ため息













 ひさしぶりに降り立った日本で、研究所にいたのはギルモア博士と睡眠期間中のイワンのほかは、フランソワーズだけだった。
 ジョーはジェットとジェロニモに会いにアメリカに渡航中、張大人は店にかかりきり。ぼくの前にメンテナンスを受けにきたピュンマは、国で厄介な事件が起こったという知らせを受けて、もう一週間も前に日本を離れてしまっていた。
 「だから、今回あなたのメンテナンスの補助をするのは、わたし。軽い手術だから、ピュンマじゃなくても大丈夫だと思うけど」
 不安? と訊かれて、まさかと笑って返した。メンテナンスの補助をおこなうメンバーは、受ける者が指名できる。ぼくはいつも彼か、かつて痛みを分かち合ったピュンマを指名してきた。そのほかの者に、自分のからだを見せる気になれなかったというのが、偽らざる本音である。
 けれども、今回受けるメンテナンスは、少々特殊だった。むしろ彼女が担当してくれたのは、助かったと言うべきだろう。術後の予後観察の二日間、うわの空でぼうっと過ごしていたぼくを、彼女は放っておいてくれた。ありがたいことだ。
 成田空港での別れ際、フランソワーズはただ一度だけ、さりげなく訊いてきた。
 「ロンドンに、寄って帰るんでしょう?」
 「……ん」
 すでにぼくは左手の薬指に、日本にいる間ははずしていた指輪を戻している。彼女の前でだけは、彼への想いも、長い年月を経て親友から終生の伴侶へと変化した関係も、隠したことはない。隠す必要性すら感じなかったというのが、本当のところである。もし隠したとしても勘のよい彼女のことだ、すぐに気づいたことだろう。
 「グレートによろしくね。次は一緒に、会いに来て。たまには思い切り、フランス語でいろんなことを話したいの」
 「ピュンマとだって、フランス語で話してたんだろ。ジョーでは不満かい?」
 肩を竦めて、彼女は苦笑する。そのくせにじみ出る幸福感は、隠しようがない。
 「あれでも努力はしてくれてるんだけどね。言語のセンスないんだろうなあ、きっと」
 「とかなんとか言って、つたないフランス語がかわいいとか思ってるくせに」
 「ほんとあなたって、口が悪い。グレートと一緒にいるうちに、ますます磨きがかかったんじゃない?」
 思わせぶりな笑顔をつきあわせ、つい吹き出す。ハグとともに、互いの頬に、くちびるでそっと触れた。
 向かいのガラス窓にうつった自分の姿に、ぼく自身がまだ慣れてはいない。そういえばフランソワーズは、今回の手術で変わったぼくの見てくれについて、ひとことも触れない。誰よりも早く、彼に触れてほしいと望んでいるぼくの心の内など、とうにお見通しなのだ。
 「約束する。次は彼と来るよ」
 「きっとよ、ハインリヒ」
 その前に、非常召集がかかるかもしれないなんて野暮なことは、言いっこなしである。






