Winter in Our Blood受話器を置くとともに、また部屋のすみから、冷えびえとした静寂がひたひたと押し寄せてきた。 寒いな、とひとりごち、テーブルの上のマグカップを手に取った。のみの市で手に入れた、ちょいとばかりしゃれた茶器もあるにはあるのだが、このところはこのマグカップを使うことのほうが多い。商売道具のチョコレート菓子を買ったときに、おまけでついてきたがさつな代物だが、ひとり暮らしには重宝していた。ティー・バグを放り込み、お湯を注げばすぐに紅茶が飲める。わざわざポットを使って茶を淹れるほど、いい生活をしている訳ではない。 すっかり冷めた紅茶を啜りながら、窓の外に眼を転じる。北の町はもはや、暮色に包まれつつあった。風に乗って、教会の鐘の音が響く。三々五々、道をゆく人びとは、きっと家族そろって、夕刻のミサに出席するのだろう。 ――なんで来ないんだよぅ。あんたと飲みくらべ、しようと思ってきたのによ! 電話口で、ろれつの回らぬ口調で駄々っ子のようなことを言った、年若い友人のことを思った。 今年のクリスマス休暇は、日本には行かない。居心地のよい張大人の許を離れ、故郷で一からやりなおすと決めた半年前、おれは既にそう心に誓っていた。電話口でそう告げたときも、ものわかりのよい相棒はただ、静かな声で相槌をうっただけであった。しかし、年若い仲間たちは、口々におれの不在を悔しがってくれたらしい。クリスマスは仕事で忙しいからと告げると、わざわざ日をずらして電話をかけてきて、かわるがわるクリスマスと新年の挨拶をしてくれた。 ――しかし、ありゃあばれてたな。 すくなくとも、フランソワーズにはばれていたらしい。ホームパーティへの出張道化の仕事など、クリスマスにあるはずもない。こんな田舎の人びとは、クリスマス休暇は家族水入らずで過ごすものだ。よそ者のおれなど、お呼びではない。 ――いつもより、だいぶ人数が少なくてね。淋しいクリスマスよ。 あなたのせいだからねと、彼女はおれを、かるくなじった。へえ、あとは誰が来ていない、と問うと、彼女はこう言った。 ――あなたのお近くの人。 ――おれの、近く? ――ハインリヒよ。仕事が見つかったばかりだからって、休暇返上で働くことないのに。おかげでジェットが腐ってて、いい迷惑。お酒飲む仲間がいないって。 ――お子様に伝えといてくれ。ひとり酒のよさが分からんようじゃ、まだまだだってな。 ――ご免被るわ。酔っぱらいがこれ以上増えちゃ、それこそいい迷惑。 そのくせ、いちばん淋しそうな声音をしていたのは彼女だったように思える。おれのうぬぼれだろうか。 おれたちが、ひょんなことから家族のような関係になって、幾年経つのだろう。 よれた煙草をつまみだし、火をつけて深ぶかと吸った。誰も彼も、ひとりぼっちのさみしい人間ばかりだった。そんな連中だったからこそ、人知れず連れ去られ、人知れず人ならざるものにされてしまったのだろう。だからこそ、互いに親しみをおぼえるようになってからは、おれたちはことあるごとに身を寄せあった。クリスマスだからといっては集まり、桜が咲いたといっては集まり、たまには海辺でのんびりしようといっては集まり、にぎやかな祭があるからといっては集まった。いつのころからか、それが習いになっていたのだ。 ――だがなあ。 おれは時折、思うのだ。おれたちは家族のようでいて、やはり家族ではない。その証拠に、おれはいつも連中を笑わせようとする。愉しませようとする。舞台の上にいるときとそっくり同じに、腹の底になんの陰りもない道化を演じてみせようとする。たまにはひとりで考える時間がほしい。疲れた顔のまま、おれだって悩みはあるのだと、ソファにだらしなく寝ころんでみたいのだ。 辛辣なめまいをおぼえて、おれはくたりと床に座り込んだ。どうやら煙草が、きつすぎたらしい。