昨日の世界 (1)













 「なあ……アルベルト」
 「んん?」
 口角がぐいと下がる。長い前髪の陰で、眉間に深い縦皺が刻まれていた。しばしの間を経て、おれは躊躇しつつ、ふたたび口を開いた。
 「その、せっかく作ってもらってこういうことを言うのは、吾輩としてはまことに遺憾なのだが……」
 「なんだよ、正直に言えよ」
 取り分けたパスタをフォークの先でかき回しながら、彼はむっつりと、返事をする。テーブルの上には、ほかにもアスパラガスとチキンの胸肉を炒めたものが乗っていた。おれも同じように取り分けているのだが、料理はいっこうに減っていない。今晩はシアター・クラブの公演を三ステージもこなして、正直帰り道で行き倒れになるのではないかというほど、腹が減っていたはずなのだが。
 「おまえさん、こいつは、いったい……」
 「ああもういい、わかってる! 後生だからグレート、みなまで言ってくれるな!」
 「……言えと言ったのは、おまえさんじゃないか」
 「あんたに言われると、余計落ち込む」
 やれやれ、勝手なことだとは言わずにおく。苦笑を浮かべたおれをじろりと睨んで、彼は勢いよく立ち上がった。乱暴に髪を掻きむしりながら、動物園の猛獣よろしく狭苦しいキッチンをうろうろと歩き回るさまは、普段滑稽さとは無縁な男であるだけに、余計に笑いを誘う。いやしかし、ここでこれ以上、笑うべきではないだろう。
 頬のゆるみをごまかすために、おれはパスタを口に運んだ。クリームパスタなのだが、なんとも形容しがたい奇妙な味がする。それに金属味を帯びた灰色をしていて、どう贔屓目にみても、食欲をそそる代物ではない。
 「無理して食ってくれなくてもいい。まずいんだろう?」
 「食い物を捨てられるか? おまえさんも吾輩も、あの大戦下で雑草を食って飢えをしのいだ世代じゃないか」
 「しかし、あんたの顔に書いてある。どうしようもなくまずい、ってな。どうせ、おれの料理のセンスは絶望的だよ」
 「わざわざ自分で宣言して、傷を広げることもなかろう?」
 「ああ、まったくだ」
 くそうと呻いて、つま先で椅子を引き寄せ、乱暴に腰を下ろす。さすがに気の毒になって、おれはつとめて軽い調子で、彼の二の腕をぽんと叩いた。
 「ま、そう落ち込むこたあない。すこしずつ、基本からおぼえればいいじゃないか。吾輩とて、最初からなんでも作れた訳じゃないんだから」
 「そうか? あんたとは、センスから根本的に違うような気がするが……」
 「重要なのは、センスより基本だよ。そもそもおまえさん、味見はしたか?」
 「味見?」
 なんのことだかわからない、という顔で、かぶりを振る。思ったとおりだ。笑いがこみあげてきて、おれは慌てて、咳払いをした。
 ついでに横目で、シンクの中を覗いた。そこにあるのは、流しの下の奥にしまっておいたはずの、年代もののアルミの鍋。アパートの備品として、もともとここにあったものだが、おれは決して使わない代物である。クリームパスタのおかしな味と色の原因は、どうやらこれのようだ。
 「あの鍋だって、なんでしまっておいたのを、わざわざ引っ張り出してきたんだ。新しいフライパンで作ればよかろう?」
 「フライパンは、チキンでふさがってた。それにでかいから、使い勝手もいいかと……」
 「アルミの調理器具は、おまえさんの国でもとっくの昔に規制されているはずだが? アルミが溶けだして、アルツハイマーの原因になるって言われてるぞ。おまえさん、ボケたいのか?」
 ええっと絶句して、彼は皿の上のパスタを凝視した。いちいちリアクションがおかしい。笑い出したいのを必死にこらえながら、これは舞台のネタに使えるぞ、などと考えてしまっている。まったく、役者とは業深い職業だ。
 ゴミ箱を引き寄せ、パスタの皿の中身を致し方なく、その中に放り込んだ。残ったチキンのほうは、やたらと塩辛いが、まだなんとか食べられる。こちらは塩の分量を間違えたか、それとも最初に入れたことを忘れて、二度入れたのか。塩味をごまかすために、トマトを切ってつまむことにした。
 「まあ……気にするな。誰にでも、失敗はある」
 「……味見はする、次から必ず。アルミの鍋も、もう使わない」
 「諦めないだけ、おまえさんは見所があるさ、アルベルト」
 ため息をついた彼の右手に、そっと触れた。
 鈍色をしてはいるが、そのかたちはかつて生身だったころの姿を、忠実にうつしている。おれよりもひと回り大きく、指の長さとしなやかさが特徴的な、彼の手指。
 ――優雅な手だ。
 包丁など握るよりも、絹の手袋で覆われるべき手。そんな世界に彼は生まれ、少年期までを過ごしてきたのだ。こんな古ぼけたキッチンで、肩を落としている姿よりも、彼が本来身を置くべき場所で輝く姿を眺めていたい。
 「なあ……アルベルト」
 不意を打たれて、素直なひとみをこちらに向けてくる。その澄んだ色にうたれながらも、おれはいそがしく、胸算用をしていた。
 さいわい、懐はあたたかい。ここ数日、毎回立ち見が出るほどの大入り満員だったせいで、支配人がチップをたんまりくれた。それに、明日明後日と出番はマチネーのみだ。べらぼうに格式高い老舗を選ばなければ、ジャケットとシャツ、それにタイを新調するくらいで、彼も出入りできる格好になる。せっかくだから、一流のテーラーで一式しつらえて贈りたいところだが、愉しみは先に取っておいたほうがよかろう。
 「気分転換という訳でも、ないんだが……」
 おれの提案を、彼はすんなりと受け入れた。わずかにほころんだ口元に安堵の色を見て取って、おれもほっと息をついた。



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