When You Awake (2)













 「なあグレート、買い出しって、具体的にはなにを買いに行くんだ?」
 シーツやタオルをまとめて洗い、ベランダに干しながら、おれはキッチンに向かって、声をかける。さすがにもう、裸ではない。ここに来たときに着ていたシャツや下着は、すでに彼が洗ってくれており、ベッドカバーに巻き込まれてしわくちゃになっていたズボンにも、きちんとプレスがかかっていた。
 「まずは食材。野菜に肉に魚、冷凍庫の中身すら空っぽになっちまったんだ、大々的に買わないとな。それにフライパン……」
 「ああ、フライパン」
 つい、首をすくめてしまう。こいつはおれのせいだ。昨日の朝、スクランブルド・エッグづくりに挑戦したのだが、慣れないことはするものではない。卵は炭と化し、フライパンごとゴミ箱に放り込むはめになった。
 弁償させてくれ、と言いかけて、ふと思い当たった。今朝のスクランブルド・エッグ、あれはどうやって作ったのだろう。
 「吾輩の料理の腕を、なめてもらっては困る」
 振り返り、問いを発する前に、彼は奥から出てきていた。この季節にはめずらしく、弾けるように降り注ぐ陽光に、はしばみ色の眼をしばたかせる。
 「中華鍋ひとつあれば、たいていのものは作れるもんだ。テフロン加工なんぞより、ずっとうまいものができる」
 「張大人に教わったんだろ。勝ち誇ったように言われても、なあ」
 「おっと、料理の基礎は、学生のころから心得ていたぞ。舞台役者なんぞ、芝居で食ってゆける奴はごくひと握りだ。バーテンダーと厨房の裏方は、アカデミーを卒業してからもだいぶ長くやってたな。すくなくとも、6年以上は」
 「……」
 「つまり、大人が吾輩を共同経営者に見込んだのも、そういう経験があってのこと」
 「……悪かったな、経験もなにもなくて」
 移動の多い毎日を送っている。おれには料理する習慣なんてないんだと、言い訳がましくつぶやくおれの背中をぽんぽんと叩いて、彼はまた奥に引っ込んでゆく。そのほんのわずかな所作に、心の凝り固まった部分を羽毛でやさしく撫でられたような心持ちになって、おれは素直に自分の仕事に戻った。
 ああ、それとと、また奥から声がした。
 「アルベルト、おまえさん今回は、いつごろまでいられるんだ?」
 待ってましたとばかりに、胸を張った。からになった洗濯籠を抱え、室内に戻る。
 「月末まで」
 「月末?!」
 かがんだ姿勢のまま、大きな眼を見張って、彼は固まってしまった。あきらかにうろたえている。しばしの間ののち、毛髪のない頭をつるりと撫で上げ、幾度か眼をしばたかせるさまを、おれはじっと観察した。笑い出したいのを、必死でこらえながら。
 「……よく、そんなに仕事を休めたな。なにも言われなかったのか?」
 「長距離の仕事をすすんでやる運転手は、そう多くはないからな。“不測の事態”に備えて、常日頃から点数を稼いでるのさ。それと、今の会社のオーナーはトルコ人でね。彼らは家族の絆を重んじるんだ。日本とロンドンの家族に会いにゆくって言ったら、ひと月半、ぽんと休みをくれた」
 「かぞく、ねえ……」
 そわそわと視線をシンクの底あたりにさまよわせ、彼はようやく、気づいたようだ。なんだって、と叫んで床から30cmくらい、飛び上がった。
 「ロンドン! ロンドンて、おまえさん……!!」
 ついにおれも笑いをこらえられなくなって、吹き出した。でもこれは、ほとんど照れ隠しだ。
 「日本では、ベルリン行きのチケットを取ってたじゃないか!」
 「チェックインは、ヘルシンキまでにしておいた。あんたと別れてからトランジット・カウンターに駆け込んで、急いでヒースロー行きに変更してもらった」
 実のところ、ぎりぎりまで迷っていた。けれども別れの挨拶をうわのそらで交わしながら、悟ったのだ。もうこれ以上、自分を偽り続けることはできない。このチャンスを掴まなければ、終生後悔に苛まれる、と。
 参ったな、と幾度も呟いて、彼は頭を撫で回している。同じ台詞を、おれも呟きたかった。
