Stuck in a Moment










 目を上げると、いつもの澄んだ微笑みを浮かべて、彼が立っていた。
 「グレート、ちょっと手伝ってくれるか?」
 「……ああ、何だね?」
 「さくらんぼの種出し。キルシュクーヘン、あんた好きだったろ?」
 抱えていたボウルを、差し出してみせる。市場で山ほど買ってきたのだろう、よく熟したさくらんぼが、つやつやと光っていた。おれの好きな、濃厚なえんじ色。透き通るように白い肌の、彼にとびきり似合う色でもある。
 答えの代わりに、読んでいた本を閉じて、脇に置いた。向かいに腰掛け、さっそく彼は、さくらんぼをひと粒摘み上げ、器用に種を取り出す。実を崩さぬよう、細心の注意を払って。今は人工皮膚に包まれている長い指は、ピアノ弾きの、一騎当千の戦士の、そして、菓子作りの達人の指でもある。
 一緒に暮らし始めて、彼について新たに発見したことは、幾つもあった。意外とずぼらであったり、悪戯好きであったり、頼もしかったり頼りなかったり。仲間として十年近く、恋人として十数年。こんなにも、長い時間をともに過ごしていながら、それでも新鮮な驚きを、互いに対して感じることは多々あるのだ。人間とは、これだから面白い。
 そんな新たな発見のなかでも、とりわけ驚かされたのは、彼がしょっちゅう、菓子を自分で作るということだった。
 りんごやオレンジ、さくらんぼ、季節の果物を使って、さまざまな菓子をレシピも見ずに、やすやすと生み出してしまう。そのどれもが、見てくれはやや無骨ではあっても、菓子屋で求めるよりもずっと繊細で、そして懐かしさをおぼえる味わいの絶品だった。「おふくろの味」とでも言えるようなものばかりを得意にしているのは、おそらく母親を早くに亡くしたことと、無関係ではなかろう。母親のぬくもりを取り戻したい一心で、みずからキッチンに立っていた少年時代の彼の姿が、目に浮かぶようだ。
 見る間に、種を抜かれたさくらんぼが、目の前にこんもりと山を作る。手際の良さに見とれて、おれのほうはつい、手がお留守になっていた。
 「……見事なものだな」
 「え?」
 作業に没頭していたのだろう、青いまなざしが、きょとんとおれを見上げる。ふとした拍子の、思いがけない表情が、ひどく幼くて可愛らしい。そっと、頬を撫でてやりたくなるほどに。
 「いや、さすがはドイツ人だなと、思ってね。クラフトマンシップ、そのものじゃないか?」
 「そんな大層なもんじゃないさ。単なる趣味だよ」
 「いやしかし、それにしちゃあ、見事じゃないか。手際も見事だが、味も素晴らしい。この前作ってくれたヘーゼルナッツケーキ、あれもうまかった」
 「ああ、あれね」
 お喋りを続けながらも、その間も指先は動いている。あれは、トリノに行ったときにおぼえたんだ。仕事であのあたりには、よく出かけていたからね。取引先の社長の奥さんが、差し入れにって、くれたんだよ。うまかったから、レシピを訊いておいたのが、役に立った。
 「なるほどね。道理で、家庭的な味だ」
 ぴたりと、動き続けていた手が止まった。
 いぶかしく思って見上げると、なじみのにやにや笑いを浮かべて、こちらへじっと注がれるまなざしと、ぶつかった。含みのあるこの笑みにも、実はいろいろと種類がある。今のこの表情は、おれをすこしばかり、挑発したいときのものだ。
 果たせるかな、顎をこころもち突き出して、彼はにっと歯を見せた。物のない時代に育った人間らしく、きれいに揃った歯並びが丸見えになる。チェシャ猫みたいだと、おれは微笑みたくなった。
 「……妬いてるのか? グレート」
 「まさか」
 「妬けよ、少しは」
 くちびるを尖らせて、不服そうな表情を作ってみせる。言わずもがなのことを、わざわざ言ってしまうのが、恋の駆け引きでどれほど不利かということを、知らぬはずはないだろう。まったくもって、面白い子だ。うまれたままの、純真無垢な魂を白く輝かせて、いつもおれを魅了する。
 「ならば、嫉妬して差し上げましょうかね?」
 真面目くさった顔で、そう返してみせる。すると、拗ねた表情の下から、くすくす笑いを覗かせて、彼は上目遣いにおれを見上げた。その次に、おれが口にする答えを、予測しながら。
 「妬く必要は、なかろう?」
 おれたちは、一緒に暮らしているのだから。それで、充分じゃないか?