 ちょっと、かがんでごらん。
 三半規管の奥に、今でもそのやわらかな声音を再生することができる。そして、ふわりと香ったシトラスのトワレ。あれはもう数十年も前のこと、はじめて彼が、ぼくに触れてくれたときのことだ。
 ツイードのジャケットの袖口が近づいてきて、目の前でぼやけた。優雅な手つきで、つまんだ欅の枯葉を示してみせ、そっと風の中に放つ。そして風で乱れたぼくの髪を、やさしく梳いて、整えてくれた。思わずこぼれてしまった小さなため息を、彼に気取られなかっただろうかと、ぼくは恐れた。胸の奥がじんわりと甘く痺れ、息をするのが、すこし苦しい。
 いい男ぶりだ、死神。
 最後にさらりと撫で、彼はいつものように渾名でぼくを呼ぶ。愛嬌たっぷりに片目をつぶってみせ、きびすを返した彼を慌てて追いながら、思わず自分の胸を押さえていた。名状しがたい、けれどもこのうえなく甘美なそのあと味の正体に、そのときはまだ気づいてはいなかった。ただ、彼に対する感情がただの友情ではないことを、そのときはじめておぼろげながら意識したのだ。
 普段は仲間に腕や肩に触れられるのもいやがるぼくが、彼の手を振り払わなかったせいだろうか。以来、彼はたびたび、ぼくの髪に触れるようになった。ぼくもぼくで、わざとぼさぼさの頭で彼の傍に寄ったりする。なんでよりによって、櫛を持っていない吾輩のところにその頭で来るかねえ、なんて苦笑しながらも、いつも髪を整えてくれる。その指先の感触を、繰り返し思い描くようになったころには、すでに彼に恋いこがれていた。
 深爪で先のひらべったい、右手に至っては銃口までついているぼくの指とは違う、楕円形の爪の、先細りの美しい指。その指が、ぼくの髪の間をすべる。頭皮に、額に触れて、時折耳朶をかすめる。やがて頬に、くちびるに、首筋の、もっと奥へ。思い描いたとおりに彼が触れ、そこへくちづけも重ねてくれるようになるまで、どれほどのため息と涙をこぼしたことだろう。 
 そして、二ヶ月ほど前のことだ。ベルリンの自宅でともに過ごすひさしぶりの休日、浮き立つ心をそのままピアノにぶつけていると、彼がいつものようにそっとぼくの髪に触れて、言った。
 ――きみは、これ以上髪を伸ばそうと思ったことはないのかね?
 ――これ、以上?
 マゼッパの出来に満足しながも、さすがに息を乱していたぼくは、首を傾けたまま、肩越しに彼を見上げる。出逢ったばかりのころ、ぼくの髪は首筋が出るほど短かったが、その後幾度かの毛髪入れ替えを経て、襟足を覆う程度にのばしていた。この長さにして、もう二十年は経つだろうか。
 ――これ以上長くすると、絡まったりして手入れも大変なんじゃないか?
 ――そのあたりは、吾輩にはなんとも。ジェットにでも、教えを乞うてみたまえ。
 ――却下。あいつに借りなんて作りたくねえよ。それに寝癖がつくのもなあ。
 ――今だって、寝癖がついたまま平気で外に出るくせに。
 ――テスコぐらいならいいだろ。それにあんたといるとき、派手なのがいくつもできるのは仕方ない。
 喉奥で、くくっと笑う声。首を後ろにもたせかけると、はしばみ色の大きな眼に迎えられた。
 ――さよう、きみの寝癖の八割がたは、吾輩の責任だろうが……。
 ほっそりとした指が、髪を梳く。耳朶をくすぐる。ここちよい。ため息がこぼれるが、今はもう、隠す必要もない。
 ――きみがピアノを弾くたびに、思い描いていた。きみがリストみたいに長い髪を乱しながら、マゼッパや雪あらしや、ため息を弾く姿をね。ぜひとも拝んでみたいものだ。
 しゃべり続けながら、指は髪から頬を伝い、くちびるに触れる。やんわりと食もうとすると、するりと逃げられた。そしていきなり、首筋を伝って、シャツの襟の奥に潜り込む。思わずするどく、息を呑んだ。
 ――きみなら長い髪もさぞや似合うだろう。どうだね?
 すでに鋭敏になっていたぼくは、ひとたまりもない。背後に立つ彼にすがりついた次の瞬間には、あっけなく床の上に転がされていた。シャツのボタンを器用に片手ではずしながら、彼はもう片方の手で、またぼくの髪を撫でる。それだけで甘い声がこぼれてしまうほどに、ぼくは昂ぶってしまっていた。
 ――これ以上、長くすると……面倒だって、言った、じゃないか。
 ――極上の美には、手間が必要なものだ。庭の薔薇と同じだよ。
 きみの薔薇も、と耳元に囁かれ、からだの奥がふるえてしまう。熱が凝り固まる。剥き出しにされた脚を大きく広げて、ぼくは性急に腫れ上がったものも、彼が薔薇のつぼみと呼ぶところも、すべてを晒す。彼がそれを丹念に手入れして、咲かせてくれるのが、待ちきれない。からだのいちばん奥深くで、熱く脈打つ彼の鼓動を今すぐ聴きたい。 
 ――それであんたを卒倒させられるなら、……悪くない、かもな。
 ――その前に、こちらで卒倒させられそうだが。
 ――なに言ってやがる。卒倒させられてるのは、いつだって、こっちのほう、だ。
 膨れてしまったぼくの根っこを、労るように彼の手が包んでくれる。けれどもどんなにやさしく扱われても、結局あの日も卒倒したのはぼくのほうだ。気がつくと、ピアノの下で重なり合ったまま、絶えいるように眠ってしまっていた。いつまでも続く薄明るい夕べのひかりに頬を白く浮き上がらせ、彼は鼻をぼくの前髪に埋めて、静かな寝息をたてていた。
 あるがままのきみが愛しいと、常々彼は言ってくれる。けれども彼がそこまで望むなら、髪を長くするのもいいかもしれないと、そのとき思った。それにぼくだって、彼の指に髪を梳かれるよろこびを、千分の一秒でも長く感じていたい。そうだ、次のメンテナンスで、さっそくのばしてみようか。そしてその足で彼のところに寄って、リストを弾いてやろう。どんな曲だってどんとこい、思いのままだ。……
 「あああ、しまった!!」
 思わず跳ね上がり、叫んでしまった。映画を観ていた隣の乗客が、ぎょっとしてぼくを見ている。丁重に謝って、勢い余ってはみ出した足を、狭苦しいエコノミーの席におさめた。髪を掻きむしりたい衝動をなんとか抑えながらも、本当は身をもんで転げ回りたい気分だった。
 ――馬鹿か、おれは!
 ロンドンの彼の部屋には、ピアノがない。ベルリンで会うときとは、勝手が違うのだ。ああもう、なんて間抜けなのだろう。これだから肝心なところでツメが甘いと、仲間たちに言われるのだ。……
 モニターのスイッチを押すと、フライトスケジュールが表示された。ヒースロー到着まで、あと三時間。胸を躍らせていた高揚感が急激にしぼむのを感じながら、ぼくは舌打ちして、暗い天井を仰いだ。






