Thrill Me (2)









 30分もすると、すっかりおれたちはくつろいで、応接セットのソファに深ぶかと身を預けてしまっていた。
 極上の料理が、酔いを加速させたのか。それとも、たかが白ワイン一本などと、侮っていたのは甘かったのだろうか。3階まで、排水ダクトをよじ登ってきた疲れが出たというわけでもなかろうに、彼はとろんと目をうるませ、肉汁を吸わせたパンの切れ端を、物憂げに口に運んでいる。おれのほうはといえば、凭れかかる彼の頬の柔らかな感触を、指の先で愉しんでいた。テーブルの上の料理は、もちろんすべてふたつの胃袋の中だ。
 ふと、おれを見上げて、青いまなざしがさざなみを立てた。
 引き込まれるように、くちびるを重ねる。鴨肉の味が濃厚に残った、いつもとは異なる野趣ゆたかなくちづけ。それは、ここで煽り立ててはいけない感情を、おれたちの中に巻き起こす。淡い色彩の中に、確かな情欲の焔がともったのを見いだして、おれはいささか、うろたえた。
 「……デザートを、ほしいと思わないか?」
 ひとみの奥に燐光を燃やしながら、彼は紅い舌先をちろりとくちびるの間からのぞかせた。完璧主義のうえ、酒好きの割には甘いものにも目がない彼にしては、何故デザートを用意してこなかったのだろうと、いささか疑問に思っていたのだが……どうやらそれは、思うところあってのことだったらしい。そして、おれは彼の計略に、まんまとはまりつつある。
 ついと立ち上がり、デスクの上に残してあった紙袋を、手に取る。その中に片手を差し入れ、彼は眼の端で、おれを意味ありげに見やった。
 「デザートは……こいつさ」
 いたずらを自ら暴露する少年のように、歯を見せてにっと笑い、紙袋の底からあるものを探り出す。狙い過たず、おれの胸元に飛んできたそれは……いつも、からだを重ねるときに使う、オイルの小瓶。ご丁寧に、ラヴェンダーの精油も混ぜてきたらしい。
 「言ったろう? 今日のデリバリー・サービスは、特別なんだ」
 器用な長い指がのびてきて、見る間にネクタイを解いてしまう。右手でおれのシャツの襟をくつろげながら、左手でおれの手を取り、生成りのコットンセーターの下へと導く。素肌にじかにセーターを纏っていた肌に、おれの手のひらが触れた瞬間、ひとみの奥の燐光が、彼の全身にはじけ飛んだのが見えた。
 「こら、アルベルト……ここがどこだか、分かっているのか?」
 「分かってるさ。でも、我慢できない」
 ……あんたが、素敵だから。
 凄艶な笑みを頬に浮かべ、彼が言った。舞台に立つあんたは、最高に素敵だけれど、こうしてかっちりとスーツを着て、書類に目を通す姿も素敵だよ。どっちかっていうと、やくざな気配のほうが似合う男だと思ってたけど……考えを、改めなくちゃな。
 脳の奥から、甘やかな痺れが流れ出て、全身を満たそうとする。舌先をちろちろと見せながら、覆い被さってくる彼の魔力から、逃れられそうにない。敏感な箇所に触れるたびに、捲れあがったセーターの裾から見える脇腹を震わせる彼の姿に、理性が消し飛びそうになった、そのときだ。
 一枚板で作られた重厚なドアが、静かに、しかしはっきりとノックされた。








