Speakin' Out









 いつの頃からだろうか。彼と飲むことが、休暇ごとの習慣となって久しい。彼がこちらにやって来るか、こちらが彼のところへ出向くかは、そのときどきによって、互いの予定次第。ひとつの戦いに出る前に、ひとりでは押さえられぬ不安とはやる気持ちをアルコールで宥めあう。戦いが終われば、無事の生還を共に祝う。今年も終わりだとつぶやきながらグラスを並べ、いい酒が手に入ったからと笑いながら杯を触れ合わせる。理由は案外、どこにでも転がっているものだ。
 いくら酒が好きだといっても、実は彼が、それほど酒に強い訳ではないということを知るまで、そう時間はかからなかった。若い時分のことは知らないが、一緒に飲んでいるときは、酒に飲まれてしまうことのほうが多い。あえて他の仲間をまじえず、ふたりで飲む以上、酔いつぶれた彼を支えて歩くのは、おれの役目だ。今回もご多分にもれず、彼はひとりで歩けないほどに酔いが回り、おれは彼をアパートへ運ぶことになった。
 正直なところ、酔っ払いは好きではない。人前に醜態を晒すことほど、恥ずかしいものはないと、いつも思う。それでも、べろべろに酔っ払った彼の姿は、嫌いではない。いつもおどけて、本心を見せずにいる彼の、なまの部分に触れられるような気がするから。その姿を、仲間内で自分が一番よく知っているのかと思うと……胸のうちに、長い間忘れていた甘酸っぱくて、くすぐったい感情が、ふつふつと蘇えってくる。だから彼には申し訳ないが、おれは彼が酔いつぶれるのを、なんとなく心待ちにしているところがある。もちろん、そんなことを彼に知られたくは、ないのだが。
 がらがらの車内、座席に並んで腰掛けて、うとうとと凭れかかる彼のからだの重みと体温を、衣服越しに感じているのは、悪くはない。毛髪のない彼の頭に、気付かれないよう、そっと耳朶を触れ合わせてみる。耳だけじゃなくて、頬で、くちびるで触れられたらという願いを、封じ込めたまま。
 最終便のバスを、終点のひとつ手前で降りて、徒歩五分。尽きかけた蛍光灯がヒステリックにまたたく薄暗い階段を三階まで昇って、通路を左へ。つきあたりが、彼の部屋。玄関のライトの位置は、目を瞑っていたって当てられる。
 「ほら……着いたぞ。大丈夫か?」
 「う……」
 返答は、ほとんどないに等しい。が、その表情を見る限りでは、悪い酔い方はしていないようで、ほっとした。肩からずり落ちそうになっていた上着を直してやりながら、彼のからだを抱えなおす。布地越しに、そのからだの感触を、手のひらにあえかに感じる。触れているおれの右半身のそれとは違って、柔らかく、あたたかい。
 「気分は? 吐きたいなら、先にバスルームへゆこうか」
 「い……や、大丈夫だ」
 「あとちょっとだ。辛抱して」
 「……いつも、すまない……」
 消え入るような声。そんな声で謝らないでほしいという気持ちと、いつもと違ったその声音を、もう一度聞いてみたいという思いが交錯する。
 さほど広くはないアパートのベッドルームまで、彼を引きずってゆく。間取りだって、目を瞑っていても壁にぶつからずに歩けるぐらい、心得ている。気だるく、心地よい酔いを醒まさせないように、細心の注意を払って、静かにベッドの上に彼を横たえさせた。
 「何か飲むか? 水、持って来ようか」
 靴を脱がせてやりながら訊いたが、答えはない。かわりに、安堵しきった寝息が聞こえる。どうやら、彼はあっという間にヒュプノスにさらわれていってしまったようだ。
 さて、どうしようか。
 彼を無事にベッドまで運んだことで、一気に気が緩んだのだろうか。今ごろになって急に、全身に酔いが回るのが分かった。いつも、こちらに来るときには泊めてもらっているのだが、断りなしにシーツやタオルを拝借するのも躊躇われて、おれはベッドサイドの椅子に腰掛けた。横たえさせる前に脱がせた上着を床の上から拾い上げたが、ハンガーが見あたらないので、とりあえず椅子の背にかけておく。彼は、勝手に戸棚を開けても怒るような男ではないが、親しき仲にも礼儀あり、というやつだ。
 親しき仲にも、か。……なんとはなしに、口の中で反芻してみる。おれも、だいぶ酔っているようだ。その証拠に、今まで押さえてきた気持ちが、今日は疼いて仕方がない。
 椅子の背にもたれて、しばらく彼の寝顔を眺めた。まだ若いという形容には、無理がある。それかといって、老いているというには若すぎる。舞台役者らしく、目鼻立ちは派手ではあるが、いささかバランスを欠く彼の顔は、絶え間なく諧謔に満ちたおしゃべりを披露しているときも、こうして眠っているときですら、眺めれば眺めるほど、いつまでも見ていたいと思わせる魅力を備えている。彼自身の魂の容れものとして、いかにもふさわしい。
 なかば開いたくちびるから、軽い鼾が洩れてくる。年若い仲間にからかわれては、みずからジョークのネタにしている毛髪のない頭も、ややたるんだ顎のラインも、口元に寄っている皺も、すべていとおしい。そう……いとおしいのだ。おれは、彼に恋している。恋焦がれている。
 最初は、仲間うちでもとりわけうまの合う男だと、思っていた。放っておいて欲しいときには放っておいてくれる、人恋しさを感じるときには、さりげなく傍にいてくれる。そんな関係が、たまらなく心地よかった。年齢は10歳以上離れてはいても、対等の立場に立って、時の過ぎゆくのも忘れてあらゆることを語り合える。優れた友を得る機会は、そうあるものではない。こんな特殊過ぎる身の上になってしまっても、彼と出逢えたことに関しては、間違いなく幸運だったと、断言できる。彼にとってもそうであればと、おれは願ってやまない。
 時折からかい気味に、おれのことを子ども扱いするが、礼を失することは決して言わない彼。その心遣いを好ましく思いつつも、片方で一抹の物足りなさを感じるようになったのは、いつの頃からか。彼をもっと知りたい、もっとこちらの内に入り込んで欲しいと思うようになったのは、いつの頃からか。
 いずれにせよ、もう長い間、自分を偽っていることは確かだ。もっと近くに、彼を感じていたいのに、一歩前に踏み出す勇気がない。前後不覚になるまでに酔っ払った彼に、恐る恐る触れて、それで満足しようとしている。情けない。
 臆病者なのだ、おれは。いい歳をして、浅瀬を飛び越えられずに泣き出す子どもと同じだ。今さらながらに、そう思わざるを得ない。思いながら、指先をかるく噛んだ。ピアノの練習に障ると言われ続けたにも関わらず、小さな頃からのこの癖が未だに抜けない。噛み締めた指先が、もはや柔らかさもぬくもりも、失っているというのに。






