Welsh Rabbit朝食を取るにはすこし遅い朝、ウェルシュ・ラビットはいかがかねと、彼が訊く。耳慣れないその食べ物に、食いついたのはフランソワーズだ。 「ウサギの肉? そんな貴重なもの、日本で手に入るの?」 「どーせ冷凍だろ? それにウサギはペットじゃねーか。そんなもん食うなんて気が知れねえ。食うとこもなさそうだし」 「アメリカじゃ、ウサギは食わないのか」 ぼくが口を挟むと、ジェットは振り返りもせず、肩をすくめた。 「猟師くらいじゃねーの? 悪趣味じゃん」 それは残念なことだ、と、ぼくは腹の中で呟いた。ジェットは彼のまわりをつきまとうようにうろうろして、キッチンを物色している。 「なあなあグレート、チョコフレーク、切れてんの?」 「さあ、吾輩に訊かれてもな」 「でもよー、ウサギは勘弁だぜ。もっとましなもん、ないの?」 「文句を言うなら、食わんでよろしい。食文化については、吾輩は君より断然張大人の意見を買っているものでね。およそこの世に食えんものはないってのが、やっこさんの持論だからなあ」 「フィッシュ・アンド・チップスと小麦粉入りソーセージばっか食ってる国のおっさんに、オレの食いもんの好みについて、四の五の言われたかねーな」 「ハンバーガーを偏愛し、ケチャップが野菜だなどと珍奇な新説をぶちあげる国の若造に、わが国の大衆食について論評されるおぼえはないのだが?」 コーラのボトルをつまみあげて、ジェットが歯をむく。そんなのばっかり飲んでるから味覚も鈍るのよ、とフランソワーズに追い打ちをかけられ、そそくさと退散していった。 「で、グレート、ウェルシュ・ラビットってどんな料理なの? 早く食べたい、お腹ぺこぺこ!」 「ま、それは出てきてからのお楽しみ。ところでジョーのぶんはいいのかね?」 「うーん、そうね。さっきから、呼びかけてるんだけど……」 フランソワーズは天井をちらと見上げ、起きてこないからいいんじゃない、とだけ言った。ぼくは彼と、さりげなく視線を交わして、くちびるの端をすこしだけゆるめた。ジョーが起きてこられないのも、ぼくらがみな空腹なのも、身におぼえのあることだ。 「手伝いはいいの?」 「きみらは向こうで、午後どこに行くか決めておいてくれたまえ。ああハインリヒ、皿とナイフとフォークの用意だけ、頼むよ」 「了解」 食器の用意だけして、ぼくはフランソワーズを促し、リビングへと向かう。昨日彼と駅前の本屋で集めてきた美術展のチラシをひろげ、慌てて春画展のチラシだけ抜き取って、ファイルに隠した。見て見ぬふりをしているのか、彼女はとくに追及もせず、青磁コレクションやウフィツィ美術館展のチラシに見入っている。結局その二つをハシゴして、帰りにお茶でもして帰ろう、ということになった。 そこへ、はなやかな空気とともに、彼があらわれた。 「さあマドモワゼル・エ・ムシュー、お待たせしたね」 ウェイターよろしく、三枚の皿を器用に抱えている。喜び勇んで皿を受け取ったものの、フランソワーズはなんとも妙な顔をした。 「……これが、ウェルシュ・ラビット?」 「さよう。さ、冷めないうちに召し上がれ」 今一度、皿に穴があくほどにそれを見つめ、彼女は顔を上げる。そして、 「ウサギの肉はどこ?」 「吾輩、ウサギ料理だとはひとことも言っておらんが?」 「これ、チーズ・トーストよね?」 「むろん、ただのチーズ・トーストにあらず」 さっさと食べはじめたぼくを横目でちらりと見て、落胆の色もあらわなフランソワーズも、しかたなしにといった様子でナイフとフォークを取る。そして、端から切り分けてひと口含んだ途端、彼女は驚きの声を発した。 「……なにこれ!」 「ただのチーズ・トーストじゃないと言ったろう?」 「マスタードが利いてる! それになに? この独特なコク……」 待って、あててみせるから、と言って、また皿の上のウェルシュ・ラビットをまじまじと見つめる。しかし、考えるよりももう一度味わったほうがよいと思ったのだろう、次のひと口を待ちきれない、とばかりに頬張った。 「おいしい! ほんと、なんなのこの味? 悔しいけど、あああ、わからない! でもおいしい!」 「ギネスだよ。昨日の残りのギネスでチェダー・チーズを溶かして、マスタードを塗ったパンに乗せて焼いたのさ」 「でもなんで、ウェルシュ・ラビットなんて呼ばれてるの? 完全にお肉なしでしょ?」 「そこは吾輩にもわからんねえ。なにしろ食べ物ってのは、人類の歴史のもっとも近しく俗なる部分だ。史書をひもといても、答はみつからんよ」 ぼくも以前、同じ問いを彼にぶつけたものだ。ロンドンでパブに行くたび、ふたりして尋ねてみたが、結局わからずじまいだった。美味なるものには秘密が宿る。ささやかな秘密にときめくよろこびを、ぼくは彼から教えられ、そうして幾度、分かちあってきたことだろう。 「これ、タマネギ乗せてもいけそうね。すごい! イギリス料理を見直したわ。それともむしろ、あなたの腕前のせい?」 「マドモワゼルのお褒めにあずかり、恐悦至極」 朝からウサギのローストを期待していたらしい彼女も、ウェルシュ・ラビットの味とボリュームに大満足のようだ。上機嫌で、ここから都内の美術館に行く手段について、彼と話している。ぼくも自分が誉められたようで、朝から気分がいい。 皿は洗うから、と言うと、フランソワーズはじゃあ厚意に甘えて、と階上にあがっていった。出かける身支度もあるだろうし、なによりジョーを起こしにゆきたいだろう。恋をする者の気持ちは同じだ。皿を洗いながら、ぼくも後片付けをする彼に、そっと寄りそう。 「ごちそうさま、グレート。今日もうまかった」 「どういたしまして、アルベルト」 Mon chériと添えられて、ついキスしてしまった。彼にはやはり、ファースト・ネームとこの呼び名で呼んでもらわないと、近頃は落ち着かない。たっぷりと舌を吸いあいたかったけれど、わずかに触れるだけで我慢してくちびるを離し、笑みを交わす。ウェルシュ・ラビットの奥に、昨晩口移しに飲んだギネスの味が、かすかに残っている。 「ほんと、あんたの朝食って最高」 「おや、朝食だけかね?」 「昼も夜も、あんたが作ってくれるなら最高だよ。もちろんその後のことも」 「昨晩は、隣もずいぶん遅くまで熱が入っていたようだが」 「仲良きことは美しきかな、なんて」 彼の掌が、ぽん、と尻を叩く。からだの奥深くで、彼に昨晩さんざん愛されたところがうずきそうになって、ぼくは思わず、小さく息を呑んだ。 了 付記: 2016年10月のイベントで無料配布した小咄。 ブラウザの「戻る」で、お戻りください。 |