Sweet Thing













 寝起きはいつも、良くはない。海底から水面へ、浮上するようにゆるゆると目覚め、しばらくはぼんやりとしたままシーツや毛布にくるまり、薄く白い光に透けてゆく朝の気配のあわいを漂う。一時間以上経ってから、渋々コーヒーを淹れに台所に立ち、まともに頭が働くのは、それからさらに三十分後。もちろん、そんな暇があればの話だけれども。
 ――今朝は、違う。
 すでに見慣れた光景に、眼を細める。すでに起床した彼のぬくもりの名残を握りしめ、今一度、からだを丸めた。
 二週間ぶっつづけで働き、ロンドンを縦断して物流センターから彼のアパートにたどり着いたときは、さすがに疲れ果てていた。合い鍵で入り、車の油の臭いが染みついた衣服を脱ぎ棄てて彼のベッドにもぐり込み、そのまま深夜まで眠ってしまったようだ。仕事から帰ってきた彼が、隣にそっと入ってきてようやく、目が覚めた。
 それでもまだ、瞼をもたげるのすら億劫なほどだった。そんなぼくの様子を見て取って、彼はこれ以上ないほどにやさしく、抱きしめてくれた。あまりにここちよくて、彼のパジャマの胸に頬を押しつけ、すこし泣いたのを憶えている。からだの奥を満たす熱と律動を求めながらも、この抱擁をくれる彼にこそ、ぼくは恋い焦がれているのだろう。
 寝室のドアが開いた。かちゃかちゃと、銀の盆とティーセットが触れあう音がする。白いシャツにズボン釣り、カシミアのラグラン袖のカーディガン。いつもの格好をした彼は、ベッドサイドの椅子に腰掛け、おどけて手を振った。ぼくも右手の指先をちょっとだけ上げ、手を振り返す。やわらかな掌が、さらりと髪を撫でてくれた。
 「いたくお疲れのご様子だな、死神どの」
 「……ちょっと、無理してスケジュールを詰めすぎた。ロンドン便は、どうしても取りたかったから」
 ロンドン便に無理矢理エントリーしなくても、どうせ休みを取ったら、ロンドンかベルリンで彼に会うのだ。けれども、逢瀬のわずかな機会を逃したくないという気持ちをばかげているとは、彼もぼくも露ほども思わない。ほんとうは、ひとときたりとも離れていたくはないのだ。
 「今回も、二日間?」
 「ああ、明日の夕方まで」
 「まずは、ゆっくり休みたまえ。おれも今日は、休みを取ったから」
 「ありがとう、グレート」
 一度のびをして、ベッドの上に起き上がった。差し出されたマグカップからは、彼の好きなセイロン紅茶の香りがした。ひと口含んで、たっぷりとミルクを注いだ紅茶の味を愉しんでから、ブラウン・シュガーのポットを受け取る。ベルリンの自宅で、ぼろ雑巾のようになって迎える遅い朝、こうして彼の淹れてくれる紅茶を、どれほど恋しく思ってきたことだろう。
 つきあう必要もないだろうに、彼も紅茶だけだ。しばらくこちらの様子を見守っていたが、新聞を手に取り、シャツの胸ポケットから、なにかを取り出す。視線で追っていたぼくは、それがなんであるかに気がついて、一気に目が覚めてしまった。
 「グレート!」
 「ん?」
 「なんで……なんでそんなもの、かけるんだ?」
 必要ないだろ。批判がましくそう言ったぼくに、彼はレンズ越しにウィンクを送ってよこしてきた。もともと大きな眼が、よけいに大きくみえる。ということは、やはり……。
 「年相応にみえんとな。吾輩もいろいろと、努力しているのさ」
 「つまり、眼鏡にあわせて、あんたのほうが視力を調節してるってことか?」
 その問いには答えず、彼はサイドボードの上の携帯電話を取り上げ、なにやらいじくりはじめた。手渡されたその画面をのぞき込んで、ますます眠気など吹っ飛んでしまう。仲間のひとり、しかも眼鏡などもっとも似合わない男が、細身だが派手な色のフレームの眼鏡をかけて、得意げにポーズなど取っている。
 「……なんで、ジェットが……」
 「おもしろかろう? もっとも奴のは老眼鏡じゃなく、ふつうの近眼用だがな」
 「本なんか読まないだろう、あいつ!」
 「吾輩同様、役作りのための小道具ということさ。眼鏡かけたほうが探偵らしくみえるとか、なんとか」
 「これじゃ売れない芸人だろ。よれよれのレインコートでも、古着屋で探したほうがいいんじゃないか?」
 「コロンボは刑事。探偵じゃないぞ」
 ははあ、おまえさんいよいよボケたな、とにやにやする彼をにらみ返してマグカップを置き、ベッドの上で腹這いになって寝そべった。
 ジェットだけではない、ほかの仲間が彼にだけ、なにがしかの内緒の話をしたり、ささいな日常の様子を知らせたりしているのは、承知していた。最年長者で懐の深い彼に、親戚の叔父さんかなにかのような親愛の情を寄せたくなるのは、無理からぬことだ。
 けれどもなんとなく、気にくわない。張大人はともかくとして、彼に秘密を打ち明けるのは、ぼくひとりであってほしい。
 「……なんだね、へそを曲げてるのか、おまえさんは」
 ベッドの上でごろごろするぼくに、彼は老眼鏡の奥から咎めるような視線を送ってよこす。ぼくはわざと仰向けになって、舌を出した。ここにいるときの常で、ぼくは素っ裸だ。
 「これ、行儀の悪い」
 「うるさいな。今日は怠惰に過ごすって、決めたんだ」