 ――また、欲情しちまいそうだ。
 親友だと思っていた男が、いつの間にか誰よりもいとおしい存在になっていた。彼の一挙手一投足、見つめていなければ気が済まなくなった。時の断片や貸し借りした本、一緒に観た映画や絵画や芝居だけでは満足できない。彼とすべてを分かちあって、生きてゆきたいのだ。
 「……おいおいアルベルト、おまえさん、吾輩の所持品をいくつ壊すつもりかね?」
 愉快そうな声音にはっと我に返ると、抱えたままだった洗濯籠が、腕の中で大きくひしゃげていた。慌てて元に戻そうと引っ張ると、安っぽいプラスチックの籠はあっけなく割れて、ただのゴミになってしまった。
 「す、すまん、グレート! これも弁償する!」
 「構うこたあない、どうせ安物だしな。いっそのこと、おまえさんの好みのものを選んでくれたまえ。フライパンも、洗濯籠も。おまえさん用にタオルやガウンも必要だろうしな。月末までいるなら、着替えも……」
 阿呆みたいに潰れた籠を抱えたままのおれに、彼は茶目っ気たっぷりに、片眼をつぶってみせる。いいのか、と口の中で問うと、今度はぽん、と尻を叩かれた。
 それは愛撫とはまったく違う、けれども友人としての触れあいとは、確かに別のものであった。からだのもっとも奥深いところで互いの鼓動を感じ、熱を交わした者同士だけに伝わる、信号のようなもの。そうしてほしい、と願ったまさにそのものを、彼は確実に、おれにくれる。
 ――ああ、彼でよかった。
 自分の選択が間違っていなかったことを知り、安堵する。たとえようもない幸福感に満たされる。けれども浸りきってしまう前に、彼はもう一度、尻を叩いてきた。顎をしゃくり、玄関のコート掛けに向かって、歩きはじめる。
 洗濯籠を放して、彼を追った。コート掛けから取り上げたコートに、彼の匂いがすこしばかり染み付いているように思えたのは、気のせいだろうか。






 食料と日用品を買い込み、一旦アパートに荷物を置きに戻ってから、おれたちは空腹をおぼえた。おまえさんが気に入りそうな店があるぞ、と彼が言うので、そこでサンドウィッチを買って、近くの公園で食べることにした。
 「ガーデン・デリ」などという、平凡きわまりない屋号を掲げたその店の番をしていたのは、あきらかにロンドンに来てまだ日の浅いインド人移民だった。彼はタラのフライ、おれはシュニッツェルのサンドウィッチを買い、使い捨てカップに注がれた紅茶を抱えて、公園のベンチに座る。印刷の荒い、緑とオレンジのストライプの入った包み紙を開けると、ぷんと複雑なスパイスの匂いがした。これは、シュニッツェルとは言い難い。
 「……なんだ、こりゃあ」
 ひと口食べて、眉間に皺を寄せたおれを見やって、彼はくすくすと笑っている。口の中いっぱいに、ガラム・マサラの風味がひろがっていた。しかも辛い。みれば、レタスやトマトにまぎれて、刻んだ青唐辛子が顔をのぞかせている。
 「悪くはなかろう?」
 これも現代ロンドンの一面だと、涼しい顔をして食べ続ける。まあな、と返して、おれも食べ続けた。強烈に辛いが、確かに凡百のファスト・フードを致し方なく胃に入れるよりは、ずっといい。噛み続けていると、複雑なうまみを感じてきた。
 「そっちはどうだ」
 「試してみるか?」
 差し出されたタラのサンドウィッチの、彼の歯形がついた断面に、迷わずかぶりつく。しかし、咀嚼するうちに詐欺にあったような気分になって、おれは彼を見やった。サンドウィッチをふたたび交換しながら、彼もまた、少々困ったように、眉尻を下げた。
 「……まるっきり、同じ味じゃねぇか」
 「そうだな」
 「おかしいだろ。おれが頼んだのはシュニッツェルで、あんたのはタラのフライじゃなかったか?」
 「素材は違う」
 「そりゃそうだが、こいつは……!」
 「スクランブルド・エッグを、2000年前の遺跡から出てくる遺物に変えるよりは、高度な技術だとは思わんかね?」
