All Things Must Pass (1)













 「公民館の予約が取れたよ。来月の29日、午後3時から6時まで」
 海を越え、三半規管に届いた彼の声は、安堵の中にも沈んだ響きを隠せずにいた。
 あいている左手で、壁のカレンダーをめくった。来月の出番はあらかた決まっているが、週のはじめにかかってきた前回の電話の後、支配人にかけあって、月末はできるだけ空けておいたのだ。
 「29日ね。ああ……大丈夫だ。さっそく飛行機のチケットを取ろう。ところでホテルは?」
 「そっちは任せてくれ。心当たりはある」
 「前日から二泊三日で、どうだろう」
 「……ありがとう、グレート」
 噛みしめるように、彼は言う。しかし正直、三日間で足りるだとうかという危惧が、脳裏をかすめた。
 時に思う。古今東西、不老不死を望んだ者はあまたいるが、いたずらに長く生きることが、果たしてそれほど魅力的だろうかと。すくなくとも、われわれ九人の中に、そんな大それた望みを抱く者などいなかった。みな必死でその日を生き延び、いつこの世とおさらばしても、誰にも気づかれぬような者たちばかりだったのだから。
 望まぬまま肉体を奪われ、時を奪われて、こうして何十年も同じ姿のまま、影のように生きている。いつかは朽ちるだろうが、それがいつになるか、誰も知らない。いつもいつも、取り残される。生身だったころの知り合いを、いったい幾度、見送っただろうか。
 ケルン行き、と念入りにカレンダーに書き込んだ。いつものベルリン行きと、間違って買わないようにしなければ。行ってしまえば幾度訪れたか忘れるほど勝手知ったる街、行き先も、もちろん決まっている。これが最後になるだろうが。
 なぜならその場所は、来月末に閉鎖される。建物も取り壊され、あとかたもなくなるだろう。