 窓の外、時折車の走ってゆく音が彼方に響くほかは、深い夜の静寂がたちこめている。夜の一部になったように、おれは身じろぎもせず、彼の傍らに腰を降ろしたままだった。
 いつの間にか、かすかに空気を震わせていた彼の鼾の音が、おさまっていた。深い眠りに落ちた証拠だろう。そう思ったとき、おれの中に、ひとつの望みがうまれた。酔いの助けを借りたせいか、その望みは力を増し、おれを徐々に、支配していった。
 ねえ、あんたは許してくれるだろうか。あんたの隣で、ひと晩眠ることを。
 しばらく、望みを手のひらの中でもてあまして、逡巡した。それから……ついに意を決して、おれは立ち上がると、上着と靴を脱いだ。正体もなく眠りこけている彼を起こさぬよう、その傍らにそっと身を横たえる。ゆるやかに、一定の間隔を置いて上下する彼の胸元に手を伸ばして、きっちりと結ばれたネクタイを解き、ワイシャツのボタンを鳩尾のあたりまではずす。ほんのちょっと、指先をその隙間から潜らせてみたが、それ以上のことをするのは、躊躇われた。あたたかな彼の肌に、この冷たい、いつも硝煙の匂いを漂わせているような指先で触れるのは、許されぬことのように思えた。
 彼の傍へ寄るといつも鼻腔をくすぐる、でもこんなに近くでは一度も嗅ぐことのなかったコロンの匂いを、胸いっぱいに吸い込む。それはまぎれもない、彼の一部。彼の一部を吸い込むことで、彼と融けあって、ひとつになることを夢想する。
 あんたは、思ってもみないのだろう。こんな化け物じみた、醜い姿の、しかも同性に、恋情を寄せられているなんて。最初はおれとて、戸惑った。でも……この気持ちは、ほんものだ。口にする勇気は、ないけれど。拒絶されるのは、何より怖い。笑って誤魔化されてしまうのは、あまりに辛い。
 傍にいさせてくれさえすれば、それで充分だから。
 自分を宥めるように、そっとつぶやいてみた。しかしかえってその途端、なんとも惨めな気分に襲われて、おれは彼の胸の上から、そろそろと手を引いた。
 彼の意識がないのをいいことに、ずうずうしくも彼に触れた自分が、ひどく穢らわしい、恥ずかしい存在に思えてならなかった。美しいもの、優雅なものを愛する彼に、自分が不釣合いなのは百も承知だ。なのに、彼を想う気持ちは鎮まるどころか、果てもなく昂ぶって、つくりものの心臓をきつく締めつける。締め上げられた心臓は早鐘を打ち、胸の中で暴れて、今にも口から飛び出してしまいそうだ。喉の奥がつんとして、涙が溢れそうになる。泣くまいとして、指先をいやというほど、噛んだ。
 いつだって、こうなのだ。叶うはずもない望みに、身も心も引き裂かれてきた。肉親の愛情も、音楽も、やっとめぐり逢えたたったひとりの恋人も、この腕に抱き締めようと指先を伸ばした瞬間、あとかたもなく消え去ってしまう。いつも喪失のみが、傍らにある人生だった。望みは叶わないものと、自分に言い聞かせるのが癖になったのは、いつの頃からか。そのことに、何の痛みも感じなくなってしまったのは、いつの頃からか。
 気がつくと、おのれの指先を噛み締めたまま、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
 彼に触れたい。彼に縋りたい。でも、どうしてそんなことが出来よう。ただでさえ、硬くて冷たくて、人間らしい感触など数えるほどしか残っていないこの身なのに、こんな浅ましい思いを抱えて、どうして彼に触れることが出来よう。どうせ、望みは叶わない。ならば、望むのを諦めるしか、ないのではないか。でも……いつまでそうやって、生きてゆく?
