのまにやら残り少ない。今から吾輩が、この世の真実をうたう詩を、ロシアの哀切なしらべに乗せて歌おうというのに、これではまったく野辺の送り。あの世への渡し舟にすら乗せてもらえず、おれは冥府の河に突き落とされて、もう一度死なねばならぬのか?
 ――いや、もはや何度死のうが同じこと。
 乳を流したような霧のたちこめるあの夜更け、ロンドンの路地裏で、おれは死んだのだ。なのになんの因果か彼岸に渡りそこね、化け物のからだを与えられて、この世のありとあらゆる戦場を数十年、駆け抜けてきた。いくら平和を願い、身を挺して戦ったところで、人は争いを望む。われわれは無力だ。無用の存在なのだ。
 「こんなことには全くうんざりだから、私はおさらばしたい」
 あと一行で、詩は終わる。しかしその最後の一行を歌わぬまま、また最初から、繰り返しだ。まるでわれわれの、数十年のむなしき戦いの人生のように。
 「こんなことには全くうんざりだから、……私はおさらばしたい」
 「へえ、そうかい。この三文役者」
 ぞっとするような、低くつめたい声が突然降ってわいて、おれはぎょっとして歌うのをやめた。
 不穏な金属音が、胸元で鳴った。強く押しつけられる、五つの銃口の感触。息がかかるほどすぐ近くで、氷の色をした半眼がじっとこちらを睨んでいた。
 「観客がいたとはね。これは……驚きだ」
 「聴いてたさ、ずいぶん前から。なのにあんたときたら、壊れたオルゴールみたいに同じ歌ばっかり繰り返しやがって。ほかの歌はどうした? お得意のソネットはそれのほかに、153篇あるんじゃなかったか?」
 「……残念ながら、曲がついているのは、これひとつだけなものでね」
 「あんたもおれと同じくらい、屁理屈が好きだよな」
 ま、似た者同士だから仕方ないか、と呟き、左手の人差し指の先で、合い鍵をくるりと回してみせる。指先を離れて放物線を描いたそれを、彼はまた左手だけで、機敏につかまえてみせた。
 「あと一行なのに、なんでその最後の一行を歌わない? おれが聴きたいのは、その最後のところなんだがな」
 「……」
 「脅されて歌うほど臆病じゃないって? じゃあ、こいつははずしてやるとするか」
 おれの胸元から銃口を離し、彼は眼を閉じて、自分の瞼に右手の指先を押し当ててみせた。茶番とわかっていても、心臓がどくりと鳴る。チタニウムの頭蓋で守られていない眼球は、われわれのほぼ唯一の、決定的な弱点だ。
 「よせ、アルベルト。なにやってんだ」
 「そのせりふ、そっくりそのままあんたに返すぜ。グレート」
 眼を閉じたまま、彼はくちびるの端を歪めた。
 「あんたがもうこの世に倦み果てたっていうなら、おれもここに生きてる意味がない。あんたが安らかな死を望むのであれば、おれも同じものを望む。“こんなことには全くうんざりだから、私はおさらばしたい”」
 「……」
 「さあ、最後の一行を歌えよ。おれも一緒に、歌ってやる」
 「……これも第一級の脅迫だと思うが、死神どの?」
 うすく眼を開けて、彼が笑う。光がこぼれた。懐かしいその光に、おれもゆっくりと、浮上する。グラスを手放し、鈍色の右手をそっと取って、両の掌に包み込む。
 「ただ、死んで、……愛する者をひとり残すのが、こまる」
 詩の熱がさめぬうちに、くちびるに互いのぬくもりを与えあう。待たせちまったな、道が混んでてと、彼が囁いた。
 「遅れたぶん、一日余分に休暇を取ったぜ。年をまたいで三日間、ここにいられる」
 「ほう、そりゃあ怪我の功名」
 「その間、あんたを天国に連れてってやるよ。ぼくの中にいる、せめてそのときだけは……憂さを忘れてくれ」
 もつれあい、ソファベッドに沈みこみながら、深く深く接吻を交わす。吐息とともに、またふたりで同じことばをくちびるに乗せて、贈りあう。
 メリー・クリスマス、新年おめでとう。



   了



付記:
 鬱なペシミストカップルの、年越し話。みの字さまの年末年始のお祭に提供しました。お祭なのに暗くてたいへん申し訳ないのですが、今の世相で、しかも74であまり明るい話を書く気になれなかったので。
 今回のソネットは66番。同性の年若い友人や「黒い淑女」に捧げる恋の歌が、シェイクスピアのソネットの基本ですが、この歌だけはどういう訳か、非常に厭世的な色が濃いです。「こんな腐った世とはさっさとおさらばしたい、でも恋人を残しては死ねない」という内容。ショスタコーヴィチが曲をつけていて(彼がこの詩を選ぶというのが、いかにも)、まあこれも鬱なしらべです。154篇のうちで、もっともグレートさんらしい詩で鬱話が書けたので、とりあえずは満足です。ちなみに今回の壁紙も自作。ミラノのドゥーモのステンドグラスです。死神がいるのがポイント。



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