 シャイセ、とつい自国語で悪態をつくと、彼の肩が小さく揺れた。益体もないやりとりだが、彼としかできない会話だ。このひとときを共有したくて、ずっと彼のもとに通ってきた。これまでも、そしてきっと、これからも。
 日差しがまぶしいほどだった朝とは天気が変わり、屋外で食事をするには、少々肌寒い。自然と彼とおれも、紅茶のカップを両手で抱える格好になった。頼みもしないのに、カップの中身はインド風チャイだ。しかし、舌が縮むほど辛かったサンドウィッチの後に、過剰な甘さはむしろありがたい。
 その甘さと、ショウガの風味を愉しんでいると、彼がぽつりと呟いた。
 「おまえさんには、礼を言わなくちゃならん」
 ちらと傍らを見やると、彼はやけに真剣なまなざしを、からになったカップの底に注いでいる。照れくさくなって、なんだ、水臭ぇなとまぜっかえしたことを、おれはすぐに後悔した。
 「ふざけてなぞおらんよ、アルベルト。おまえさんに、本当に感謝しているんだ。今回、おれと一緒にいてくれたことを」
 「……」
 「今回の戦いはほら、ちょっと……いつもより過酷だったろう。だから、怖かったのさ。無事に日常生活に戻れるだろうか、とね」
 「どういうことだ、グレート」
 ゆっくりと一度、瞬きをして、彼はおれを見やる。頬がわずかにゆがみ、奥歯を噛みしめているのがわかった。
 「吾輩は臆病者だ。戦いの後は、いつも辛くなる。昔のことやら戦いの間のことやら、辛いことをいろいろと思い出しちまう。眠れなくなることもある。しばらく家に閉じこもって、外に出られなくなっちまうのさ」
 「でも、今までそんなこと、一度も……」
 「言える訳なかろう、彼らには」
 恥ずかしいだろうとは言わない。彼らには背負いきれないだろうとも言わない。ずきりと胸が疼いた。おれには、その秘密を打ち明けてくれるのか。ほかの誰にも見せない、あんたの真の姿をみせてくれるのか。
 それを確かめたくて、彼の眼を見ようとした。けれども彼は、カップの底から眼を上げない。そのまま訥々と、喋り続ける。
 「だから、……おまえさんがこの三日間、一緒にいてくれて、助かったよ。おまえさんと過ごすことで、フラッシュバックも起こらなかった。眠れなくなることもなかった。おまえさんが傍らで眠ってくれることで……おれも安心して、眠ることができたんだ」
 ありがとう、本当に。
 噛みしめるように言い、彼はそっと、右手をおれの膝に乗せる。ぽん、と叩いて、離れようとしたその手を、おれはカップを捨てて素早くつかまえ、彼を引き寄せた。
 大きく見開かれた眼を逃さぬように、まっすぐに受け止めた。うろたえて、彼は眼もとを染める。今まで彼が見せてきた幾千幾万の表情のどれとも違う、真摯で無防備な顔だった。
 「おい、こら……アルベルト。ここは外だぞ」
 「構うもんか。どうせ、誰も見てやしない」
 抗わないのをいいことに、腕の中に引きずり込んで、抱きしめてしまう。くすんだ煙草と、サンダルウッドのコロン。いつもの彼の匂いだ。
 長い年月、この匂いに憧れ、この三日間は肌に染みつくほどに慣れ親しんだ。ならばもう、この匂いごと、彼のすべてを受け止め、包み込んでしまいたい。
 「礼なんていらない。おれが勝手に、押しかけちまったんだ。グレート、あんたと離れたくなくて」
 「……」
 「これからは戦いの後、必ずあんたのところに寄る。あんたが翌朝目覚めたとき、安らかな気持ちでいられるように。拒んだって、来るからな。おれは図々しいんだ。よく知ってるだろうが」
 戦いのないときだって、しょっちゅう来るぞ、これまで以上に。
 そう言うと、彼の肩がまた、小さく揺れた。けれども今回は、笑っているだけではない。かすかに、鼻をすする音がした。
 ためらいながら、けれどもしっかりと、彼の腕がおれの背に回される。不覚にも涙が滲んできて、足元の地面にひろがった紅茶の染みが、ぼんやりとかすんだ。



   了



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