 一体、この機械の塊のどこから沸いてくるのかと不思議になるくらい、涙は溢れて、とどまるところを知らない。せめて彼の眠りを妨げないよう、おれは必死で声を殺した。どちらもつくりものの指と歯が軋んで、嫌な音を立てた。
 と、そのとき、髪に何かが触れた。
 それが何であるかは、すぐに分かった。彼の指先はこの上なく優しかったのに、おれは思わず、身を竦ませた。
 「どうした」
 深く、静かな問いかけ。聞き慣れた、彼の声だ。どんな美しい音楽よりも、今やおれの耳に心地よく響く音。
 恐る恐る、のろのろと顔を上げて、しばし彼の顔を凝視した。穏やかな微笑みを口元に浮かべた、彼の寝顔がすぐ近くにあった。
 いつの間に起きていたのかと、全身の血が一気にひいてゆくような思いがしたが、どうやらそれは思い過ごしだったようだ。少なくとも、彼は覚醒してはいない。意識は半分、動いてはいるようだが……いつもくるくると表情を変えるその目は閉じられたまま、規則的な寝息は、乱れてはいない。肉体は、眠ったままだ。
 尚も息をつめていると、彼の腕が、まるでおれを迎え入れるように、わずかに開いた。堪らなくなって、おれは彼に縋りつく。背中に、筋張っているのに柔らかくて弾力のある、おれが焦がれてやまない彼の手のひらの感触がある。それが、ためらいがちではあるが、言いようもないやさしさを篭めて、おれの背を撫でてくれていた。それを認めたとき、ふたたび滂沱の涙がこみあげてきて、おれはついに声を上げて、泣きじゃくっていた。
 それからややあって、ふたたび彼のくちびるから、ことばが零れた。
 「いい子だ……泣かないで」
 「……」
 「ハインリヒ、おまえさんは、いい子だよ……だから、泣くことないだろう?」
 ああ、と、おれは声にならない溜息をついた。魔法の呪文を唱えられたように、少しずつではあるが、身のうちに安らぎが拡がってゆくのが、はっきりと分かった。
 目を閉じて、彼の胸に額を押し付けると、また熱い涙が頬を伝った。でも、きっとこれが、最後のひとしずくだ。彼が、泣くことはないと言ってくれたから。
 おれも、あんたのように強くなれるだろうか。おのれの罪も報いも後悔も焦燥も、すべてを受け容れた上で、明るく笑えるようになるだろうか。自分のためだけではなく、傷ついた誰かのために。でも、それにはあんたが傍にいてくれなければ、駄目なようだ。あんたが傍にいて、おれの望むことばをかけてくれなければ、おれは倒れてしまいそうだ。
 そして、いつの日か……あんたのために、笑えるようになりたい。それこそが、おれのもっとも望むことだと、分かったから。今度こそ、望みが叶うかもしれないと、思えるから。時間はかかるかもしれないけれど、幸いそれだけは、たっぷりとある。
 おれがあんたに触れられるのは、それからだ。






 おれの背を、そっと撫で続けてくれていた彼の手の動きは、やがて潮が引いてゆくように止まっていた。どうやら彼は、ふたたび深い眠りに落ちていったらしい。
 彼の意識に、この声が届かないことを祈りながら、おれはそっと呟いた。
 「愛してる……グレート、あんたが好きで好きで、たまらないよ」
 だから、今はこうして、傍にいさせてくれ。明日はあんたより早く起きて、この名残を残さず消しておくから。
 せめて、今宵だけでも。




   了







(74初書き、どころか、二次創作初書きでした。)




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