 「ほう、これはこれは」
 ヒースローの到着ゲートで待っていてくれた彼は、ぼくの姿を認めるなり、眼を大きく見開いた。
 「思ったとおりだ。すばらしく似合うよ」
 「……そうか」
 「なんだね、やけに元気がないじゃないか、死神どの」
 だってピアノがない。せっかくあんたに、この姿でリストを弾いてみせたかったのに。……渋々種明かしをしながら、自分の迂闊さ滑稽さに、ぼくはうんざりしている。彼にいいところを見せようとするあまり、幾度こうしてぶざまをさらしてきたことだろう。
 と、そのときだ。シトラスのトワレが、ふわりと香った。
 「そう、気を落としなさんな。せっかくの男ぶりが台無しだ」
 目の前でぼやける、ツイードの袖口。彼の指が髪を梳き、さらりと撫でてくれた瞬間、眼も眩むほどにあまやかな電流が、背筋を一気に貫いたのだ。
 へたり込みそうになって、慌てて彼にすがりついた。おっとっとっと、とおどけながらも、ゆるぎない腕がぼくを受け止め、支えてくれる。
 「これアルベルト、なんて顔してるんだ。よそには見せられんぞ」
 「……グレート……」
 「きみのリストは、この次ベルリンで会うときに存分に聴かせてくれたまえ。愉しみを先に取っておくのも、よいものさ。それよりも」
 今は一刻も早く、きみをさらって部屋に連れ帰りたい。……たまらない殺し文句を耳元に囁かれ、ぼくは深く熱いため息をこぼした。



   了



付記:
 ハインがなぜ、時空間漂流民編や、御大最後のゼロゼロナンバー絵のようなボブヘアになったのか、という話。リストの髪型を手本にしたとはいっても彼のこと、額は露出していません。彼が額を出さないのは、やっぱり眉があまりに薄くて人相余計に悪くみえるせいなのかと、勝手に思っています。
 実は後半、濡れ場なんて出て来ないはずだったのに、筆が滑りました。おかげでまたもや、やたらと長い話になっています。そろそろ軽妙洒脱に、タイトにまとまった話を書きたいです。



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