Wedding Song (3)









 翌々日、日曜日の午後におこなわれた結婚式のミサは、実にあっさりしたものだった。金曜日に花婿側、土曜日に花嫁側の親族と友人たちが集まって、盛大なパーティを催した後だ。年配者はミサを重んじても、若者たちはパーティに夢中になる。それはどこでも、同じことだろう。
 花嫁、花婿とは、金曜日の夜のパーティで話した。金はないが互いを思いやる気持ちだけは溢れるほどにある、すがすがしい若者たちで、ふと、日本にいるはずの我輩のよく知っている恋人たちのことを思い出す。新郎新婦だけではなく、その場にいた人びとすべてと調子に乗ってお喋りをしてしまい、お陰で彼の怒りを買うことになってしまったが……まあ、終わりよければすべてよしということに、しておこう。パーティの最後には、彼も「自慢の彼女」を連れた男の役を演じる余裕を身につけ、おれと視線を合わせ、無言で微笑みあうという、高度なアドリブをこなすまでに至った。
 いや、あるいはあれは、演技ではなかったのかな。演技ではないというほうに、100万ポンド、賭けてみようか。あるいは胸の肉一ポンドを。






 その日の夜。最近出来たという魚料理のレストランで、夕食を取った後、ちょっと遠回りして、歩かないかと彼が言った。
 どこへ行くとは、何も告げない。あてもなく街を歩くのはいつものことなので、おれは頷いて、彼と肩を並べ、歩き始めた。
 ミサの後、一度彼のアパートに戻って着替えたので、おれは自分の姿に戻っている。誰もが白い息を吐きながら、足早に歩いてゆく路上で、ここ数日人工皮膚に覆われたままの彼の指が、そっとおれの手に伸びてくる。街中で手を繋ぐなど、数年前にパリでして以来のことになるが、おれは彼をたしなめはしなかった。せっかく二ヵ月半ぶりに逢えたというのに、落ち着く暇もなく時間が過ぎてしまった。明日の午後には、おれはロンドンへ帰らねばならない。せめて、これから半日は……彼の好きなようにさせてやりたい。
 冷たい手を、いとしさを篭めて握り返す。切なさを引きずる笑顔を浮かべて、彼がおれを見やった。その頬を、撫でてやりたい。震えるからだを抱きしめて、彼の望むままに、くちづけを与えたい。誰の目をも気にすることなく、それが出来れば、どんなにいいか。
 「なあ、アルベルト」
 「……何だ」
 「おまえさん、貯金は幾らぐらいある?」
 ほうと溜息をついて、彼はかぶりを振った。
 「1万ユーロ、あるかないかってところだな。移動が多いからな、ちっとも溜まらない」
 我々の言う「移動」とは、しばしば行かねばならない日本との往復のことだ。医者などにはかかれぬ身ゆえ、半年に一度はメンテナンスを受けに、ギルモア博士のところへ行かねばならない。そのうえ、ジョーからの召集は不定期で、期間も不安定極まりない。いつか嘆いていたピュンマの表現を借りるとすれば、まったく我々ときたら、「NGO並みの奉仕的存在」である。いや、それ以上かもしれない。何しろ、NGOならば支援者からのカンパがあるが、我々にはそんなものは存在しないのだから。
 「あんたはどうなんだ、グレート」
 「おれも、おまえさんと似たり寄ったりさ。役者は、衣装代に金がかかるもんでね」
 がくりと落とした肩を包むように、彼は腕を広げる。いつの間にか、おれたちは互いの背に手を回し、寄り添って歩いていた。彼の頭が、かるくおれの肩に凭れかかっているが、あまりに自然な仕草のためか、誰も怪訝な視線をぶつけてくる者はいない。
 「……いつになったら、あんたと一緒に暮らせるかな」
 「そうだな。でも、意外と思い立てば、今すぐにでも可能かも知れないぞ」
 「今すぐ?」
 そうさ、と、おれはことばを継いだ。おれたちが、こうして寄り添い始めて、何年になる? それ以前からずっと、おまえさん、勤め先は変えていないだろう?
 「……そのことについては、おれも考えていたところだ」
 けれど、おれはあんたのお荷物になるのは、嫌だ。そんなのは、公平じゃない。
 暗い夜空を仰ぎながら、きっぱりと、彼は言う。それは分かっているさと、おれは返した。年明けに、もたらされた報せを胸のうちで反芻しながら。
 加齢とは無縁な我々は、定期的に仕事や居住地を変えなければならない。おれは幸い、見てくれを変えられる能力があるから、今のところすこし皺を増やすぐらいで、芝居を続けていられるが、その他の者はそういう訳にはゆかない。ジェットなど、ニューヨークにこだわりたいがために、何度職を変えたことか。とりわけ目立つ容貌の彼は、それゆえに苦労も多いらしい。ジェロニモは、人目に触れないようにひっそりと、アリゾナの牧場で牧童をしている。ピュンマも、もしずっとひとところで働けるのならば、もっと祖国に貢献出来るのにと、溜息をついていた。故郷への思いが人一倍強い彼は、罪悪感すらおぼえているらしい。
 確かにおれは、他の仲間たちに比べれば、恵まれている。しかし、それでも彼のためならば、今の仕事を擲ってもいい。彼の泣き顔を見るくらいなら、少しぐらいのブランクが、何だというのだ。
 「実はな、張大人が……また日本で店の手伝いをしないかって、言ってくれているんだ」
 「厨房でか? でも、もうそんな規模の店じゃないだろ」
 「いや、大人もほら、いつまでも店のオーナーが歳もとらずに同じ顔してるのを、従業員に怪訝に思われたくないのさ。だから、おれの役目は雇われオーナー。今までの店を、おれが切り盛りして、彼はしばらく引っ込んだ後、別の事業を立ち上げたいんだと。ケータリングを、始めたいらしい」
 「でもあんた、舞台があるだろう?」
 「ああ。でも……それと引き換えにしてもいいものが、ある」
 怪訝な顔をして、彼がおれを見る。その頬に、おれはそっと、指を伸ばした。
 「もし、アルベルト……おまえさんが、一緒に日本へ行ってくれるというなら、今の舞台はあきらめる」
 別にウエストエンドだけが、舞台じゃなかろう? フラン嬢だって、ヨーロッパにこだわっちゃいない。草の根バレエ団で、愉しそうに踊ってるじゃないか。機会は、いくらでも掴める。おまえさんと一緒に生きること、それが今のおれには、一番大事だ。
 双眸が、大きく見開かれる。みるみるうちにうるんでくる青いまなざしは、哀しみや淋しさではなく、恥じらいと喜びに輝いていた。
 「それは……もしかして、プロポーズか?」
 「それ以外の、何に相当する? もう充分、交際期間は経たはずだが」
 困ったように、寄せられる眉。それは、涙をこらえているせいだと、おれはよく知っている。
 そっと抱き寄せるのとほぼ同時に、彼が懐に飛び込んできた。もう、誰の目も気にならない。互いのぬくもりが、重ねたくちびるの甘さが、すべてを凌駕する。
 「返事は?」
 「当たり前だ、あんたについていく。日本だろうと、地獄の底だろうと、かまうもんか」
 「おや、日本と地獄の底が一緒だとでも?」
 「ことばの綾ってもんだ。あんたの十八番のくせに」
 そうと決まったら、式を挙げなくちゃな。
 涙を流しているくせに、彼はいたずらっぽく微笑む。そして、おれの手を取って、ぐいぐいと引っ張って歩き始めた。