 「……ま、好きにするといいさ」
 新聞の陰から、はしばみ色の瞳が時折、こちらを見つめているのがわかる。これ以上ないほど無防備でいる姿を、見守られている。それだけでとりあえずは満足して、ぼくは怠惰をむさぼることにした。
 ぬるくなった二杯めの紅茶を、飲み終えるころだった。新聞をたたんで、彼が椅子をベッドに寄せてきたのは。
 「実を言うとな、おまえさんがきっかけなのさ。この眼鏡をかけようと思ったのは、ね」
 「……おれ?」
 仰向けのまま首をひねると、彼はいたずらっぽくほほえんで、ぼくの額を人差し指の先で、ちょんとつついた。
 「低血圧。朝はいつも苦手」
 そう、もともとからだが弱かったぼくは、大人になってからも低血圧で、朝の寝起きが悪かった。そして奇妙なことに、サイボーグにされてからも、その癖はなおらなかった。機械のからだに、低血圧もくそもあったものではない。科学では説明できない問題に直面し、苛立つ科学者たちの姿を、ぼくらはひそかに腹を抱えて笑ったものだ。
 「おれだけじゃない。フランソワーズもだもんな」
 「まったく、“人体の神秘”としか言いようがないな。機械のわれわれに、生身だったころの肉体のくせが残ってるなんて。酒に強い者もいれば弱い者もいる。精霊と語り合う者もいる。アレルギー性鼻炎にはなるし……」
 「よりにもよって、張大人とジョーがな」
 そんなものとはもっとも縁遠そうな二人が、春先にくしゃみを連発させている姿に、さすがにぼくらも困惑した。しかし、サイボーグにも“体質”があるのだという、なんとも非科学的な結論に落ち着くしかなかった。そのことを、どこか嬉しく思う気持ちがあったことは、否定できない。やはりぼくらも人間なのだと、誰もがその実感を噛みしめたのだ。
 「それに、……」
 言いよどんだ彼のまなざしを引き取って、ぼくはほほえんだ。にわかに羞恥をおぼえ、寝返りをうってシーツを身に纏う。
 「おや、すばらしい眺めを、隠してしまうのかね」
 「好きなようにするといい。どっちみち、あんたのものだ」
 ベッドの脇に膝をつき、彼の手がゆっくりと、シーツを剥いでゆく。またすべてを晒され、ため息をついたぼくの額に、やさしくくちびるが触れる。
 「アルベルト。おまえさんと愛を交わすことで、はじめて知ったよ。こんなからだでも、……誰かとぬくもりを、歓びを分かちあうことができるのだと。おれも人間なのだと」
 「……それは、おれだって同じことだ」
 金属むき出しの異形の姿を、いくら仲間とはいえ、すべての者に晒すことができる訳ではない。彼だけだった。仲間内でももっとも人から遠いところへ、置き去られたぼくらふたり。彼がぼくにとって、過去を分かちあい、恥ずべき姿もなにもかも、身も心もすべてをゆだねられるただひとりのひとであったことは、果たして偶然なのだろうか。
 My lovely roseと、彼がぼくを呼ぶ。もっと呼んでほしい。ならばいっそ、“薔薇のつぼみ”も晒してしまおうか。けれどもこんなとき、すこしだけいやなことをわざと言うのが、彼の癖なのだ。
 「シャワーも浴びずに、寝床に入ったろう。ガソリン臭いぞ」
 「なら、あんたが洗い流してくれるか?」
 首にすがりつき、額を触れあわせた。苦笑まじりの吐息がこぼれ、頬をくすぐる。今日は思い切り甘えたい、そんなぼくの気持ちは、とっくに承知しているだろう。
 「……おまえさんは重いんだぞ。困ったもんだ」
 仲間内では非力なほうではあるが、それでも常人の三倍程度の膂力は軽くある。こんなふうに甘えられるのも、彼だからなのだ。
 よいしょ、と抱き上げられ、ぼくは彼の首筋に鼻を擦りつける。肺を彼の匂いで満たす。バスルームへ運ばれるわずかな間でも我慢できなくなって、眼鏡に手をのばした。キスの邪魔にならないように。



   了




付記:
 一度書いてみたかった、一人称「ぼく」で語るハインリヒ。実は最初にサイトやっていたときも書いていません。「雪割草交響曲編」で、わざわざ一人称をぼくと言い換えている彼はかわいらしいです。なんだかんだで、原作でも「おれ」じゃなく「ぼく」なことが多いのは、かなり萌え。グレートさんに、たまに「君」と呼ばれているのもツボ。
 あと、案外生身のときはとろい人だったんじゃないかと。運動全般、あまり好きじゃなさそうだし(スキーとスケートは日常の一部。北国の生まれなので)、きっとスポーツ観戦にも関心なし。プレミアリーグの実況中継中のパブで、サッカーに熱を上げる人たちを酔いにまかせて鼻で嗤い(ハインてそういう無神経なとこあるよな)、グレートさんが慌てて口を塞ぐも間に合わず、二人まとめて袋叩きなんて目に遭ってたら笑えます(つうかそのうち書くかも)。メンバーの中でも主戦力だし、斬り込み隊長ですが、運動神経はすべて改造されてからの後付けだったりして。役者として、マイムやダンスの修行も積んでいたであろうグレートさんのほうが、素のときはよっぽど身体のキレがよさそうです。



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