そういえば、今日はろくにものを食っていなかったなと、今更ながらに気がついた。一週間も仕事がないと、たちまち不安で食い物も喉を通らなくなる。まだまだおれも、修行が必要らしい。頬をゆがめてそう思った、そのときだった。 ドアのベルが鳴った。 「……よう」 めんくらって眼をしばたかせるおれを前に、彼はいつものように角にひっかかったような、あまり見栄えのよろしくない笑顔を浮かべた。 「……なんでおまえさん、ここに」 「来ちゃ悪いのかよ」 入っていいか、とあごをしゃくる。長身を丸め、のっそりと彼が入ってくると、たちまち部屋が狭くなった。 靴を鳴らして窓辺に歩み寄ると、彼はおもむろにギロチン窓を開けた。夕暮れの冷気が流れ込み、頬を刺す。ぼんやりと突っ立っていると、彼は吸い殻で山盛りになった灰皿を手に取り、くずかごに中身を空けた。そのときようやく、おれは彼がなにやらビニール袋を片手に提げていることに、気がついた。 「火」 「……え?」 「消えてるぜ」 黒い手袋に包まれたばかでかい手が、すぐ目の前に迫ってきた。思わず息を呑んだ拍子に、くわえていた煙草がぽろりとこぼれ落ちる。それも拾ってくずかごに入れると、ようやく彼は、リラックスした表情を見せた。仲間うちでもあまり見せない、おれと酒を飲むときだけの、すこし気弱げな笑顔。 「ドネルケバブって、知ってるか、グレート」 「……なんだい、そりゃあ」 「知らねえのか。やっぱりあんた、意外と偏狭なんだな」 「どういうことだ」 憤然として返すと、彼はビニール袋のなかに手をやり、ひょいとなにかをこちらに放ってきた。慌てて受け取ると、なにやら掌のなかで、薄い紙に包まれた筒のようなものがかさばる。ねじってある片方の口を開けてみると、オリーブオイルと、独特の乳臭い匂いがした。ほんのりとあたたかい。 「来るとき、隣町のドライブインで買ってきたんだ。こんな田舎にも、ムスリムがいるんだな。イギリスも、ずいぶん変わったもんだ」 「……へえ」 「ベルリンじゃ、ずいぶん出回っててね。トルコからの移民が、屋台で売ってるのさ。忙しいときゃ、これに限る」 ちょいと遅れた、クリスマスプレゼントだ。そう言って、彼はまた笑った。勧めもしないのに、ソファの真ん中に座り込んで、大口を開けてドネルケバブとやらにかじりつく。つられておれも向かいに腰掛け、薄紙を剥いてかぶりついた。 薄く硬いパン、それにくるまれた羊肉の濃厚な味は、どうひいき目にみても若者向けで、おれの好みには合わなかった。しかし、黙々とおれは食べ続けた。咀嚼しながら、幾つもの問いが明滅する。なぜ、ここに来たんだ。フランソワーズになにか、言われたんじゃないのか。しかしそれにしては、来るのが早すぎる。もしかして、長距離の仕事の途中なのか。ならば仕事中に、こんなところで道草を食っていていいのか。なんとか掴んだ仕事を、おれのせいで首になっちまうんじゃ、こっちの立つ瀬がないじゃないか。…… 「これと似たようなやつ、おれも持ってるぜ」 ふと顔を上げると、彼はテーブルの上のマグカップを指さしていた。 「なにかの景品だろ。うちにあるのは、洗剤の広告がプリントされてる」 「ああ」 「便利だよな。コーヒーでも紅茶でも、でかいから一度に充分飲める」 「おまえさん、紅茶なんて飲むのか」 「飲むさ。たまにだけどな」 まるで酒を飲むときのように饒舌な彼を見ていて、ふと思った。きっと彼は、誰に言われたのでもなく、ここに来たのだろう。やっと自分の金で食える、その誇りを胸に、仲間達には少々意地を張ってみたくなった。身を切るような冬の寒さも、生まれ育った土地ならば懐かしい。当分おれは、ひとりで生きてみせる。さみしくはないのだと。 ――似たもの同士だな、おれたちは。 笑顔を浮かべると、彼も無言で、笑みを返してきた。吹雪に耐える木の芽のような、ぬくもりのある笑顔であった。 了 ブラウザの「戻る」で、お戻りください。 |