 人っ子ひとり見あたらない、しんとした教会の中に入ると、彼は慣れた手つきで扉の脇の聖水盤に右手の指先を浸した。そのまま、前髪の奥へと指を差し入れ、中指の先で眉間に小さく、十字を描く。続けて、もう一度指を聖水盤に浸し、おれの額にも同じように十字を描いてくれる。ただ違ったのは、その上から、そっとくちびるを押し当ててくれたことだった。
 「おまえさん、意外と信心深いよな。車にも、ロザリオを吊るしていたろう」
 「まあな。母が熱心な信徒だったし、カトリック系のギムナジウムに入っていたから」
 白いひなぎくのように淋しげに微笑んで、彼が言う。はるか昔に亡くなった母親のことを思い出したせいもあるだろうが、何より、信心とは対極にある、自分の「死神」としての存在に、思いをはせたのは容易に想像がついた。
 薄暗い教会の中、祭壇の前まで進み、おもむろに膝をつく。そして、頭を垂れ、口の中で小さく祈りのことばを唱え始めた。天使祝詞だった。
 めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈りたまえ。
 「……アーメン」
 低い声で、祈りを捧げ終え、ゆっくりと十字を切る。おれも唱和して、十字を切った。
 「……後悔しないか?」
 「後悔? 今更何故、そんなものをする必要がある?」
 微笑んで、頷く彼。そして、首に巻いていたマフラーを解いてふわりと広げ、目深にかぶってみせた。
 ももいろのくちびるだけが、わずかに縁からのぞいている。おれは花嫁のヴェールを扱うように、そっと、マフラーの縁に指をかけ、持ち上げる。あらわれた彼の白い顔は、張り詰めた面持ちの中に変わらぬ透明な美しさを湛え、フレスコ画の中の天使が抜け出てきたようだった。
 背徳と、人は言うのだろう。同性同士、しかも、自然の摂理に見棄てられ、からだの大半を人工物に埋め尽くされた、異形の存在同士の恋。しかし、それが何だというのだ。おれが彼をいとしいと思う気持ち、彼がおれを想い求めてくれる気持ちの、どこに偽りがあろう。
 真実だ、これこそが。真実を誓うのに、何のためらいがあろう。
 壊さないように、傷つけないように、おれはそっと彼を抱き寄せる。首の後ろに、彼の両腕がするりと回された。
 「アルベルト、おまえを愛している。いつも、変わらずに……それを憶えておいてくれ」
 「忘れない。身も心も、いつだって、おれはあんたひとりのものだ。グレート……」
 愛している。誰よりも。
 指輪はなくとも、祝福を与える司祭がいなくとも、誓いの重さに偽りはない。死がふたりを分かつまで、いや、死がふたりを分かとうとも、愛している……永遠に。
 そっと、触れるだけのくちづけ。それは甘くて、すこしばかり涙の味がした。




 了




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