 正面から、まっすぐ目を見据えてそう言うと、彼はほんのりと目元を染めて、微笑んだ。ひっそりと、白い睡蓮がほころぶさまに、そっくりだった。
 仏頂面がトレードマークのように思われていながら、素顔の彼は、こんなにも表情豊かだ。氷のたたずまいに、燃え盛る焔のような魂を宿らせ、最初はおずおずと、そのうちはっとさせられるほど大胆に、おのれの内側を見せてくれる。本当に、心を許した者だけに。
 しかしおそらくは、おれとてもまだまだ知らない部分を、彼はたくさん抱えているに違いない。たとえば、まだおれに披露したことのない、料理のレシピのように。どうやってそれを習得したかという、記憶の物語のように。別に、それを隠しておきたい訳ではなくとも。
 また、さくらんぼを摘み上げながら、彼はおもむろに口を開いた。
 「菓子づくりは、ほんとに趣味だよ。ほら、おれの子どもの頃は、ものがない時代だったから、甘いものにいつも飢えていた。あんたなら、分かるだろ?」
 「……ああ」
 頷きながら、おれも手を動かす。彼が喋りたがるときは、内側に抱えてきた何かを、吐き出してしまいたいときだ。それは些細な取り越し苦労だったり、長年のわだかまりだったりする。
 吐き出して、みるといい。いつまでも、ひとりで抱えているのは、辛いもんだ。黙って、頷いてあげよう。なんでも、聞いてあげるから。
 「……だから、ついつい季節の果物なんか見ると、まとめ買いしちまう。食いきれないぶんは、ジャムや砂糖漬けにすれば、あとで料理にも使えるだろう? まあ、出盛りのときに、新鮮なものをそのまま食べるのが、いちばんだけれどさ。キルシュクーヘンだって、缶詰のさくらんぼなんか使うよりは、こうやって、……」
 「……」
 「……生のさくらんぼを使うほうが、うまいってね……」
 ……ヒルダが。
 そうか、と、短く頷いた。長々とした慰めのことばなど、彼は望んではいない。
 動きの止まった自分の手に、彼は無言で、視線を落としている。指先が、さくらんぼの暗い赤色をした果汁に、汚れていた。彼の手だけではない、他ならぬおれ自身の手も、赤黒く染まっていた。あたかもその色は、彼の、おれの、おれたち九人の犯してきた罪を、目の前に突きつけるがごとく。……
 罪は、認めねば。そして、前へ進むのだ。それが……生き残ったおまえの、生き続けるおれたちの、つとめではないか? 追憶は、ふとした拍子におれたちを責め苛む。それでも、その痛みを越えて、生きてゆかねば。いのちある限り。
 「手を、貸してごらん」
 差し出されたおれの手に、彼は無言で、おのが手を預けた。
 彼の持ってきていた布巾で、おれは丹念に、赤黒く染まった彼の指を、拭ってやる。染みた色はなかなか落ちず、唾液を布巾にちょっと染み込ませ、何度も擦るとようやく落ちてくれた。ほんものそっくりに、精巧につくられた人工皮膚は、その下に隠された鋼鉄の武器の存在を、ほとんど感じさせない。ただひとつ、右手だけに、体温がないということを除いては。
 過去を切り捨てろとは、言わない。切り捨てられるはずもないし、それはおれとても、同じことだ。縛られながら、過去の鎖を引きずって、それでも生きてゆけ。おれも、ともに歩むから。こうやって手を取り合って、倒れそうな互いを支えながら、歩んでゆこう。
 それでいいとは、思わないか? こころ弱き、恋人よ。
 縋りつく指を、そっと握り返してから、テーブルの上に載せる。心もとなさをあらわにした彼に微笑みかけながら、おれは立ち上がった。
 「一杯、いかがかね? さくらんぼの果汁は、酒に入れてもいいもんだぞ」
 「……?」
 キッチンから新しい布巾、冷凍庫からウオッカを取り出して、居間へと戻る。そして、打ち沈んだ目のままで座り込んだ彼の目の前から、種を抜いたさくらんぼを数粒、布巾の中に放り込んだ。
 「知っているか? 何も、キルシュリキュールだけじゃあない。さくらんぼも立派に、カクテルの材料になるのさ」
 ウオッカを注いだグラスの上で、指に力を込め、布巾の中のさくらんぼを絞る。鮮血のような果汁が滴り落ち、指先でかるくステアすると、瞬く間に紅いカクテルが出来上がった。
 「……あんたに、バーテンダーの心得があるなんて、知らなかった」
 「売れなかった若い頃に、ちょいと手慰みに、ね。他にも、いろいろやったんだぞ」
 サンドイッチマンとか、新薬の実験台とか、そういや運送屋で、荷運びもしたよ。……まあ、稼いだ金はあっという間に、舞台を整えるための費用に消えたがな。
 グラスを取り上げ、差し出す。鮮やかな血の色をした酒の杯を、彼はためらわずに受け取り、おれに向かって、微笑んでみせた。
 「なにも、辛い過去ばかりじゃないだろう? おまえさんだって、キルシュクーヘンの作り方を彼女から習ったときは、幸せだったはずだ」
 「ああ。バーテンダーだった頃のあんたは、幸せだった?」
 「そうだな……幸せでもあったし、辛いことも、いろいろとね」
 「女の思い出だろう?」
 「まあ、それはおいおい、語ってゆくことに致しましょうや」
 幾年ともに過ごしても、知りえぬ部分はたくさんある。おれの知らない彼の記憶が、彼を苛むこともあれば、その逆もあるだろう。そんなとき、互いが傍らにいて、耳を傾けてやることが出来れば。肩を抱いて、道の上に倒れ伏しそうなからだを支えてやることが出来れば。
 そう、そんなときのために、おれたちはともに暮らし始めたのかもしれない。
 グラスの縁を触れ合わせ、ともに酒を口に含む。見交わしたそのとき、互いのひとみの中に互いの穏やかな姿を見出して、おれたちはひそやかに、微笑みあった。









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