Twilight









 飛行機の窓から、夕暮れを眺める。東から西へと飛んでいるのだから、暮れてゆく日を追いかけているようなものだ。そのせいか、雲海の彼方へと日が沈んだ後も、空に滲んだ黄昏の色は、いつまでも褪せることはないように思えた。
 ベルリンの空港で別れた彼の、泣き崩れてしまいそうな風情を思い出す。前回、別れを惜しむあまり、飛行機に乗り遅れてしまったこともあって、今回おれは夕方の便を選んだ。こうすれば、逢瀬の最後の日も、午後まで彼と一緒にいられる。けれども、淋しがり屋の恋人は、やはり別れを嘆き、時間が過ぎるほどに我侭を言うようになった。
 一日ぐらい、仕事を休んだって、いいじゃないか。張大人のところで働いているときとは違って、今のあんたは、時間を決められて働いている訳じゃないんだろ? ならば、もっと一緒にいて。何なら、ここでしばらく居候してくれたって、……
 両腕をきつくおれの背に回し、この世の終わりのような顔をして喋りつづける彼のくちびるに、そっと触れる。それが、ストップ、のサインだということに気がついて、彼は項垂れた。白いうなじを、痛々しいほどに落として。
 仕事は、仕事だ。そりゃ、つんとすました上流階級のパーティの進行役なんざ、本意じゃないさ。けれども、仕事をくれる事務所の信頼を、裏切ることは出来ないだろう? もうちょっとなんだ……もうちょっとで、舞台にまた、立てるかもしれない。
 おれがどれだけ舞台に執着しているのかは、彼とて重々承知している。だから、彼はそれきり、口を閉ざす。しかし、いざ空港へおれを見送りに行く段になって、また彼は頑是ない子どものように、ここにいてくれと駄々をこね始めた。
 アルベルト!
 あまりに子どもっぽい我侭を振りかざすのに焦れて、おれは思わず、声を高くする。すると、彼は肩を竦めて、うらめしそうに目の端で、おれを睨んだ。
 いいよ、もう。
 大きな青い目に、涙を一杯溜めて、彼はくちびるをへの字に曲げる。電話も寄越すな。手紙なんて、もっと要らない。放っといてくれよ。次に会えるときまで、放っといてくれ。……
 次に会えるときといっても、一ヶ月後には、また逢瀬の約束をしているのだ。忙しく立ち働いていれば、一ヶ月などあっという間に過ぎてしまうと宥めても、彼は拗ねたままで、ひとことも喋らない。結局そのまま空港に着くまで、おれたちは会話すら交わさず、重苦しい沈黙の中に沈み込んでいた。
 チェックインを終えると、おれの乗るフライトの搭乗アナウンスが、もう流れ始めていた。慌しく別れなければならないことに、胸の奥がちくりと痛む。しかも、彼はまだ、臍を曲げたままだ。
 チェックインカウンターの並んだフロアの外で、ぽつねんと立ち尽くす彼のもとへ、足早に戻った。
 機嫌を、直してくれないか。
 くちびるを曲げたまま、彼はそっぽを向く。まさかこの場で、抱き寄せてやる訳にもゆくまい。こんなとき、自分たちが世に認められぬ、同性同士の恋に落ちていることを思い知らされる。罪にまみれた者だと、世の中全てから後ろ指をさされているような、そんな気分にさせられる。
 理不尽だ。単に、互いの魂に惹かれているだけだというのに。おれたちの想いは、誰にも触れられぬもののはずだ。人殺しだと、人ならざる者だと罵られても、これほどに堪えることはないだろう。異形の我々9人の手が血に染まっていることは、確かなのだから。けれども、この想いは、互いを慈しみたいというこの気持ちは、まったく別のものではないか。
 アルベルト、元気で。また、来月の終わりに。
 差し出した手に視線を落とし、渋々と、握手を返す。皮の手袋に包まれた指先が、雄弁に物語る。あんたと交わしたいのは、こんな水臭い握手じゃない。抱き合って、くちびるを重ねたいのに。手を握り合って、今すぐアパートにあんたを連れて帰りたいのに。
 せめて、と思う。せめて、抱きしめてやりたい。
 恋人同士の抱擁ではなく、仲の良い友人同士が交わすハグを、そっと与えた。背中に手を回し、ぽんぽんと叩いてやると、彼も同じ動作を返す。からだを離し、もう一度目と目を見交わして、おれは背を向ける。迂闊に振り返ってしまえば、おれの目からも、涙が零れてしまいそうになっていた。
 出国手続きのブースへ向かう一瞬前、肩越しに、そっと振り返ってみる。そこに立ち尽くしたままの彼の頬に、大粒の真珠のような涙がひとしずく、零れ落ちた。そして、そのくちびるがひそやかに動き、おれの国のことばでこう囁くのを、はっきりと見た。
 グレート、あんたが恋しいよ、と。






 永遠に続くかと思われた窓の外の黄昏は、ロンドンに近づく頃、ようやく闇の色へと溶けていった。すべての自然の色彩が、失われる瞬間。人恋しい人間たちが、色とりどりに灯す人工のあかりに、取って代わられる。
 本当は、こんなときほど、一緒にいたい。おまえを抱きしめて、そのやさしいぬくもりを感じていたい。黄昏どきくらい、淋しさを感じる瞬間はないのだから。
 切ない思いを引きずったまま、アパートに帰りつくと、暗闇の中で、小さな赤い光が点滅していた。
 その予兆は、飛行機の中から感じていた。足早に歩みより、点滅するボタンを押す。機械的な案内音の後、聞こえてきたのはやはり、深く甘味のある、彼の声だった。
 「すまない、グレート。あんな態度を取って……謝るよ。許してくれ。
 ほんとは、毎日だってあんたの声が聞きたい。手紙が欲しい。お願いだから、二、三日に一度、ううん、週に一回でいい。電話をくれないか。ぼくも電話する。だから、お願いだから……声を聞かせてくれ。
 いつも、あんたを想っている。あんたのこと、好きだから……胸が痛いくらいに、苦しくなるほど、好きだから……」
 消え入るように途切れたメッセージを、もう一度巻き戻して、再生する。ふたたび、流れ出す彼の声。口篭もるたびに、危うげに語尾が震える。もしかしたら、帰りの車の中でも、ずっと泣いていたのかもしれない。
 部屋にあかりも灯さず、電話の前で項垂れている姿が目に見えるようだ。だから、おれもあかりを灯す前に、おまえに電話しよう。
 その声を、恋しく思っているのはおまえだけではないのだと、伝えるために。









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