 ケルン。われわれがあの太平洋の孤島から逃れ、それぞれの生活に一旦戻っていたころ、彼が住処に選んだ街である。移動の多い生活を送る彼は、そのままだいぶ長い年月、その街に住み続けた。ベルリンに居を移したのは、東西に引き裂かれていたドイツが統合されてから、数年経ってからのことだ。
 28日の夕刻、ケルンに到着すると、おれはまっすぐに彼が伝えてきた場所へ向かった。広場の角に面したカフェでカプチーノを注文し、通りの奥にみえる、くすんだ灰色の建物を眺める。先の大戦の折、この街はおれの国の空軍によって焦土と化した。その後の戦後復興の時代に急拵えで建てられた建造物は、近年老朽化が激しく、街のあちこちで建て替え工事が進められている。
 明日の目的地も、その建て替え工事の対象になっていた。街にいくつかある公民館のひとつで、会議室に、ピアノが置いてある。古ぼけた、時折調律のあやしいアップライトのピアノだが、歴としたスタインウェイで、しかも部屋の音響が意外なほどによい。そんなところが、彼のお眼鏡にかなったのだろう。
 数ヶ月に一度、彼は公民館や音楽教室を貸し切りにして、「本物の」ピアノを弾いてきた。練習用に家で弾いている、リサイクル・ショップで手に入れた電子ピアノでは得られぬ感覚を保つためである。おそらくは彼にとって、もっともプライヴェートなそのひとときに、おれが招き入れられたのはもうだいぶ昔の話。ほかの連中に喋ったら殺す、などと物騒なことを言われ、幾度彼の自省のひとときにつきあってきたことか。なにも知らぬ年若い仲間たちは、おれたちがつるむたび、飲んだくれて古傷を舐めあっていると思っているようだが。……
 傍らにふと、陰がさす。見上げると、帆布のバックパックを肩から下げた彼が立っていた。
 やあ、と照れくさそうなほほえみごと、立ち上がってそっと抱きしめた。仲間といるとき以外は関係を隠さずにふるまうと、どちらからともなく決めていた。向かいの席に彼を迎え、手を取り合う。人工皮膚に包まれた長い指が、しなやかに絡んできた。
 「思ったより、早く着いたようだね」
 「予定していた便よりも、ひとつ早いので来た。最後だと思うと、街もあちこち歩いてみたくなって」
 「仕事で、こっちには来ないのかね?」
 「おれはおもに、国境越えの超長距離便担当だからな。考えてみりゃ、自分の国のことはかえって、あまり知らないような気もするよ」
 あえて留守にして、眼を向けずにいたのかもしれない。そう思っても、もちろんそんなことは言わずにおく。代わりに明日、素晴らしい音色を奏でてくれるであろう両手の指を、敬意をこめて撫でた。
 もう、弾く曲は決めたのかと訊くと、彼はめずらしく得意げに胸を張り、バックパックの口を開けた。分厚い楽譜ファイルを取り出し、綴じ紐を解いて開いてみせる。眼に飛び込んできた曲名に、思わず唸った。ラフマニノフの三番、彼がもっとも愛し、そして長年わずかな時間を割いては取り組んできた、超難曲である。
 「アルベルト、まったくおまえさんは……大したもんだ」
 「今回は、あんたに報告したくて、楽譜を持ってきただけだ。本当のところは、まだちょっと自信がなくてね。時間も足りないだろうし」
 ファイルには、彼のレパートリーのほとんどすべてが入っていた。バッハにベートーヴェンはもちろんのこと、ショパンもスクリャービンもドビュッシーも、得意とする曲はすでに血肉になっているはずだ。つまり、まだなにを弾くか決めかねて、迷っているのだろう。無理もない。
 長い年月の間に、彼はほかにも、ピアノを弾ける場所を確保してきた。中には立派なグランドピアノ――ヤマハだが――を弾けるところも、音響がもっとよいところもある。しかし、もっとも思い入れが強いのは、間違いなくここケルンの公民館だった。明日はその場所との、惜別の宴になる。
 「好きなようにするといいさ、おまえさんの。とにかく、悔いの残らぬように」
 「……ん」
 憂いを含んで、こちらを見つめるブルーグレイのひとみが、あえかなうすむらさきを帯びている。音楽に身を浸すとき、そして官能にとらわれるとき、彼の静謐なまなざしにさす不思議な色。その美しさに心奪われ、この色を知るのは地上でおれひとりなのだと気付くたびに、訝しみたくなる。われわれはほんとうに、機械仕掛けなのだろうかと。
 日も暮れかけていたし、どうせ明日は痛飲するだろうからと、カフェでざっかけに夕食を取った。ホテルにチェックインし、ソファに腰掛けてまた楽譜を眺めはじめた彼を置いて、先にシャワーを浴びた。互いに日頃の疲れが溜まっているし、あまり彼の気を散らすようなことは、したくない。
 先に寝床に入り、とろとろとした浅い眠りに浸っていると、杜松の香りが鼻孔をくすぐった。素肌が触れあう。すがりついてきた彼は、おれの耳元にくちびるを寄せて、濡れた声で囁いた。
 「……抱いてくれ、グレート」
 「ピアノを弾く前の晩は、“潔斎”するんじゃなかったのか?」
 おれの手を取り、彼はおのが胸に抱く。つくりものとは思えぬいじらしい鼓動が、掌にじかに響いてきた。
 「今回は特別。あんたに愛されてから、弾きたいんだ。指先まで、骨の髄まで、あんたでたっぷり満たされて、あんたに愛されてるって、感じながら……」
 高鳴る鼓動が、掌を打つ。薬指の先に触れた、うすももいろのかわいらしい突起が、ぷくりとふくらむ。彼がそう言いつのる理由は、察しがついていた。
 「明日に響かない程度に、ね」
 身を起こし、ほんのりと上気した白いからだを腕の中に抱く。ふくらみかけた果実もあらわに、両膝でおれの腰を挟み込んで、彼は満面の笑みを浮かべた。



   (2)へ続く



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