 「支配人、上海の新栄フーズから電話がありまして、発注していたカニ100食分とナマズ50食分、それぞれ午後の便で発送予定とのことです」
 「……ああ、分かった。明日には使えるな」
 「それから、最高級レベルの銀耳が手に入ったので、購入しないかとの誘いを受けましたが……」
 「木耳か……新栄フーズよりは四川の陳のほうが、安くいいものを回してくれるんだが……」
 そろりと、机の下から這いのぼる白い手。早く追い払ってくれと、不機嫌そうな灰色を帯びた青い目が、こちらを睨みつけていた。
 「いや、一応、押さえておこう。張大人は、新栄フーズの木耳も悪くないと言っていたしな」
 「支配人ご自身は、どう思われます? やはり、陳の木耳のほうが、上物だと?」
 どうやら、鋭敏な馬女史は、おれが仕事をさぼっていたのを、お見通しのようだ。テーブルの上に広げられたままの食器類を一瞥して、ぴくりと細い眉の端を持ち上げる。そして、おれが彼女を早く追い払いたいと思っていることも。……幸い、おれの怠慢の最大の理由は、悟られずに済んでいるようだが。
 ちらりと、机の下に視線を走らせる。窮屈そうに長身を折りたたんだ彼は、不満そうにくちびるを歪めながらも、おれの両脚に、さわさわと両手を這わせ続けている。頬っぺたを擦り付け、こちらに流し目をくれる。
 仕方ないので、左手を馬女史に分からないように、机の下の彼に与えた。しっとりと、柔らかく湿った感触が、指を包む。あたかもおれの先端を愛撫するかのような動きで、五本の指を慈しんでくれる。
 その動きが呼び起こす波を、目を瞑ってやり過ごしながら、おれは口を開いた。
 「そうだな……おれは、陳の木耳のほうが好きだが……」
 なんといっても、張大人の完成させた味を守るのが、この店の最大のモットーだからな。張大人のやっていたように、やるのが良かろう。
 納得したように、馬女史は頷いて、静かに頭を下げた。まったく、中国人ほど自国の文化に頑固な姿勢を取る連中はおるまい。おれも、仲間のパリジェンヌも、祖国の誇る文化にまつわるものにはうるさいほうだが……さすがに、中国人の料理関係者には負ける。その姿勢は、直接厨房に立たない者でも、同じことだ。
 実際、いささかやりにくい職場であることは、確かである。しかし、他ならぬ張大人の頼みで引き受けた仕事である以上、全うするのがおれの責務だろう。それに、いとしい恋人と、ふたりで暮らせるのならば、文句は言うまい。
 ただし、いきなり職場に押しかけて来て、ことに及んでしまうのは、いささか問題ではあるが。








 馬女史が支配人室の扉を閉め、二度と邪魔が入らぬように、おれが扉に鍵を二重にかけるや否や、彼は窮屈な空間から、しなやかに身をくねらせて飛び出してきた。
 もどかしく、セーターの裾を捲り上げ、ズボンを引き下ろしながら、おれにしがみついてソファの上に押し倒す。しかし、正面からおれと視線を合わせたとき、ひとみの中の焔が一瞬失せ、眉間にかすかな皺が寄った。
 「……あんたは、ずるい」
 ようやっと焦点のあった目が、おれを睨む。
 「おれはこんなになってるのに、あんたは冷静で、ちっとも乱れない。ずるいよ……」
 そんなことはなかろう、おまえさんの艶姿を見ているだけでも、結構愉しいぞと、からかってみる。しかし彼はかぶりを振って、いきなりズボンの上から、それに触れた。
 くちびるを尖らせて、彼がもう一度、おれをうらめしげに見る。そう、おれは冷静なのではない。醒めてしまったのだ。邪魔が入ってしまったおかげで。
 先ほど、馬女史が入ってくるまでは、少しずつ熱を帯び始めていたのに、今となってはすっかり項垂れてしまっていた。こればっかりは、おれ自身の意思のとおりになるとは、限らない。少しでも不安材料があれば、使い物にならなくなる。そんなものだ。
 「……だめ? やっぱりここじゃ、緊張する?」
 「おまえさんも男なら、分かるだろう。そういうもんだ、こいつは」
 すまないと、詫びの言葉を口にしながら、おれは肩を落とした。セーターの裾から見え隠れする、震える彼のつぼみを、正視できない。こんなとき、ふたりの歳の差を思い知らされる。恋人を歓ばせてやれないなど、おれも、もう……歳か。
 しかし、貪欲なおれの守護天使は、それしきのことでは諦めなかった。
 「……ねえ、じゃ、これはどうかな」
 ちろりと自分のくちびるを舐めて、彼はニヤ、と笑う。そしていきなり、ズボンの中に手を潜らせ、動かし、おれの背後をまさぐりはじめた。
 「おい、アルベルト!」
 「あんたがいつも、おれに使ってる手だろ」
 凄艶な流し目で、おれをひと睨みする。先ほどまでの乱れきった様子とはうって変わって、情欲に囚われながらも、ありあまる余裕を見せてすらいた。
 グレート。さっき、あんたはおれのこと、アルチュール・ランボォって呼んだだろ。だから、あんたのランボォになってみせるさ。
 まだ一度も、他者を受け容れたことのない部分に、彼の指が侵入する。異物感に息を飲むと、頬に花びらのような感触が、そっと触れた。……力を抜いて。そう、上手いよ。
 そうだった。冴えない中年男のヴェルレーヌは、美青年ランボォに恋をした。しかし、彼はランボォに抱かれることを望んだのだ。繊細で、柔軟な芸術家の魂は、荒々しく不遜な若い肉体を求めてやまなかったのだ。
 ピアノで鍛えた指は、驚くほど巧みだった。ゆっくりと、おれの内部を侵し、自分のからだと照らし合わせて、おれの敏感な箇所をすぐさま捜し当てる。見る間にかたちを変えたおれのその部分に、もう一方の手を添えて、彼は満足そうに微笑んだ。
 「……なかなか……、鮮やかなお手並みじゃないか」
 「教師が優秀だからね。おかげさまで」
 指が、静かに抜き去られる。オイルのボトルに伸ばした彼の手を、おれは遮りはしなかった。それが、自然な営みであると思えたために。
 息をゆっくりと吐き、彼を迎え入れる。彼がおれを受け容れたとき、どんな感触をおぼえたのか、思いを馳せながら。彼の内側に受け容れられたとき、彼がどんな風におれを慈しんでくれるのか、鮮明な記憶を辿りながら。やがて、異物感が快い律動に入れ替わり、彼をしっかりとくるみ込み、絞るおのれの動きを感じる。堪らず、すぐそばにある彼の顔を引き寄せ、くちびるを重ねた。
 内側で、彼がぶるりと震える。吐き出された余韻もそこそこに、態勢を入れ替えた。いまだ解き放たれないおのれの一部を、待ち焦がれる彼の入り口へ。慣れ親しんだ、内側へと誘い込む動き。果てまで潜り込んだそのとき、限界まで一気に引き絞られ、おれはうめき声を上げた。
 「やっぱり……おまえさんのほうが、上手だな」
 果てのない法悦に浸りながらも、陽炎の向こう側から、彼が妖艶に微笑む。何しろ、……場数を踏んでいるからね、あんたと。
 互いに極みを迎え、切れ切れの叫びを上げる。もはや、外に声が漏れ聞こえることなど、気にはならない。今このとき、互いが傍にあれば。互いの内側に入り込み、ひとつになれるのであれば。
 すべてを、忘れられる。








 「……おい、またそこから帰るのか?」
 「だって、ここへ来るのに玄関を通ってないんだぜ? また、窓から出て行くしかないだろ」
 来たときと同様、紙袋を抱えて、彼は小首を傾げておれを見やる。平静を装ってはいても、離れがたいという思いが頬の辺りに、濃厚に漂っていた。
 出来れば、一緒に帰りたい。
 ことばには出さなくとも、彼の望みは手に取るように分かる。かなりきわどい経験ではあったが、おれのために仕事を休んでまで、「特別デリバリー・サービス」をしに来てくれた彼の気持ちに、応えてやるのが礼儀というものだろう。
 手早くデスクの上を片付け、おれはジャケットとコートを取り上げた。
 「おれも、おまえさんと一緒に帰る」
 「え?」
 青いひとみを、本当にラムネ玉のように丸く見開く。驚きよりも喜びの色が勝っていることを確認して、おれは歩み寄ると、紙袋を彼の腕から受け取った。
 「実のところ、今日はもう仕事をする気力がなくてね」
 一日くらい、無断早退したっていいだろうよ。おれが結構苦労して働いてるって、おまえさんも今日知っただろう?
 「……憶えてない」
 頬に朱を散らしながら、彼は肩を竦めた。……無理もない。おれが馬女史と仕事の話をしていたとき、彼はおれのデスクの下で、熱に浮かされていたはずなのだから。
 竦めた肩を、やさしく抱いてやる。寄り添ってくるからだを、そのからだを統べる魂を、どうしていとおしいと思わずにいられよう。
 「今日は我輩の誕生日だが、エイプリル・フールでもあるしな。従業員も、冗談を介さぬほど野暮ではあるまい?」
 「……あの、堅物連中が?」
 「なに、そろそろ我輩のペースに、巻き込んでみせるさ。何から何まで妥協するのは、疲れるもんだ」
 たまには、羽目をはずさなくちゃな。
 それが、今日の情交を差しているのは、言うまでもない。腕の中の恋人は、白い喉を反らせてくすくすと微笑んだ。




  了



(4774番を踏まれた、「機械人間通り9番地」の、みの字さまからのリクエスト、「すべきでないことを、すべきでない場所でするふたり」にお応えしたもの。)




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